第三話 貧民街で倒れた少年を、セレナは見捨てられなかった
ベルナの町にたどり着いたとき、セレナの靴底は半分剥がれていた。
王都を追放されてから四日。
最後の銅貨は、途中の宿場で買った干し肉と飲み水に消えた。
昨夜は馬小屋の軒下を借り、冷たい風に震えながら夜を明かした。
足には靴擦れ。
外套は泥だらけ。
まともな食事も、昨日の昼から取っていない。
「……やっと着いた」
セレナは町の門を見上げた。
国境の町ベルナ。
王都から追放された者や、仕事を失った者が集まる町だと聞いていた。
門の石壁にはひびが入り、衛兵の詰め所も古びている。
町へ入る荷車は少なく、出ていく荷車の方が多かった。
門番はセレナの身なりを一瞥しただけで、何も尋ねなかった。
王宮にいた頃なら、最高位治癒師の銀環を見せるだけで、どこの門でも通れた。
今は誰も、セレナが何者なのか気にしない。
それが少し寂しく、同時に気楽でもあった。
町へ入ると、湿った土と煮炊きの煙の匂いが漂ってきた。
狭い通りには露店が並び、粗末な服を着た人々が行き交っている。
セレナはまず、働き口と寝泊まりできる場所を探すつもりだった。
だが
「ノア! ノア、しっかりして!」
悲鳴が聞こえた。
セレナは反射的に顔を上げた。
露店の前に、人だかりができている。
その中心で、一人の少年が地面に倒れていた。
七歳か八歳ほど。
痩せた体。
赤く火照った頬。
乾ききった唇。
母親らしい女性が、少年の背中を支えている。
「お願い! 誰か、お医者様を!」
女性の声は震えていた。
しかし、周囲の人々は遠巻きに見ているだけだった。
「施療所へ連れていけよ」
「金がなきゃ診てもらえねえだろ」
「うちだって、そんな余裕はない」
誰も近づこうとしない。
セレナは人垣をかき分けた。
「通してください!」
地面に膝をつく。
「私はセレナ。この子のお母さん?」
女性が顔を上げた。
「は、はい……リゼと申します」
「お子さんの名前は?」
「ノアです。八歳で……」
「診てもいい?」
リゼはセレナの手首を見た。
そこには銀環がない。
「……治癒師様、ですか?」
セレナは一瞬、言葉に詰まった。
四日前までなら、迷わず頷けた。
だが今は、資格を剥奪されている。
「以前、王都の医療院で働いていました」
嘘はつかなかった。
「今は治癒魔法を使えません。でも、できる手当てがあります」
リゼの目に涙が浮かんだ。
「……お願いします」
少年の頭を支え直す。
「息子を、助けてください」
その声を聞いた瞬間、セレナの中で何かが切り替わった。
疲労も空腹も、いったん意識の外へ押しやる。
今は目の前の患者だ。
セレナはノアの呼吸を確かめた。
速い。
浅い。
額には汗が浮かんでいるのに、手足は冷たい。
唇は乾き、目も落ちくぼんでいた。
呼びかけると、かろうじて目を開ける。
「ノア。私の声が聞こえる?」
「……うん」
「お名前を言える?」
「……ノア」
声は弱々しい。
セレナは脈を確かめた。
速く、弱い。
危険な状態だった。
「リゼさん。いつから具合が悪いの?」
「一昨日の夜からです。何度もお腹を下して……昨日から吐くようになって……」
「今日は?」
「朝から立てなくなりました。水を飲ませても吐いてしまって……」
リゼは泣きながら続けた。
「施療所へ行ったんです。でも、先に銀貨一枚払えって……」
セレナは唇を噛んだ。
銀貨一枚。
貧しい家庭にとっては、何日分もの食費に相当する。
「お金がないって言ったら、帰れって……!」
リゼの声が崩れた。
「私、どうしたらいいか分からなくて……!」
「分かったわ」
セレナはリゼの肩に手を置いた。
「まず、ノアを日陰へ移しましょう」
周囲を見回す。
「誰か、手を貸してください!」
人々は動かなかった。
見知らぬ女が、突然指示を出している。
誰も責任を負いたくないのだろう。
セレナは立ち上がった。
「この子は、今、命の危険があります!」
