第三十二話 黒熱病の死者が、一万人を超えた
「一万人を超えた可能性があります」
報告官の声が、帝国の国境司令室に落ちた。
アーデリアはすぐに立ち上がらなかった。
机上の紙には「推計一万二百~一万千八百」とある。
王国全土の確定死亡者数ではない。
教会の埋葬記録、街道を越えてきた証言、医療院の記録の欠落を補った暫定推計だった。
「同じ人を二度数えていないでしょうね」
「村名と埋葬日が一致するものは除きました。ただ、記録のない村が二十七あります」
「なら、確定と書かないで。誤差も一緒に公表します」
報告官は集計表を裏返した。
「対象は王国の国境六州、流行が報告された最初の週からの八週間です。埋葬台帳と医療院の記録で本人を照合できた分を基礎に、記録が途切れた地域は直前の報告傾向から幅を持たせて推計しました。行方不明者を全員死亡と数えたわけではありません」
「記録のない二十七村は?」
「不確実性が大きいと注記しました。新しい報告が来れば上下どちらにも修正します」
「一万人を超えた可能性と、確定していないことを同じ大きさの文字で出しなさい」
セレナは数字より先に地図を見た。
王国側の峠には白い印が残っている。
三日間、連絡がない村だ。
「ここに人が生きているかどうか、まだ分からない」
補給担当のガレスが答えた。
「馬車は峠を越えられません。崩れた道を直すには四日。徒歩なら一日半ですが、運べる荷物は少ない」
「まず水を浄化する道具と、患者を分けるための布を」
「薬は?」
「必要です。でも、水を飲めずにいる人へ薬箱だけ届けても救えない」
そこへ一人の王国人が運び込まれた。
靴底が剥がれ、足の爪が黒く変色している。
「ベルナの北の村から来ました。まだ人がいます」
男は地図の白い印を指した。
「何人?」
「昨日の朝は三十六人。夜に二人亡くなりました。今朝は分かりません」
その数字が刻々と変わるという事実が、セレナには何より重かった。
男は救助隊に同行すると言い張った。
だが立つこともできない。
セレナは膝をつき、足を診た。
「あなたの話は隊員に伝えます。道順も聞きます。でも、あなたは今、治療が必要です」
「俺が行かないと、橋の手前で迷う」
「地図に描いて。曲がる場所の石の形まで」
男は震える指で線を引いた。
途中に井戸があること、井戸の水を飲んだ家で先に病人が出たことを付け加える。
セレナは印を付けた。
感染源はまだ確定していない。
だが、調査すべき場所が一つ増えた。
出発する隊は六人。
護衛二人、医療者二人、運搬担当二人。
道具を減らせば救助人数が増えるが、救助する側が倒れれば誰も帰れない。
「六人では少なすぎます」
リゼが言った。
「そうね。でも十人を送り込んで食料が尽きたら、十人とも危ない」
セレナは帰還時刻を決め、峠の入口に待機班を置いた。
出発隊が戻らなければ、後続隊は状況を確認してから動く。
夕刻、医療院に一人の少女が現れた。
王国から逃れてきた家族の子で、腕に弟の上着を抱いている。
「弟は、数字の中に入っていますか」
誰も答えられなかった。
名簿に名前がないからだ。
「入っていないなら、死んだことにならないの?」
セレナは少女と同じ高さにしゃがんだ。
「亡くなったことが軽くなるわけじゃない。名前と、最後に会った場所を教えて。確認できるまで勝手に決めないから」
少女は長い時間をかけて弟の名前を話した。
救助隊の出発準備が続く間、ガレスは倉庫の前で荷札を並べていた。
水を運ぶ樽には重さがある。
布にも薬にも限りがある。
帳面に線を引くだけで道が開くなら、どれほど楽だろう。
「村の人数が三十六なら、持っていく飲み水はこれで足りるでしょうか」
若い運搬係が尋ねた。
「足りるとは言えない。生存者が増えるかもしれないし、道中で隊員も飲む」
「では倍に?」
「倍にすれば担架が積めなくなる」
