第三十五話 国境の診療所に、五千人が並んだ
夜明け前、見張り台の鐘が三度鳴った。
医療回廊が開かれた橋の向こうに、人の列が続いている。
荷車、担架、子供を抱く親。
最後尾は霧の中に消え、数えることすらできなかった。
「王国側の報告では、五千人ほどです」
ガレスの声は掠れていた。
「診療所の寝台は?」
「増設しても百二十。天幕を使っても二百が限界です」
セレナは門の外を見た。
「五千人を入院させるのは不可能。でも、五千人の中から急いで診なければならない人を見つけることはできます」
「宿泊はどうします」
リゼが尋ねると、ガレスは地図に印を付けた。
「歩ける人には国境の集会所と二つの倉庫を開けてもらう。医療天幕は重症者優先だ。水は軍の貯水槽だけでは足りないから、上流の井戸から補給便を往復させる。炊き出しは町の共同厨房に頼んだ」
「それでも全員分には届かないでしょう」
「届かない。到着者の数を二刻ごとに更新して補給を追加要請する。受け入れ先がない人には、安全な待機場所を案内する」
セレナは地図を見つめた。
一つの列に見えても、必要なものは一人ずつ違っていた。
最初の問題は、列が一本しかないことだった。
水を求める人も、薬を受け取る人も、診察を待つ人も同じ門へ押し寄せる。
先頭の男が怒鳴った。
「娘が死にそうなんだ! 先に通せ!」
周囲から反発が上がる。
「みんな同じだ!」
イーナが少女の顔を見て、声を張った。
「その子をこちらへ。呼吸を確認します!」
少女の唇は青白い。
男が怒鳴る力を失うほど、呼吸は浅かった。
セレナは広場に三本の縄を張らせた。
診察が必要な人、水と食料が必要な人、家族を探す人。
診察列の入口には、訓練を受けた看護人を配置する。
「立って歩ける人でも、急に悪くなることがあります。列の途中で様子が変わったら、すぐに知らせてください」
リゼは案内板を読み上げ、字の読めない人にも伝えた。
午前の終わりに受付は千二百人を超えた。
全員が患者ではない。
病人に付き添う家族、住む場所を失った人、国境を越えたことだけで泣き出す子供もいる。
セレナは人数を「診療対象」「同行者」「保護が必要な人」に分けて記録させた。
「数字を大きく見せても、寝台は増えない。必要なものを間違えないために分けるの」
水の配給所では、桶が足りなくなった。
ガレスは軍の備蓄を借りたが、兵士たちも不安を隠さない。
「明日の分まで渡したら、こちらの村はどうなる」
「帝国の村にも配ります」
セレナは答えた。
「国籍で線を引く代わりに、人数と必要量で分けます。足りないなら、足りないと報告して補給を求める」
午前の終わりごろ、診察列の奥で一人の男が崩れ落ちた。
「朝は歩いていたんです!」
付き添いの妻が叫ぶ。
顔色の悪い男は呼びかけに反応したが、立てない。
看護学校を出たばかりの青年が駆け寄り、脈を確かめようとして手を震わせた。
「どうしたら……」
「一人で決めない。すぐに担当医を呼んで」
イーナが隣に膝をつき、呼吸と意識の状態を確認した。
青年には担架の手配と時刻の記録を任せ、診療担当医に状態を報告した。
「最初に見たときは歩けた。それは間違いじゃない。状態が変わったから、判断を変えるの」
青年は頷き、患者の番号札に新しい時刻を書き足した。
列の人々は文句を言わず道を開けた。
午後、身分証のない親子が門で止められた。
「家が焼けたんです。紙なんて残っていません」
門兵は困り果てていた。
安全を守る責任があるからこそ、誰でも通すわけにはいかない。
リゼは仮登録札を差し出した。
「名前と一緒に、家族の人数、最後に住んでいた村を記録します。照合は後で。今は体調を確かめましょう」
母親は札を胸に押し当てた。
別の天幕では、赤子を抱いた母親が水の配給を断られていた。
「一人一杯と言われました。でも、この子に飲ませる分がありません」
係員は困り果てた。
「数を増やせば、後ろの人の分がなくなります」
ガレスは配給表を見直した。
人数だけで同量を配れば、公平に見えても必要量は違う。