通りに声が響いた。
「水を失いすぎているんです。このままでは、意識を失うかもしれません!」
露店の老人が顔を上げた。
「……そんなに悪いのか?」
「ええ。すぐに医療者の処置が必要です。搬送を手伝ってください!」
老人は椅子をどけた。
「うちの裏に屋根がある。そこで休ませろ」
「ありがとうございます!」
セレナは周囲の人々に声をかけた。
「そちらの方、施療所へ走ってください! 重い脱水症状の子供がいると伝えて!」
「お、おう!」
「荷車を貸せる方はいませんか? 歩かせずに運びたいんです!」
今度は二人の男が動いた。
セレナはノアを日陰へ移し、横向きに寝かせた。
呼吸が妨げられないようにする。
額の汗を拭い、衣服を緩める。
「ノア。もう少しだけ頑張ってね」
少年はかすかに頷いた。
セレナはリゼへ尋ねた。
「便に血は混じっていた?」
「いいえ」
「ほかに具合の悪い人は?」
「……隣の家の子も、昨日から寝込んでいます」
セレナの手が止まった。
「ほかには?」
「洗濯場の女の人も……その前には、向かいの家のおじいさんが……」
複数の患者。
似た症状。
発症時期も近い。
偶然の可能性はある。
だが、見逃せない情報だった。
「飲み水は、どこから?」
「市場の裏にある共同井戸です」
セレナは周囲を見た。
通りの脇には、黒ずんだ排水が流れている。
市場から出た汚水が、狭い溝を通って裏手へ続いていた。
井戸と関係があるかどうかは、まだ分からない。
それでも、調べる必要がある。
セレナは研究ノートを取り出した。
『ベルナ南区。
下痢・嘔吐・発熱を伴う患者が複数発生。
共通水源の可能性あり』
そう記してから、ノアへ視線を戻した。
今は調査より、目の前の命が先だ。
「水を沸かせますか?」
セレナは露店の老人に尋ねた。
「火ならある。水もあるぞ」
「飲用に使える水をお願いします。沸かしたあと、冷ましてください」
「分かった」
老人が鍋を火にかけた。
セレナはリゼに向き直った。
「ノアは、たくさんの水分と塩分を失っています」
「……塩分?」
「ええ。水だけでは足りないことがあるんです」
セレナはノートの一頁を開いた。
そこには、以前から研究していた経口補水の配合が記されていた。
安全な水一リットルに対し、砂糖を小さじ六杯、塩を小さじ半杯。
ただし、これは正確に量れる場合の目安であり、量を誤れば危険もある。
セレナは老人に尋ねた。
「薬を量るための秤はありますか?」
「乾燥薬草用の小さな秤ならある」
「貸してください」
セレナは秤の状態を確認し、ノートに記した分量を慎重に量った。
水が冷めてから、砂糖と塩を溶かす。
ただし、ノアはすでに重い脱水症状を示していた。
経口補水だけで十分とは限らない。
セレナは施療所からの返事を待ちながら、意識と飲み込む力を繰り返し確認した。
「ノア。少しだけ飲めそう?」
「……うん」
少年は目を開けた。
セレナは小さな匙を使い、ごく少量を口へ運んだ。
喉が動く。
一口。
二口。
三口目で、少年が咳き込んだ。
セレナはすぐに手を止めた。
「無理しなくていいわ」
「……ごめんなさい」
ノアがかすれた声で言った。
セレナは目を見開いた。
「どうして謝るの?」
「お母さん……困らせてるから……」
リゼが息を呑んだ。
「ノア……!」
少年は目を閉じかけながら、呟いた。
「ぼくが……病気にならなかったら……お母さん、パン買えたのに……」
セレナは胸が締めつけられた。
八歳の子供が。
命の危険にさらされながら。
自分の治療費ではなく、母親の食費を心配している。
リゼは少年を抱きしめようとして、涙をこぼした。
「そんなこと言わないで……!」
「お母さん……」
「パンなんか、いらない……!」
リゼの声が震えた。
「あなたが生きていてくれれば、それでいいの……!」
セレナは二人を見つめた。
王宮では、高価な治癒薬が毎日のように使われていた。
