第四十話 王国の使者が、追放者に救援を懇願した
王国の使者は、セレナの前で深く頭を下げた。
「どうか、王国をお救いください」
その言葉を聞いても、セレナはすぐには答えなかった。
国境の会議室には、アーデリアとエドガー、補給担当のガレスが同席している。
使者の差し出した紙には、救援を求める村の名が二十以上並んでいた。
「患者数は?」
セレナが尋ねる。
「分かりません。王都からの連絡が途絶えた村もあります」
「道の安全は誰が保証しますか」
「それも……まだ」
使者の声が小さくなった。
彼は追放の命令書を持ってきた使者とは別人だった。
だが、同じ王国の紋章を胸に付けている。
「あなたを追い出した国が、助けを求める資格などないとお思いでしょう」
「資格の話ではありません」
セレナは地図を開いた。
「今、ここにいる患者は診ます。でも、王国領内へ医療班を送るなら、戻ってこられる保証が必要です」
アーデリアが協定案を差し出した。
「医療班に王国軍が命令しないこと。物資の輸送を妨げないこと。患者の国籍で診療を拒まないこと。現地責任者の署名が必要です」
「王宮の指揮系統が乱れています。誰に署名を求めれば……」
使者は枢密会議の臨時公示の写しを取り出した。
「救護評議会には物資の受領と王国側救護所の設置を認める権限があります。ただし、帝国の医療班を王国領へ入れる協定の最終承認権までは与えられていません」
アーデリアは公示の印を確かめた。
「今日の物資引き渡しは評議会と現地の検問担当で進められる。越境派遣は別の承認が要る。二つを混ぜてはいけません」
「その混乱も、救援計画に含めるべき情報です」
皇女は静かに答えた。
使者は頭を抱えた。
「村では人が死んでいます。書類を整えている間にも」
「分かっています」
セレナは言った。
「だから、今できることと、準備が必要なことを分けましょう」
彼女は二つの欄を作った。
一つ目は、国境まで運ばれた患者の診療。
すでに受け入れ体制がある。
二つ目は、王国領内への派遣。
こちらは通行保証と補給拠点が必要だ。
「王国側の救護所には、王国の資格を持つ医療者を配置してください。帝国の医療班が橋を越えるのは、双方の現地責任者による正式な通行許可と安全確認が済んでからです」
「明日の朝、橋まで来られる人は受け入れます。動けない人のためには、王国側に臨時の救護所を作ってください。必要な物資は共同で数えます」
「医師が足りません」
「王国の治癒師たちに協力を求めましょう。帝国側の指導役は、安全が確認できる国境の医療区画で受け入れます。越境指導は正式な許可が出てからです」
ガレスが割って入った。
「帝国の村でも薬が足りません。王国へ回せば、こちらの患者を待たせることになる」
使者は顔を上げられなかった。
セレナは在庫表を引き寄せた。
「だからこそ、どちらの国にも同じ基準を使います。重症度と必要量で配分する。国籍で優先順位を変えない」
エドガーが頷いた。
「病棟の責任者として、その基準なら現場で運用できる」
協議が続くなか、使者はさらに一枚の紙を差し出した。
救援対象の村名の横に、小さな文字で『通行不能』とある。
「この村には橋がありません。雨で道が崩れ、馬車が入れないのです」
「人は残っていますか」
「村長から最後の伝令が来たのは四日前です。子供が十人ほどいると」
セレナはガレスを見た。
「徒歩隊なら?」
「道が残っていれば入れる。ただし担架を運ぶには人数が要る。帰りの道が同じとは限りません」
使者は顔を伏せた。
「私たちは、王都から救援を出せませんでした」
「なぜですか」
「命令を待っていたからです。誰も責任者になりたがらなかった」
その言葉に、会議室が静まり返った。
アーデリアは協定案に新しい欄を設けた。
「現地で通行不能が判明した場合、隊長には撤退を決める権限を与えます」
「撤退したら、村の人は」
「助けに行く人まで失えば、次の隊を出せなくなります」
エドガーが答えた。
「退く判断は見捨てることと同じではありません。戻って別の経路を探すための判断です」
使者はその文言を何度も読み返した。
王国では失敗を報告することが処罰につながり、危険な道へ無理に進む者もいたという。
昼の休憩時、セレナは橋の下流を見下ろしていた。
イーナが隣に来る。
「王国へ戻りたいと思いますか」
「戻りたい場所はあるわ。でも、戻れば元どおりになるとは思わない」
「許せない人も、まだいますよね」
「いる。許せる日が来るかも分からない」
セレナは川面から目を離した。
「それでも、病人に何の責任もないことだけは分かるの」
イーナは頷いた。
王国兵を初めて診た日の、自分の震える手を思い出していた。
昼過ぎ、王国側から連絡が入った。
