第三十三話 皇女が、王国に医療協定を突きつけた
交渉室に入ってきた王国使節は、椅子に座る前に言った。
「帝国の兵が王国領内に入ることは認められません」
「医療班も、ですか」
アーデリアは問い返した。
「軍医は軍人でしょう」
「では、王国側の医師と共同で診療する案を出します」
机上には三枚の地図がある。
患者が通れる道、荷車が通れる道、両軍の検問所。
どれも線が途中で切れていた。
先月、国境へ逃れてきた人々を受け入れたときは、橋を通すだけで精一杯だった。
だが今は王国の村に残る病人へ物資を届ける必要がある。
「薬だけを渡せば済む話です」
使節が言った。
「受け取った薬がどこへ行くか、確認できなければ済みません」
セレナが応じる。
「同じ村に三度届いて、隣の村には一度も届かない。そんな配り方をしたら、薬があっても助からない人が出ます」
使節は眉をひそめた。
「患者名簿を帝国に渡せと?」
「いいえ。患者の名前は医療者だけが扱う。外交官に渡すのは、地区ごとの患者数と物資の受領数です」
セレナは別紙を差し出した。
診療記録と物資の監査記録を分ける案だ。
「患者の秘密を守ることと、物資の行き先を確かめることは両立できます」
王国側の若い書記官が紙を読み、口を開いた。
「王都から離れた村には、読み書きのできる者がいません」
「なら、箱ごとに札を付けます。届け先の村長と医療担当者が印を押す。印がなければ、次の便で確認に行く」
「偽の印を押されたら?」
「だから、患者数の報告と突き合わせるんです」
セレナは即答せず、書記官の懸念を紙に加えた。
午後、交渉を妨げたのは軍務担当の男だった。
「帝国は王国が弱った隙に橋を奪うつもりだ」
ガレスが立ち上がりかける。
アーデリアは手で制した。
「橋の管理権は変えません。検問は両国の兵がそれぞれの側で行う。医療用の通路に武器を持ち込まない。必要なら、私の署名も入れます」
「皇女殿下の署名だけで、現場の兵が従う保証は?」
「保証するために、あなた方の将軍の署名が必要なのです」
王国側は沈黙した。
将軍ハロルドは難民を追い返す命令に反対している。
彼に権限を与えれば、王子との対立が深まる。
アーデリアはその事情を理解したうえで、期限を切った。
「明朝までに、医療回廊を守る現地責任者を示してください。示せないなら、橋の帝国側での救援は続けますが、王国領内への派遣はできません」
休憩時間、王国の書記官が一人でセレナに近づいた。
「弟が王都の外で亡くなりました。医療院の台帳に名前がありません」
彼は唇を噛んだ。
「私は王国の役人です。それでも、弟の名前を残してほしい」
「調査の窓口を作ります。あなたの弟だけでなく、名前を失った人全員のために」
書記官は深く頭を下げた。
夜、使節は修正案を持って戻った。
最初の救援対象は国境に近い三つの村。
期間は七日。
医療班の安全、物資の共同確認、患者の秘密保持。
恒久的な協定ではない。
「これでは足りない」
ガレスが呟く。
「足りないわ」
セレナも認めた。
「でも、明日届けられる薬がある」
署名までの休憩時間、ガレスは廊下で積荷の一覧を広げた。
「三つの村へ七日分。これ以上増やすなら帝国側の備蓄にも手を付ける必要があります」
「王国側は輸送用の馬を出せるのかしら」
アーデリアが尋ねると、書記官は首を横に振った。
「軍の馬は徴発できません。商人の馬車は感染を恐れて道を避けています」
「では、軍馬の要求は協定に入れない。王国側が運搬を担う区間を短くして、橋で積み替えましょう」
セレナは地図に赤い点を三つ打った。
橋、旧税関、村の集会所。
患者を運ぶ道と物資を運ぶ道を同じにすると、荷車の往来が救急搬送を塞ぐ。
二本の経路を分ける案を加えた。
「現場が混乱したら、誰が止めるんです」
「両側に一人ずつ責任者を置きます。意見が割れたら、患者の通行を止めずに責任者同士で協議する」
書記官は一度筆を置いた。
「王国では、決める人が一人でなければ責任を問えないと教わりました」
「だから二人とも名前を書くのです」
再開した会議で、王国の軍務担当は新たな条件を出した。
「救援隊が持ち込む紙には、帝国の紋章を入れるな」
「物資の出所を隠せということですか」
「民が帝国の施しを受けたと知れば、王宮の権威が揺らぐ」
アーデリアは静かに言った。
「箱に書くのは薬の名称、量、使用期限、届け先です。私の名も、王子の名も必要ありません」
その提案に使節は言葉を失った。
争っていたのが患者の利益ではなく、誰が救ったことにするかだったと気づいたからだ。
最後の条文を確認する際、セレナは一点だけ譲らなかった。
「症状が重くなった患者を、許可証がないという理由で橋の途中に留めないでください」
「身元確認を省けば、犯罪者が混ざる」
「身元確認は行ってください。ただし診察と並行して。呼吸の止まりかけた人を、紙のために待たせないで」
書記官はその条文を読み上げた。
使節は疲れた顔で頷いた。
窓の外では、最初の箱に白い荷札が結ばれていた。
そこに書かれたのは国の名前ではなく、届け先の村と必要な薬の量だった。
アーデリアは署名の前に最後の一条を読み上げた。
「患者の国籍、身分、過去の所属を理由として診療を拒んではならない」
使節は長く目を伏せ、ようやく印を押した。
橋の手前では、最初の患者をどちらの医師が診るかで係官が揉めていた。
アーデリアは署名したばかりの協定を持って外へ出た。
「共同診療の条文は、飾るために書いたのではありません」。
王国の医師が患者の熱を測り、帝国の看護人が飲み水を渡した。
使節はその光景を見つめ、条文に署名するより、現場で守る方が難しいと知った。
署名後、王国の書記官は弟の名前を書いた小さな紙をセレナに渡そうとした。
「これは外交文書には入れません」。
セレナは受け取る前に説明した。
「調査窓口へ持っていきましょう。あなたの立場にかかわらず、ほかの遺族と同じ順序で調べます」。
書記官は安堵と落胆の入り混じった顔で頷いた。
特別扱いされないことが、初めて救いに感じられた。
使節の一人は署名のあと、手袋を外して額の汗を拭った。
「七日後はどうする」。
アーデリアは答えた。
「七日間の記録を見て決めます。続けるにも変えるにも、根拠が要ります」。
交渉は終わりではなく、最初の検証の始まりだった。
扉の外で待つ荷車の車輪が、動き始めた。