貴族の小さな傷に、金貨数枚分の薬が処方されることさえあった。
それなのに。
この母親は、息子を診てもらうための銀貨一枚すら持っていない。
セレナは拳を握った。
怒りが湧いた。
王子に対する怒りとは、少し違う。
目の前に救えるかもしれない命があるのに、金がないという理由で医療が届かない。
そんな仕組みそのものへの怒りだった。
「ノア」
セレナは少年の手を握った。
「お母さんが欲しいのは、パンじゃないわ」
少年が薄く目を開けた。
「……なに?」
「あなたが元気になって、一緒にご飯を食べてくれることよ」
ノアの目に涙が浮かんだ。
「……ほんと?」
「ええ」
セレナは微笑んだ。
「だから、今は生きることだけ考えて」
そのとき、通りの向こうから声が聞こえた。
「施療所の人を連れてきたぞ!」
セレナは顔を上げた。
ようやく、搬送の準備が整った。
施療所から来たのは、四十代ほどの男だった。
灰色の上着を着て、薬箱を肩に提げている。
「患者は?」
「こちらです!」
セレナが答えると、男はノアを診察した。
脈を確かめ、目と口の乾燥を確認する。
表情が険しくなった。
「……かなり悪いな」
「重度の脱水が疑われます。下痢と嘔吐が続き、立てなくなっています」
セレナは経過を説明した。
「意識はありますが、反応が弱い。経口補水を少量試しましたが、十分な量は飲めていません」
男がセレナを見た。
「……あんた、何者だ?」
「以前、医療院で働いていました」
「治癒師か?」
セレナは答えるまでに少し時間がかかった。
「……今は、違います」
男は彼女の右手首を見た。
銀環の跡が残っている。
何かを察したようだったが、それ以上は尋ねなかった。
「運ぶぞ」
男が言った。
リゼが慌てて頭を下げる。
「あ、あの……お金が……」
「分かってる」
男は短く答えた。
「だが、この状態で放っておけば死ぬ」
そして、周囲の男たちへ指示を出した。
「荷車をこちらへ。揺らさないように運べ!」
セレナは安堵した。
まだ助かったわけではない。
それでも、必要な治療へつなげることができた。
荷車が動き出す。
セレナも、その横を歩いた。
施療所は、古い石造りの建物だった。
寝台は六つ。
そのうち五つが埋まっていた。
横たわる患者の中には、子供が三人いる。
いずれも顔色が悪く、衰弱していた。
セレナは足を止めた。
「……この人たちも?」
男が頷いた。
「腹を壊してる。ここ数日、こんなのばかりだ」
「何人くらい?」
「正確には数えてねえ。少なくとも十人以上は診た」
「亡くなった人は?」
男は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
セレナの胸が冷えた。
ノアだけではない。
すでに町全体で、何かが起きている。
「あなたのお名前を教えてください」
セレナが尋ねると、男は怪訝な顔をした。
「……ガレスだ。この施療所を預かってる」
「ガレスさん。患者の記録を見せてもらえませんか?」
「何のために?」
「同じ病気が広がっている可能性があります」
ガレスは眉をひそめた。
「流行病だって言いたいのか?」
「まだ分かりません」
セレナは首を横に振った。
「だから、確かめたいんです」
ガレスはしばらく考えた。
そして、古い帳面を差し出した。
「好きにしろ。ただし、患者の世話を邪魔するなよ」
「ありがとうございます」
セレナは帳面を開いた。
記録は簡単なものだった。
患者の名前。
年齢。
症状。
来院した日付。
しかし、住所や飲み水の入手先は書かれていない。
「……これでは、発生場所が分からない」
セレナは自分の研究ノートを取り出した。
患者の情報を一人ずつ整理していく。
ノア。
八歳。
下痢、嘔吐、発熱、脱水。
市場裏の共同井戸を使用。
ほかの患者についても、家族に聞き取りを始めた。
南区に住む女性。
市場で働く老人。
洗濯場の少年。
いずれも似た症状だった。