解任されたハロルド将軍の元副官が、現地の救護担当者との連絡調整を暫定的に引き受けるという。
軍としての通行保証ではない。
ただし、王宮の正式な承認はない。
「十分ですか」
使者が尋ねた。
「十分ではありません」
アーデリアは答えた。
「けれど、最初の救援計画を作るための一歩にはなります。通れる区間と、危険な区間を明記してください。正式な越境は現地責任者の保証を待ちます」
セレナは使者の顔を見た。
「あなたは王国へ戻りますか」
「戻ります。責任者の署名を集めてきます」
「危険ですよ」
「危険なのは、向こうで待っている人たちも同じです」
使者は初めて、顔を上げて答えた。
越境派遣の協定はまだ署名待ちだった。
一方、橋の中央での物資引き渡しについては、両国の検問担当が既存の取り決めに基づき個別に許可した。
夕方、橋の中央で最初の物資が引き渡された。
両国の係官が箱を開き、薬と包帯の数を確かめる。
リゼは受領表に記入し、王国の若い治癒師へ渡した。
「使い方が分からなければ、聞いてください」
「帝国の人に、ですか」
「患者を助けるためなら、誰にでも」
そのとき、橋の向こうから小さな馬車が来た。
中には熱を出した子供と、付き添う母親がいた。
「先生、うちの村にも病院ができますか」
母親の問いに、セレナは軽々しく約束しなかった。
「一日ではできません。でも、王国側の医療者がここで学んだことを持ち帰り、物資と人員の手配が続けば、作れる可能性はあります」
物資の引き渡しを続ける中、王国の若い治癒師が箱を受け取る際に尋ねた。
「診療記録の写しも必要ですか」
「患者本人の情報は、引き継ぎに必要な範囲だけ。誰でも読める荷札には書かないでください」
「王都からは、患者の名をすべて報告しろと」
「その命令の目的を確認しましょう。治療のためなら医療者同士で扱える。でも、追跡や処罰に使われるなら、患者を守れません」
治癒師は困った顔をしたが、やがて頷いた。
「私は、病気の人を診るためにここへ来ました」
「なら、その仕事から始めましょう」
会議の記録官は、協定案の末尾に二つの空欄を残した。
王国側の正式な通行許可と、帝国側の医療班派遣命令だ。
どちらも、まだ埋まっていない。
「署名が届く前に、現場の誰かが勝手に渡ってしまったら」
ガレスが尋ねた。
「命を救おうとしても、補給と帰路を失えば次の患者を救えません」
アーデリアは答え、国境の係官へ通知を出させた。
既存の取り決めで許された物資の引き渡しと、許可が必要な人員の越境は、別の欄で記録する。
セレナはその用紙に目を落とした。
紙一枚で人が救えるわけではない。
だが、紙一枚の曖昧さで人を死なせないための仕事もある。
その夜、使者が王国へ戻って署名を集める前、セレナは彼に一枚の用紙を渡した。
そこには、救援の成否だけでなく、届かなかった村と理由を書く欄がある。
「失敗も報告してください。責めるためではなく、次の便を届けるために」
使者は紙を両手で受け取った。
「王国では、失敗した者の名前を消してきました」
「これからは、失敗を消さずに直せる国にしてください」
彼は何も言わず、深く頭を下げた。
やがて使者は王国へ戻った。
手には謝罪文ではなく、現地責任者の署名を集めるための協定案があった。
セレナは橋の上の灯りを見つめた。
自分を追放した国を許したわけではない。
けれど、その国で苦しむ人々を見捨てる理由にもならなかった。
翌朝に予定する国境までの搬送に備え、その夜、セレナはガレスと最初の便の荷を点検した。
包帯と薬の数だけではない。
戻る馬車に空の水樽を積み、負傷者を運べる場所を残す。
正式な通行許可と安全確認が揃うまで帝国の医療班は王国領へ越境しない。
それでも、許可が届いた瞬間に動けるようにしておく。
「助けてください」と言われたとき、答えを言葉だけで終わらせたくなかった。
橋の両側で、同じように患者の名前を呼ぶ声が響いていた。
翌朝、王国側の救護評議会から最初の受領報告が届いた。
前日に渡した包帯と薬は国境の臨時救護所に届き、王国の医師が診療を始めたという。
橋を渡れない重症者三人については、現地医師が状態を記録し、搬送経路の調整を求めてきた。
「三人とも、まだ運べないのね」
「だから今朝の便には担架と水を優先する。こちら側の患者に必要な分は残した」
協定の署名はまだ揃っていない。
王子の責任も、少女の母親の行方も、決着していない。
それでも救援を求める手紙が、患者を受け入れたという報告に変わった。
セレナは受領書に記された王国の医師の名前を読み、静かに言った。
「次は、この人たちが自分たちの力で診療を続けられるようにしましょう」
救われる国に必要なのは、一人の追放者の帰還ではなかった。
患者を見捨てない人々が、国境の両側で仕事を続けられることだった。




