第四十一話 国境の橋に、王国の旗が降りた
朝、川霧が橋の欄干を白くした。
川向こうの王国は、まだ同じ土地のはずなのに、そこへ続く道だけが別の国の時間を流れているようだった。
国境橋では、王国の暫定評議会が救援協定に署名し、検問塔の王旗を降ろし、代わりに共同救援の標識を掲げた。
「降伏ではありません。病人を通すための約束です」
セレナは署名より先に患者用の通路と担架の幅を確かめた。
協定の文字は「相互の患者保護」
と書かれていたが、橋の上で必要なのは文章よりも担架を通す幅だった。
橋の開放に先立って、王国側の指揮官は槍を持つ兵を二列に並べた。
帝国側も同じ人数を出したため、患者を運ぶはずの道が半分ふさがった。
ガレスが縄を張って通路の幅を示すと、両軍の兵士は互いの顔を見たまま、ようやく一歩ずつ下がった。
「武器を下げる命令ではありません。担架の邪魔をしない命令です」
隊長の説明に、若い兵が最初に従った。
物資倉庫では、王国側の護衛が帝国の薬箱を武器と疑って封を切ろうとした。
「疑うなら、ここで一緒に数えてください」
リゼが両国の係官に目録を読み上げ、箱を共同で封印し直した。
通行証のない老婆が列から外された。
名前を尋ねられても、老婆は夫の名前しか答えられない。
家を出る時に熱を出した夫を荷車に乗せたが、途中で亡くなったのだという。
セレナは老婆の手を取り、診療記録と身元確認を分けるよう指示した。
「名前が分からない間も、具合が悪い人は具合が悪いままです」
係官は空欄のある仮番号票を発行した。
橋の中央では、かつてセレナを追い払った門衛が列の最後に立っていた。
「あの日、あなたを止められませんでした」
セレナは謝罪を遮らず、彼に子供の搬送路を空ける仕事を頼んだ。
門衛の手は震えていた。
セレナはその震えが自分への恐怖なのか、病人への恐怖なのか分からなかった。
王国の役人は、薬箱の数が協定書の記載より少ないと抗議した。
リゼが見せたのは、前夜に使った分の払出記録だった。
橋が開く前から、河原の重症者に薬を渡していた。
「持ち逃げを疑うなら、使った患者の記録を照合してください。ただし病名まで公衆の前で読み上げないで」
王国側の記録係は唇を噛み、受領印を押した。
王国側野営地では、馬車の車輪が泥にはまり、薬の到着が遅れた。
「患者は橋の上で待てません」
ガレスは荷台を軽くして人手で引き、別の馬車を先行させた。
昼過ぎ、橋の中央で担架の脚が折れた。
患者を抱えた帝国兵が膝をつくと、反対側から王国兵が駆け寄った。
二人は言葉を交わさず、外套を丸めて患者の背中を支えた。
セレナが呼吸を確認している間、兵士たちは互いの肩を支柱にして動かなかった。
運び終えたあと、二人とも握手はしなかった。
それでも次の担架では、最初から同じ位置に立っていた。
夜の仮設診療所では、王国の少年が帝国兵の手を握って眠った。
「敵って、どこにいるの?」
セレナは答えず毛布を掛け、二国の旗の間に灯るランプを見た。
日暮れ前、門衛はセレナに古い通行記録を差し出した。
彼女が追放された日の欄には、王宮命令の番号と、同行者なしという文字が残っていた。
「消そうと思えば消せました。でも、消していいと思えなかった」
セレナはその紙を受け取らず、証拠保管の担当者を呼んだ。
彼女の名誉より先に、同じ命令で追い返された患者がいなかったか調べる必要があった。
翌朝、最初の担架が橋の中央で止まった。
王国側の通行札には患者の名前があり、帝国側の受け入れ簿には番号しかない。
付き添いの老人は字が読めず、係官が説明を重ねるほど顔色を失った。
「名前を消したわけではありません。国境を越えても同じ人だと分かる印を付けます」
リゼは札を二枚作り、一枚を老人の手に、もう一枚を担架に結んだ。
老人は震える指で札を撫でた。
「娘の名前です。間違えないでください」
セレナはその言葉を記録係に復唱させた。
だが通行が再開されると、今度は両国の兵が通路の優先権を争った。
帝国側は検疫のため全員を止めたい。
王国側は重症者だけでも先に渡したい。
どちらも病人を守ろうとしているのに、担架は動かない。
「検疫をなくすのではなく、場所を変えましょう」
セレナは橋の帝国側に仕切りを設け、呼吸器症状のある患者を別区画へ案内する案を示した。
エドガーが診察責任者として署名し、守備隊長は警備線を引き直す。
手順が決まるまで、セレナ自身も橋を渡らなかった。
昼過ぎ、さきほどの老人が受け入れ簿の前に戻ってきた。
「娘はどこです」
係官は番号を追い、移送先の病棟を示した。
老人は膝をつきそうになりながら礼を言った。
救援協定の最初の成果は、壮大な演説ではなかった。
家族が家族の居場所を知れたことだった。
王国の門衛が、夕方になってセレナを呼び止めた。
「あの日のことは、仕事をしたからといって消えませんよね」
セレナは頷いた。
「消えません。でも、今日あなたが通した患者の記録も消してはいけません」
門衛は新しい当直簿に、交代時刻と未搬送者の人数を書き込んだ。
橋の上では、荷車の列に混じって一人の少女が立ち尽くしていた。
母親の担架が先に運ばれ、少女だけが王国側に残されたのだ。
門衛は通行札を持たない少女を止めたが、リゼが母親の番号と付き添いの記録を照合した。
少女は橋を渡る間、何度も振り返った。
セレナはその手を取らず、隣を歩いた。
知らない大人に急に触れられるのが怖い子もいる。
「あの建物にお母さんがいます」
と行き先を示すと、少女は自分から歩き出した。
夕刻の報告では、搬送した患者の数だけでなく、付き添いを引き離した件数も確認項目になった。
橋の閉鎖時刻が近づくと、係官は未搬送者の名前をもう一度読み上げた。
応答のない番号が一つあり、リゼが野営地を探しに走った。
見つかったのは、母親の寝台から離れられない少年だった。
搬送を拒んだのではない。
母親が起きるまで待ちたかったのだ。
セレナは親子を同じ搬送班に組み直した。
数字を合わせるだけなら少年は「未搬送」
で終わる。
しかし理由を聞けば、明日の手順を変えられる。
翌朝の点呼で、昨日通した患者の一人が受け入れ先の名簿に載っていないと分かった。
門衛は顔を青くしたが、リゼは最後の搬送班の記録から、患者が途中で別の診療所へ移されたことを突き止めた。
無事を確認するまで「搬送完了」
に印は付けない。
門衛は自分の筆跡で追跡欄を書き足した。
かつて命令に従うだけだった男が、今は命令書にない仕事を自分から始めていた。
夜、橋の両岸で同じ時刻に灯りがともった。
野営地の患者数は、王国側と帝国側で別々に記録され、最後に共同の台帳へ転記された。
数字が合わず、係官たちは一時間も残業した。
セレナはその遅さを責めなかった。
急いで帳尻を合わせれば、また誰かが数から消える。
明日の搬送予定の最初には、今朝名前を言えなかった老婆の仮番号が記されていた。