そして。
「……この人も、南区?」
セレナが尋ねると、ガレスが頷いた。
「ああ」
「こちらの子供も?」
「そうだ」
患者の住所を地図に書き込む。
点が一つ。
二つ。
三つ。
南区の市場周辺に、患者が集まっていた。
ただし、それだけで井戸が原因とは言えない。
南区は人口が多く、衛生環境も悪い。
同じ食べ物を口にした可能性もある。
感染が人から人へ広がっている可能性も考えられる。
セレナはノートに書いた。
『南区に患者が集中。
ただし、井戸水との因果関係は未確定。
患者以外の家庭についても比較調査が必要』
ガレスが覗き込んだ。
「……あんた、そこまで調べるのか?」
「ええ」
「患者を治すのが医者の仕事だろ?」
セレナは顔を上げた。
「患者を減らすのも、医療の仕事です」
ガレスは黙った。
セレナは続けた。
「もし井戸が原因なら、何人治しても新しい患者が出ます」
「……そうだな」
「だから、病気になった理由を調べたいんです」
ガレスはしばらくセレナを見つめていた。
やがて、深く息を吐いた。
「……変わった女だな、あんた」
セレナは少しだけ笑った。
「よく言われます」
夕方。
ノアが目を開けた。
施療所で水分補給を続け、少しずつ反応が良くなっていた。
まだ熱はある。
脱水も完全には改善していない。
それでも、朝よりは明らかに表情が穏やかだった。
「……お母さん」
リゼが駆け寄った。
「ノア!」
「……お水、飲みたい」
リゼは泣きながら笑った。
「うん……うん! 先生に聞いてから、少しずつ飲もうね」
セレナは少年の様子を確かめた。
呼吸は朝より落ち着いている。
脈も少し改善していた。
「よく頑張ったわね」
ノアが小さく笑った。
「……お姉ちゃん」
「なあに?」
「ぼく……パン、食べられるようになる?」
セレナは微笑んだ。
「きっと食べられるようになるわ。でも、今は焦らず、少しずつ元気になろうね」
少年は頷いた。
リゼは深く頭を下げた。
「先生……本当に、ありがとうございました」
「まだ安心はできません。今夜はガレスさんの指示に従って、様子を見てください」
「はい……!」
リゼは涙を拭った。
そして、セレナの手を握った。
「私、先生に何もお礼ができません」
「そんなこと、気にしないで」
「でも……」
セレナは少し考えた。
「それなら、一つお願いしてもいい?」
「何でも言ってください!」
「明日、町の人たちに話を聞きたいの」
セレナはノートを開いた。
「病気になった人が、どこで水を汲んでいたのか。何を食べたのか。いつから具合が悪くなったのか」
「……それを調べれば、病気の原因が分かるんですか?」
「分かるとは限らないわ。でも、手掛かりにはなる」
リゼは真剣な顔で頷いた。
「私、この町の人なら大勢知っています」
「本当?」
「はい。洗濯場で働いていますから」
セレナは顔を上げた。
洗濯場。
王都で働いていたシーラの母親も、洗濯場で働いていた。
偶然だ。
そう分かっていても、胸の奥が少し痛んだ。
「……お願いできる?」
「もちろんです」
リゼは力強く答えた。
「先生がノアを助けてくれたんです。今度は私が、先生を手伝います」
セレナはその言葉を聞いて、静かに微笑んだ。
王宮では、命令すれば助手が動いた。
銀環を見せれば、職員が道を開けた。
けれど今は違う。
誰もセレナに従う義務などない。
それでも、助けてくれる人がいる。
肩書きではなく、信頼によって。
セレナはリゼの手を握り返した。
「……ありがとう」
日が暮れる頃、セレナは市場裏の共同井戸へ向かった。
石囲いの古い井戸だった。
縁にはひびが入り、周囲の地面はぬかるんでいる。
すぐそばには排水溝があった。
黒ずんだ水が、ゆっくりと流れている。
臭いが鼻をついた。
セレナはしゃがみ込み、地面の傾きを確かめた。
排水溝は、井戸の近くを通っている。
雨が降れば、汚水が井戸の周囲に広がる可能性がある。
