第四十三話 王都に残された百二十人の患者
王都へ戻ったセレナが最初に感じたのは、懐かしさではなく薬と汚水の混じった臭いだった。
十二年働いた町は、以前よりずっと静かだった。
王都の旧施療院では、救援団が到着すると、閉鎖病棟に百二十人の患者が取り残されていた。
「名簿では全員、転院済みになっています」
ユリウスは名簿と寝台を照合し、虚偽報告を見つけた。
廊下の壁には患者の名前を消した跡があった。
転院済みの印が押された名簿には、誰が押したのか分からない。
救援団が王都で活動する許可は、追加合意された医療支援区域と業務に限られていた。
セレナは旧施療院の門前で王国側監督官に書面を見せ、護衛と医療班の人数を確認させた。
彼女がこの町に戻る日を想像したことは何度もある。
だが、門をくぐった瞬間に胸を満たしたのは懐かしさではなく、窓から漂う尿と湿った寝具の臭いだった。
階段室では、運搬係は階段を上れず、寝台の患者が動かせなかった。
「先に出口を作る。誰も置いていきません」
ガレスは手すりを外して担架の通路を確保した。
最初の病室で、名簿上は転院済みの老人が「今は何月ですか」と尋ねた。
寝台の脚には紙片が結ばれ、三週間前の日付が書かれている。
ユリウスは旧名簿と現在の患者番号を並べ、数え間違いを防ぐため二人一組で照合を始めた。
百二十人という数字も、最初の巡回で確認した暫定数にすぎない。
閉じられた物置に患者がいないか、全室を調べることになった。
病棟では、看護人の老女は給金を受け取れないまま働き続けていた。
「私が帰ったら、この人たちが死ぬから」
セレナは休息要員を配置し、老女に温かい食事を渡した。
救出の成功だけを語れば、救出まで待たされた人の苦しみを消してしまう。
階段で担架を運ぼうとすると、曲がり角が狭く、患者の体が壁に当たりそうになった。
ガレスは手すりの固定具を外す前に建物の責任者へ確認し、代わりの支えを設けた。
二階から下ろせない患者は、無理に動かさず医師が診察した。
「運べる人を先に運ぶのではありません。今、移動に耐えられる人を選ぶのです」
セレナは患者の家族にも理由を説明した。
王都広場では、救出の噂を聞いた市民が病院の前に集まり、患者の家族を探した。
「名前を勝手に読み上げないで。家族の確認が先です」
リゼは受付を設けて患者の希望を確かめた。
老看護人は湯を沸かす薪を節約するため、夜間の洗濯を諦めていた。
手はひび割れ、袖には血の染みが残っている。
「給金より、代わりの人が欲しかった」
イーナは彼女に休憩を命じるのではなく、引き継ぎ表を一緒に作った。
どの患者が夜中に水を求め、誰が一人で歩こうとするのか。
老女だけが覚えていたことを紙に移すと、ようやく彼女は椅子に座った。
夜の回診では、百二十人全員を一晩で移すことはできなかった。
「今日救えた人と、明日救う人を分けるのがつらい」
セレナは優先順位を説明し、翌朝の搬送表に自分の署名を残した。
門前の市民には、家族を探す者と、疫病を恐れて病院を閉めろと叫ぶ者が混じっていた。
リゼは名前を大声で呼ぶことを禁じ、身元を示す手紙や特徴を受付で確認した。
病棟へ入る人数も制限した。
「会わせないのではありません。患者が安心して会える順序を作っています」
怒鳴っていた男は、妻の病床番号を受け取ると急に声を失った。
最初の病室で、セレナは窓際の女性に声を掛けた。
女性は自分の名前を言えたが、転院先を尋ねると黙った。
「昨日、夫が迎えに来ると言われました。でも誰も来なかった」
寝台の札には転院済みの赤印が押されている。
ユリウスはその場で札を外さず、現在の状態を別紙に記録した。
偽りの印を消してしまえば、誰が何をしたのか分からなくなる。
廊下では看護人が「動ける人から運ぶべきだ」
と主張した。
担架の数が足りないからだ。
セレナは頷きかけて、呼吸の苦しい老人に目を留めた。
歩けないことと、搬送を急ぐ必要があることは同じではない。
エドガーは呼吸状態、意識、移動時の危険を一人ずつ評価し、搬送順を決め直した。
昼、受け入れ先の病院から伝令が戻った。
「予定の十二床のうち、使えるのは八床です」
その瞬間、病棟に安堵していた空気が凍った。
セレナは患者の前で嘘の安心を告げなかった。
移せない四人のために看護配置を増やし、夜間の観察表を作る。
四人のうち一人は「また置いていかれるのか」
と泣いた。
「ここで診る人の名前を、今書きます」
イーナが自分の名を当直表に記した。
患者は紙をじっと見たあと、「朝も同じ人が来る?」と尋ねた。
「朝は別の看護人です。でも引き継ぎます」
イーナは隣に次の担当者の名前も書いた。
夕刻、廊下の隅でユリウスが立ち尽くしていた。
「名簿を見た時、数字の辻褄ばかり考えた。ここに人がいると分かっていたのに」
セレナは彼に病室の記録を渡した。
「明日、同じことが起きないようにしてください」
赦しでも叱責でもなく、仕事を託す言葉だった。
翌朝の準備中、受け入れ先の看護人から一通の返書が届いた。
搬送された患者のうち一人が、夜間に呼吸状態を悪化させたという。
セレナは移送の判断が正しかったかを調べるよう求めた。
責任者を探して責めるためではない。
次の搬送で同じ危険を減らすためだ。
ユリウスは搬送前の記録と到着時の記録を並べ、移動中の観察欄が空白だったことに気づいた。
「運べば終わりだと思っていました」
セレナは新しい様式に、途中経過を記す欄を加えた。
夜勤の看護人は、患者の名前を呼ぶ前に新しい名簿を確かめた。
以前の帳面には、誰もいない寝台の番号だけが並んでいた。
今は一人ずつ、所在と担当者が書かれている。
患者の女性は「明日はここにいるの?」と尋ねた。
「予定はそうです。変わる時は必ず説明します」
看護人は予定表を見える場所へ貼った。
明日の約束を守るための、小さな掲示だった。
夕方、移送を嫌がっていた老人がセレナを呼んだ。
「ここに残ったら、また置き去りにされるのか」
セレナは安心だと言い切れなかった。
受け入れ先も満床に近く、明日の搬送予定は天候で変わる。
「変わったら理由を伝えます。あなたの名前は消しません」
老人は長い沈黙のあと、寝台の札を自分で読み上げた。
看護人はその声を待ち、読み間違いがないことを確かめてから次の患者へ向かった。
夜、セレナは移送済み四十二人、院内で治療継続七十八人という暫定報告を作った。
搬送中に容体が変わった者がいないか、受け入れ先から返事が届くまで数字を確定しない。
ユリウスは「転院済み」
の偽印が押された名簿を封筒に収めた。
二人は過去の過ちを語る時間を持てなかった。
明日の最初の搬送を待つ患者が、扉の向こうで咳をしていた。