授乳中の母親や体調を崩した人には、医療班と相談して追加分を割り当てることにした。
「勝手に渡したと叱られませんか」
「叱られるなら私が説明する」
ガレスは新しい表に署名した。
夕方、看護学校の卒業生が到着した。
まだ経験の浅い若者たちだ。
セレナは一人ずつ顔を見た。
「できることだけをしてください。判断に迷ったら、必ず上級者を呼ぶこと。英雄になろうとしなくていい」
「先生は?」
「私は、あなたたちが助けを呼べる場所にいます」
イーナが隣で頷いた。
最初に手洗いを教わった日から、ずいぶん遠くへ来た。
受付には複数の天幕を設け、名前を聞く係、状態を振り分ける係、札を渡す係を分けていた。
夕刻の報告では、前日からの累計登録者は四千八百七十六人。
診察を終えた人数とは別に数えている。
五千人というのは、到着見込みを含む数字だった。
重症者は百三十四人。
搬送先が決まらない人は二十一人。
セレナはその二十一人の欄を指した。
「ここを空白のまま夜にしない」
ガレスは周辺の村へ使者を出し、エドガーは軍の医療天幕を開いた。
夕刻の報告を受け、エドガーは重症者百三十四人の搬送先を数え直した。
「帝国軍の天幕へ二十六人、旧倉庫へ十八人。残りはここで観察を続ける。ただし夜間に悪化する人が出る」
「交代要員は?」
「二組。三組目が足りない」
セレナは看護人全員を集め、夜勤の組み合わせを変えた。
経験の浅い者だけで一つの天幕を担当させない。
休息時間を削りすぎない。
倒れた医療者を増やせば、明日の患者が診られなくなる。
「私たちも寝ていいんですか」
青年が尋ねた。
「寝るのも仕事です。あなたが明朝、正しく判断するために」
日が落ちるころ、門の外にまだ列が残っていた。
最後尾の老人は、自分の番が来るのは明日だと知って怒らなかった。
「わしは歩ける。先にあの担架を通してやってくれ」
セレナは老人の手の冷たさを確かめ、今夜の待機場所と再診の時刻を伝えた。
歩ける人を放置することも、救援ではない。
五千人という数は、誰か一人の英雄が抱えられる重さではなかった。
だからこそ、列の入口から寝台の横まで、判断をつなぐ人間が必要だった。
夜勤に入る前、イーナは新人の青年に水差しを渡した。
「自分の分も飲んで」。
青年は首を振った。
「患者さんが足りないのに」。
イーナは静かに答えた。
「あなたが倒れたら、患者さんを運ぶ手が一つ減るの」。
青年はようやく水を口にした。
遠くでは新しい荷車の音がしていた。
今夜の仕事を続けるために、誰もが少しずつ自分を守らなければならなかった。
夜勤の交代表には、医師の名前の横に必ず看護人と搬送係の名前を記した。
重症者百三十四人のうち、どの患者がどこにいて、誰が状態を確認するのか。
イーナは二十一人の搬送先未定欄に、空欄のまま印を付けさせなかった。
「まだ決まらないなら、決まっていないと書いて。最後に確認した時刻も」
新人が尋ねた。
「それでは、何も進んでいないように見えませんか」
「見えたほうがいいの。進んでいないことが分かれば、次の当番が動ける」
夜更け、近隣の医療天幕から二台の荷車が到着した。
受け入れられる人数は多くない。
それでも、誰を乗せるかは声の大きさではなく、担当医が確認した状態と搬送中の危険で決められた。
深夜、朝の少女の父親が診療所の外で待っていた。
少女はまだ危険な状態だが、呼吸を助ける処置を受け、医療者の監視下にいる。
「俺、みんなを押しのけようとした」
「娘さんを助けたかったんですね」
「ほかの子も、同じだった」
父親は水桶を運ぶ列に加わった。
翌朝の引き継ぎで、イーナは「昨日の受付五千人」と書きかけた新人の筆を止めた。
「五千人は列の推計。受付を終えた人数と、診察した人数は別にして」。
新人は三つの欄を作った。
誇らしい数字を一つ書くより、誰がまだ待っているか分かる帳面が必要だった。
セレナはその帳面を見て、ようやく次の当番へ仕事を託した。
翌朝も、橋の向こうには人がいた。
セレナは帳面を閉じず、次の頁を開いた。




