第四十七話 一万人のための石鹸
石鹸一個は軽い。
だが一万人が毎日使う量となれば、倉庫も馬車も人の手も足りなくなる。
帝国石鹸工房では、避難民の急増で石鹸の在庫が底をつきかけた。
「病院だけで使えば、町の感染が広がります」
セレナは医療用と家庭用の必要量を分けて試算した。
油の匂いが工房の床に染みついていた。
医療の理想は、職人の手荒れや夜勤の上に乗っている。
工房の帳簿には、昨日の生産量と今朝の在庫が別の数字で記されていた。
途中で割れた石鹸、乾燥が足りず出荷できない石鹸、運搬中に失われた箱がある。
セレナは「一万人分」
と書かれた発注書を見直した。
人数だけでは必要量を決められない。
診療所、共同炊事場、家庭の手洗い場で、使用する回数が違うからだ。
製造棟では、職人たちは原料の油が足りないと訴えた。
「質を落とせば皮膚を傷めます」
工房長は安全な配合を維持し、製品の種類を絞った。
工房長は職人の手を見せた。
指の関節が赤く割れ、熱い釜の縁に触れた火傷もある。
「生産を増やせと言われれば増やす。でも倒れた者の代わりはいない」
セレナは作業時間と休憩を工程表に加え、洗浄用の水と手当用品も手配した。
患者を守るための物が、作る人を傷つけていては続かない。
商人組合では、買い占めを狙う商人が倉庫を押さえようとした。
「高く売れるからではなく、必要だから作るのです」
アーデリアは公定の大量購入契約と監査を導入した。
不足を隠して配れば、次の日にもっと大きな不足が生まれる。
原料の油を増やす案には、料理用の油を回すという提案が出た。
避難民の炊事場から油を奪えば、食事の質が落ちる。
ガレスは周辺の町で余剰油を調べ、食料供給を圧迫しない範囲で調達することにした。
工房長は配合を変えず、包装を簡素にして時間を節約する。
早く作るために品質を落とすのではなく、余分な工程を減らす方針だった。
配給所では、石鹸を受け取った老人が食べ物と勘違いした。
「使い方も一緒に伝えないと意味がありません」
リゼは絵入りの手洗い札を配った。
商人組合の代表は、帝国が大量購入するなら値上げして当然だと主張した。
アーデリアは価格を一方的に命じる代わりに、原料費と輸送費を確認できる契約を提示した。
納品を分割し、品質検査に合格した分だけ支払う。
複数の工房に注文を分けると聞き、代表の表情が変わった。
独占して値をつり上げる余地が小さくなるからだ。
夕方の工房では、一万人への配布計画に向けた最初の出荷分が荷車に積まれた。
「小さな一個で、守れる人がいる」
セレナは製造番号を確認し、次の町への輸送を見送った。
配給所で老人が石鹸を口へ運ぼうとしたとき、リゼは慌てて取り上げるのではなく、隣にしゃがんで使い方を見せた。
絵入りの札には水で手を濡らすこと、泡立てて洗うこと、最後に流すことが描かれている。
文字を読めない人にも伝わるよう、子供たちに絵を見てもらって直した。
「渡した数だけでなく、使えたかどうかを聞きましょう」
工房長はセレナの試算を見て首を振った。
「この数なら作れます。ですが、乾燥が終わる前に出荷することになります」
倉庫には形の整った石鹸が並んでいる。
しかし見た目が同じでも、品質が同じとは限らない。
セレナは出荷を急がせなかった。
工房長とともに製造日を確認し、使えるものと再検査が必要なものを分ける。
必要数に足りない分は、他の工房への発注と在庫の融通で補うことにした。
「それでは値段が上がります」
と商人が言った。
「上がった理由を帳簿に残してください。払えない人に届かない仕組みなら、配り方も変えます」
避難所では、一家に一個ずつ配れば公平だという案が出た。
だが十人家族と一人暮らしでは使用量が違う。
セレナは人数だけでなく、共同の手洗い場で使う分を別に計上した。
病院では処置前後の手洗いを優先し、家庭では使い方の説明を添える。
配給所の少年が「石鹸を盗んだ」
と捕まった。
袋には二個入っていた。
係官は叱ろうとしたが、少年は「一つは寝たきりのおばあちゃんの分」と答えた。
リゼが配給簿を確認すると、祖母の名前は載っていない。
移動できない人の分が、配布数から抜け落ちていた。
リゼは少年を帰し、訪問配布の欄を作った。
「一人一個」
という簡単な規則だけでは、家から出られない人が消えてしまう。
夜、職人の一人が荒れた手を隠していた。
セレナは作業用の手袋と休憩時間を確認し、工房長に相談した。
感染を防ぐ道具を作る人が、そのために働けなくなっては意味がない。
工房長は翌日の工程表を書き直した。
配給所の入口では、手洗いの絵を見た老人が困っていた。
「この通りに洗うには、水が足りない」
セレナは石鹸だけ配っても意味がないと気づき、給水担当を呼んだ。
共同の手洗い場を診療所の近くに増やし、飲み水と洗浄用の水を混同しないよう表示する。
職人が作った石鹸を生かすには、別の仕事をする人の協力が要る。
夕方、工房長は「次は水の担当も最初から呼びましょう」と言った。
配布後の聞き取りでは、石鹸を使い切る前に失くした人もいた。
水場に置いたまま持ち去られたという。
リゼは責めず、共同手洗い場の保管方法を変えた。
配った数を成功と呼ぶのは簡単だ。
けれど実際に使えたかを確かめなければ、次の発注も間違える。
工房長は返品と不足の報告欄を帳面に増やした。
記録を見た若い職人も、明日の製造計画を自分の手で書き直した。
数日後、配給所から最初の使用報告が届いた。
手洗い場の石鹸が足りない地区と、使い切れず余っている地区がある。
リゼは次の荷車の行き先を変更し、必要な場所へ回すよう手配した。
配給所で一人の母親が、石鹸を二つ受け取ろうとして係官に止められた。
彼女は家族の分を隠しているのではなかった。
手を洗えない祖母の寝台まで、配給所から遠かったのだ。
リゼは世帯票を調べ、配給を受け取れない人への訪問班を設けた。
「公平」
は全員を同じ列に並ばせることではない。
工房長は翌日の出荷表に、訪問班の分を別枠で書き入れた。
最初の荷車が出る夕方、工房長は製造番号の帳面をセレナへ渡した。
もし不良品が見つかれば、どの箱を回収すべきか分かる。
セレナは出荷を見送り、工房の戸口に残る職人たちへ頭を下げた。
石鹸は奇跡の薬ではない。
それでも明日、手を洗える人が増える。
その積み重ねが、病院に運ばれる患者を減らすかもしれなかった。