ガレスは一度荷を降ろし、峠の入口まで運ぶ隊と、そこから徒歩で入る隊に分けた。
途中で戻れる場所に補給を残す。
命を救う仕事が、荷車の車輪と革紐の強さに左右されることを、誰も笑わなかった。
一方、救助隊を送り出した日の午後には、アーデリアのもとへ王国から抗議文も届いていた。
『死者一万人との虚偽の宣伝は、王国の威信を傷つける』
使者は震える手で封筒を差し出した。
「公表を取り下げれば、国境の検問を緩めると」
「推計に誤りが見つかれば訂正します。でも、交渉のために数字を変えることはしません」
アーデリアは回答の末尾に、集計方法と未確認の村の一覧を添えさせた。
王国側にも検証に参加する道を残したのである。
「数字を争うより、一人でも多く確かめましょう」
セレナはそう言い、調査用紙の空白を指で押さえた。
その夜、少女は弟の上着を枕元に置いて眠った。
セレナは保護担当者に、確認が終わるまで少女へ安易な希望も死亡の断定も伝えないよう頼んだ。
「どちらも、後で取り消せない言葉になることがあります」
その慎重さは冷たさではない。
名前を失った人に、もう一度勝手な結末を与えないためだった。
救助隊の出発から四日目、峠の入口で待機していた連絡班を通じ、最初の報告が届いた。
徒歩で一日半かかる道の先で生存者を確認し、伝令が戻るまでにさらに時間が必要だった。
先遣隊は村にとどまり、救助を待つ人々の容体を見ているという。
翌朝までに、生存者二十九人のほかに、避難の途中で別の集落へ移った家族の情報も集まった。
数はまだ動く。
アーデリアは地図の印を一つ塗り替え、隣の白い村を指した。
「この村の人は、もう安全なのですか」
リゼの問いに、ガレスは首を横に振った。
「見つかっただけだ。二十九人全員を連れ出せたわけじゃない。歩けない七人を運ぶ担架も足りない」
「だったら、青い印では誤解されます」
アーデリアは地図の凡例を書き直した。
青は「生存確認」、緑は「避難完了」。
色の違いを、次の会議に出る全員が読める場所へ掲示する。
「救ったつもりにならないための印ね」
セレナは頷いた。
「次はここです」
ガレスは眠そうな目で頷き、次の救援に使う荷車の車軸を確かめに向かった。
次の村へ出発する隊員の一人は、妻に渡すつもりだった手紙をガレスへ預けようとした。
「戻ったら返してください」。
ガレスは受け取らなかった。
「帰還時刻を決めたのは、そのためだ。お前が戻ってから自分で渡せ」。
隊員は笑ったが、靴紐を結び直す手は震えていた。
救援とは勇敢さだけで成り立つものではない。
戻るための約束を守る仕事でもあった。
次の救助隊の出発を見送った少女は、弟の上着を握りしめていた。
セレナは隣に立ったが、何も約束しなかった。
ただ、伝令が戻ったら必ず知らせると伝えた。
少女は小さく頷き、地図から目を離さなかった。
村の名を一文字ずつ読み上げ、弟が最後にいた家の場所を指した。
伝令係はその情報を控え、次の救助隊へ引き継ぐことを約束した。
第一報の内訳は、村で確認した生存者二十九人、うち自力で歩けない者が七人。
二十二人もまだ安全な場所へ避難できたわけではなく、死亡者の確認も終わっていない。
アーデリアは新しい数字を報告書に追記させた。
推計の一万人という見出しは変わらない。
けれど地図の白い印は一つだけ青くなった。
「数字は明日も変わります」
セレナは言った。
「変わらないようにするべきなのは、救うのを諦めないという約束です」
二十九人のうち七人は歩けず、搬送にはさらに人手が要る。
先遣隊が救助を終えたわけではなかった。
ガレスは地図に「救出済み」とは書かず、「第一次接触」と記した。
セレナもその言葉に頷いた。
見つけることと、安全な場所まで連れてくることは違う。
数字が一つ増えるたび、まだ終わっていない仕事も一つ見えるのだった。
司令室の外では、次の村へ向かう荷物が積まれていた。




