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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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第三十九話 王国が失ったものは、一人の治癒師ではなかった

「セレナ先生が来れば、全部治るんでしょう?」

国境の新しい診療所で、少年が尋ねた。

看護人のミラは、診察を担当する若い医師の隣で少し考えた。

「先生がいなくても、できることを増やしているところよ」

その日の午前、セレナは別の村へ出向いていた。

診療所では、ミラと若い医師が朝の診察を始める。

昨夜の熱、飲んだ水の量、呼吸の様子。

記録表に空欄があれば、勝手に埋めず本人に聞き直す。

少年の母親は驚いた。

「先生がいないのに、診てくれるの?」

「いますよ。ここに」

若い医師が笑った。

「ただし、私に分からないことは、分かる人に相談します」

その日の昼前、セレナが訪れた村では、井戸の水が濁っていた。

住民は新しい診療所を望んでいたが、井戸を修理する職人はいない。

「医者を一人置いてくれれば、何とかなるでしょう」

村長が言った。

「医者がいても、水が原因なら病人は増え続けます」

「では、医者は要らないと?」

「必要です。けれど医者だけでは足りないのです」

セレナは村の職人と話し、井戸の周りに雨水が流れ込む溝を確かめた。

原因を決めつけず、当面の飲み水を別の場所から運び、井戸の点検を依頼する。

医療の仕事が診察室の外へ広がっていく。

その日の午後、セレナが村から戻ると、帝国の会議室で医療改革の報告が始まった。

アーデリアは資料の最初の一行を読み上げる。

「セレナが救った人数、という項目は削除してください」

書記が目を丸くした。

「ですが、皇女殿下。功績を示すには……」

「一人の名で説明できるなら、病院はその人が倒れた日に止まってしまう」

アーデリアは資料を裏返した。

「代わりに、診療を続けられた日数、手洗い設備が使えた日数、薬が欠品した回数を示してください」

セレナは頷いた。

「私は何度も患者を救えませんでした。誰かが水を運び、薬を管理し、夜中に様子を見てくれたから、次の患者を診られたんです」

イーナは視線を落とした。

看護人の仕事が「補助」と呼ばれ続けてきたことを思い出した。

「私たちの名前も、記録に残るんですね」

「残すべきよ。責任も、改善点も、功績も」

しかし、制度を作るのは簡単ではない。

地方の村から来た医師が手を挙げた。

「記録表を書く時間がありません。患者が一日に百人来るんです」

「なら、最初から全部を書こうとしないでください」

セレナは最低限の項目を示した。

患者の識別、症状の変化、実施した処置、次の確認時刻。

「書類のために診察を止めるのではなく、次の人が安全に引き継ぐために書くんです」

会議で紹介された別の村の報告には、看護学校で研修を受けた看護人が水の配給量を測った出来事が記されていた。

井戸が枯れかけ、住民は帝国の医療班を疑っている。

「よそ者が水を奪っている!」

男が怒鳴った。

卒業生は反論せず、配給表を見せた。

「診療所で使った量も、村の家に配った量も、ここに書いてあります。足りない分は明日の便で補います」

「本当に来るのか」

「来なかったら、私の名前で報告してください」

男はしばらく黙り、桶を一つ運んだ。

各地の報告を聞き終え、アーデリアは会議の最後に新しい予算案を示した。

華やかな治癒術の研究費だけではなく、看護教育、記録用紙、井戸の点検、夜間搬送の連絡網に費用を割く。

「人々は目に見える奇跡を求めるでしょう」

書記が言った。

「奇跡を否定する必要はありません。ただ、奇跡が来るまで何もしない国にはしないのです」

その言葉に、セレナは深く頷いた。

彼女が帝国で築きたかったのは、自分の銅像ではなく、自分がいない夜にも明かりの消えない診療所だった。

会議の終わりに、シーラが保護担当者と現れた。

彼女は証言するかどうか、まだ迷っていた。

「私が話せば、先生の無実が分かる?」

「あなたが何を話しても、私の仕事は変わらないわ」

セレナは答えた。

「話したくなければ、今は話さなくていい」

「でも、ほかの子が私みたいになったら嫌」

少女は手に持った紙を見せた。

そこには、自分の名前と、覚えている病室の様子が書かれていた。

「これは私が覚えていることだけ。分からないところは空白にしたの」

セレナはその空白を見て、微笑んだ。

「それが、いちばん大切なことよ」


夕方、王国から使者が来た。

暫定的な調整役を名乗る男で、王宮の混乱を隠そうとしなかった。

「王国の医療院は人手が足りません。セレナ殿に戻っていただければ」

セレナは首を横に振った。

「私が戻ることと、医療が立ち直ることは同じではありません」

「では、どうすれば」

「誰が治療を受けられるかを決める規則を公開してください。死亡記録を消さないでください。看護人と医師を育ててください」

使者は手元の紙を見つめた。

「時間がかかります」

「かかります。でも、一人に頼るより、長く続きます」


ミラの診療所から急ぎの連絡が入った。

朝に診た少年の呼吸が悪くなったという。

「セレナ先生の判断を待ちますか」

伝令が尋ねる。

ミラは首を振った。

「先生を待っている時間はありません。まずエドガー先生に相談します」

ミラは症状の変化、診察時刻、処置を読み上げた。

エドガーは追加で確認すべき項目を伝え、受け入れ先の寝台を確保した。

少年は夜のうちに搬送された。

危険が去ったわけではない。

それでも、セレナの帰りを待つことで失う時間はなかった。

深夜、診療所から報告が届いた。

セレナが村を訪れていた午前中も、夕方の急変後も、診療は止まらなかった。

重症者の搬送は実施され、薬の補充も記録されていた。

彼女はその報告を読んで、ようやく安心して眠れた。


翌朝、セレナは前夜の報告書を手に、ミラに尋ねた。

「怖くなかった?」

「怖かったです。先生がいれば、と何度も思いました」

「それでも判断したのね」

「私一人ではありません。医師がいて、エドガー先生につながって、運搬係が馬車を出してくれました」

ミラは記録の余白を指した。

「でも、搬送先を探すのに時間がかかりました。次は一覧が欲しいです」

「作りましょう。今回助かったから終わり、ではないものね」


翌日、王都の救護窓口からシーラの母親についての安否照会が届いた。

以前働いていた洗濯場は閉鎖され、同僚の一人が別の避難所へ移ったことだけが分かった。

「お母さん、まだ見つからないの?」

「うん。確かな居場所は分からない。でも、調べ続けているよ」

セレナは返答を少女にも見せた。

希望を守るために、事実を隠したくなかった。

「私からも手紙を書いていい?」

「もちろん。安全な届け先が見つかったら、必ず出そう」

シーラは『お母さんへ。

私は生きています』と書いた。

封をする前に少し迷い、もう一行足した。

『今は、私を信じてくれる人たちと一緒にいます』


その夜、セレナはミラの診療所から届いた報告を読み返した。

若い看護人が患者の体温を誤記し、先輩とともに二重線で訂正した記録がある。

失敗は消されず、患者の処置は引き継がれていた。

王国が失ったものは、一人の治癒師ではなかった。

人を信じ、知識を渡し、間違いを隠さず正せる仕組みそのものだった。

セレナは灯りを消した。

自分のいない場所でも、今夜また誰かが患者の名前を呼んでいる。

取り戻す仕事は、まだ始まったばかりだ。

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