第三十七話 私を追放した院長が、膝をついた
国境の診療所に、王国の元院長が来た。
オルフェンは馬車から降りるとき、杖をつかなければ立てなかった。
疲労だけではない。
王宮で保管していた診断書の原本と、移送記録の写しを外套の下に抱えていた。
セレナは彼を見て、足を止めた。
追放を言い渡された日のことが蘇る。
医療院の廊下。
閉ざされた診察室。
誰も目を合わせなかった朝。
「何をしに来たのですか」
「謝りに来た」
オルフェンは答えた。
「そして、私が承認した死亡診断書の原本と、保管していた移送記録の写しを渡しに」
オルフェンを面談室へ案内し、記録官の到着を待つ間、セレナは廊下でイーナに呼び止められた。
「本当に、あの人と会うんですか」
「証言が必要だから」
「私なら、顔を見るのも嫌です」
「私も嫌よ」
口にした途端、セレナは自分がまだ怒っていることを思い知った。
追放の日、院長は目を合わせなかった。
あの沈黙を思い出すと、今も胸が冷える。
「だから、二人きりでは会わない。記録官に同席してもらう」
イーナは少し安心したように頷いた。
診療所の奥の面談室には、アーデリアの代理人と記録官が立ち会った。
セレナはイーナとの話を終え、診療所の患者対応を当番医に引き継いでから席に着いた。
オルフェンは一枚の診断書を机に置いた。
シーラの死亡を証明する書類。
診断医欄にはセレナの偽造署名があり、承認欄にオルフェン自身の署名があった。
「この子は生きています」
セレナが言う。
「知っている。ユリウスから聞いた」
「それでも、あなたは虚偽の死亡診断書を承認した」
「王宮から命じられた。私の家族を処罰すると脅された」
オルフェンは言葉を詰まらせた。
「だが、脅されたことは理由であって、免罪にはならない」
セレナは診断書に手を触れなかった。
記録官は持参書類の枚数と封の状態を確認し、受領目録に記した。
「王宮の保管簿との照合が済むまでは、ここにあることだけを証明します。筆跡も印章も独立した担当者が調べます」
「ヴァージ隊長の命令書は?」
セレナの問いに、アーデリアの代理人が答えた。
「宿場の医師の受領書を確認しました。王国の調査窓口へ原本の照会を出します。王子の関与を調べるには、王宮の発令簿も必要です」
少女が生きていることは死亡記録の虚偽を示す。
しかし、それだけで王子が偽造を命じたと証明できるわけではなかった。
「私が聞きたいのは、謝罪の言葉だけではありません。誰が原本を書き換え、誰が少女を移送したのか。確認できる事実を話してください」
オルフェンは持参した夜間移送簿の写しを開いた。
写しを作った日と原本の保管場所も、記録官に伝えた。
「私が署名したのは死亡診断書の承認欄だ。セレナの名が偽造されていることも知っていた。移送の命令書は見ていない。ただ、同じ日の夜に病棟から一人の子供が出された記録がある」
「それがシーラだと証明できますか」
「まだできない」
「なら、そう記録しましょう」
院長は唇を噛んだ。
セレナが自分を責めるのではなく、証拠の不足を指摘したことが、かえって痛かった。
彼は保管庫の鍵を取り出した。
「王宮の地下書庫に、移送簿とは別の入退室記録が残っているかもしれない。だが、私はもう入れない」
「鍵だけでは証拠になりません。どの扉の鍵で、いつ使われたのか、あなたの証言として残します」
オルフェンは立ち上がり、突然膝をついた。
「セレナ。私は君を守れなかった」
セレナの胸に、長く押し込めていた怒りが込み上げる。
「守れなかった、ではありません」
彼女は一語ずつ言った。
「あなたは、私を追放する書類に署名したのです」
院長の肩が震えた。
「そうだ」
「その結果、私の言葉は誰にも届かなくなった。患者の声も、同じように消された」
セレナは彼を許すとは言わなかった。
許さないとも言わなかった。
「立ってください。証言が必要です」
「君は私を憎んでいるだろう」
「憎しみがないと言えば嘘になります。でも、私が今決めるべきなのは、あなたの処罰ではない。これ以上、同じことを起こさない方法です」
廊下の向こうにシーラの姿が見えた。
少女はオルフェンに気づくと、セレナの背後に隠れた。
「会いたくない」
小さな声だった。
「会わなくていい」
セレナは即座に答えた。
「あなたが決めていいの」
少女は頷き、保護担当者と別室へ向かった。
オルフェンはその背中を追わなかった。
「謝る相手が、謝罪を聞く義務はないんだな」
「そうです」
セレナは答えた。
面談を再開すると、オルフェンは何度も「王宮が」と言いかけ、そのたびに言い直した。
「王宮から指示を受けた。だが、署名をしたのは私だ」
「その指示は口頭でしたか、書面でしたか」
「最初は口頭だ。後で封印付きの書面が来た。書面の写しは残していない」
「誰が届けたのか覚えていますか」
「王宮の使者だった。顔は覚えているが、名前は知らない」
記録官は「使者の身元未確認」と書いた。
曖昧な記憶を確かな証拠に変えないことが、真相へ近づく唯一の道だった。
休憩を挟むと、オルフェンは小さな布袋を取り出した。
中には古い院章があった。
「これを返す資格もないが……」
「持ち帰ってください」
セレナは遮った。
「私が欲しいのは、追放前の地位でも院章でもありません。シーラがなぜ死んだことにされたのか、その事実です」
「君の名誉は」
「名誉を取り戻すために、あの子に証言を強いるつもりはありません」
オルフェンは院章を袋へ戻した。
何かを差し出せば償えると考えた自分を、恥じるような仕草だった。
証言の終盤、元院長は自分が署名した文書を覚えている限り列挙した。
覚えていないものは覚えていないと述べ、推測は推測として区別した。
記録官が読み上げ、オルフェンが訂正する。
最後に、彼は一行を書き加えた。
「私は、医療院を守ると言いながら、患者を守らなかった」
セレナはその文を見つめた。
謝罪は失われた日々を返さない。
面談の最後に、記録官は証言書の草稿をオルフェンに読み聞かせた。
「ここは違う。私が見たのではない。部下から聞いた」
記録官は草稿の該当箇所に訂正を記し、変更前の記載も履歴として残した。
その後、確認済みの清書を二部作り、本人の署名を得て一部を封印した。
面談の終了を告げられたとき、オルフェンは「許してくれ」とは言わなかった。
代わりに、王宮から求められていた台帳の受領書の控えを差し出した。
「ここに署名した者から調べてほしい」。
セレナは封を開かず、記録官に預けた。
自分の怒りで証拠の扱いを変えたくなかったからだ。
許すかどうかは、今日決めなくていい。
調べるべきことは、今日から始められる。
セレナは封印された証言書を見つめた。
人が過ちを認めるのは、膝をつく瞬間だけではない。
都合の悪い言葉を消さずに残す、その先の長い時間なのだと感じた。
その日の夜、シーラは保護担当者に尋ねた。
「あの人は、もう誰かを死んだことにしない?」
「分からない。でも、同じことをさせないために、大人たちが記録を調べているの」
少女は少し考え、毛布を引き寄せた。
「じゃあ、私は明日、学校の勉強をしてもいい?」
「もちろん」
誰かの罪を暴くことより先に、子供が明日を普通に迎えられること。
それもセレナが守りたかったものだった。
だが、沈黙を破る証言は、まだ救える誰かの未来を変えるかもしれなかった。