だが、井戸の中へ入り込んでいるかどうかは分からない。
セレナは研究ノートに簡単な図を描いた。
井戸。
排水溝。
市場。
住宅。
施療所。
それぞれの位置を記録する。
「……水が原因なら」
セレナは呟いた。
「この井戸を使う人ほど、病気になっているはず」
逆に、同じ地域に住んでいても別の水源を使う人が健康なら、重要な手掛かりになる。
しかし、同じ井戸を使っていても病気にならない人はいるだろう。
水だけではなく、食事や接触による感染も調べなければならない。
セレナはノートを閉じた。
王宮では、一人の患者を治すことが成果だった。
どれほど多くの患者が運ばれてきても、その原因を調べる時間はなかった。
けれど今は目の前の患者を救うだけでは、足りない。
次に倒れる子供を減らしたい。
そのために、調べる。
確かめる。
記録する。
そして、原因が分かれば、町の人々と一緒に変えていく。
「……できるかな」
セレナは小さく笑った。
銀環もない。
研究室もない。
部下もいない。
お金さえない。
それでも、今日一人の少年を助けることができた。
そして、協力してくれる人が一人できた。
それなら。
明日は、もう一人増えるかもしれない。
セレナは立ち上がった。
そのとき
「おい、あんた」
背後から声がした。
振り向くと、町の役人らしい男が二人立っていた。
一人は革の帳面を持ち、もう一人は腰に短剣を下げている。
「ここで何をしている?」
「井戸の周囲を調べていました」
「調べる?」
男が眉をひそめた。
「誰の許可で?」
セレナは静かに答えた。
「町で病人が増えています。飲み水との関係を確かめたいんです」
役人の表情が変わった。
「……余計なことをするな」
「余計なこと?」
「この井戸は町の管理下にある。勝手に調べることは許されん」
セレナは井戸を見た。
ひび割れた石囲い。
すぐそばを流れる汚水。
夕食の水を汲むために並ぶ人々。
そして、今朝倒れたノアの顔が浮かんだ。
「では、町として水質を調べてください」
役人が顔をしかめた。
「そんな金はない」
「なら、少なくとも住民に注意を呼びかけてください。原因が判明するまでは、飲み水を安全に扱うように」
「騒ぎを大きくするな!」
男が声を荒らげた。
「井戸が汚れているなどと噂になれば、商人が寄りつかなくなる!」
セレナは黙った。
王都で聞いた言葉と、よく似ていた。
患者の命より。
町の評判。
医療の必要性より。
金と体面。
場所が変わっても、同じなのだ。
「……分かりました」
セレナは一歩下がった。
役人たちは安堵したように息を吐いた。
だが、セレナは続けた。
「井戸に勝手に手を加えることはしません」
「当然だ」
「ただし、病気になった人たちの話を聞くことまで、禁止する権限はありませんよね?」
男たちは顔を見合わせた。
「……何?」
「私は、患者の症状と生活環境を記録するだけです」
セレナは研究ノートを胸に抱えた。
「井戸が原因だと決めつけるつもりもありません。違う原因が見つかれば、それも記録します」
役人はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……面倒な女だな」
セレナは微笑んだ。
「よく言われます」
男たちは舌打ちし、立ち去った。
セレナはその背中を見送った。
そして、井戸へ向き直った。
王宮では、少女一人の生死さえ、権力者の都合で書き換えられた。
けれど、ここでは違う。
少なくとも、自分が見たこと、聞いたこと、確かめたことは、正しく残したい。
セレナはノートを開いた。
最初の頁に、新しい見出しを書き込む。
『ベルナ南区・原因不明の集団発症調査』
その下に、一行を加えた。
『目的――次に倒れる子供を、一人でも減らすこと』
その文字を見つめながら、セレナは静かに息を吐いた。
王宮での十年間。
彼女は、病気になった人を治すために戦ってきた。
けれど、これからは違う。
病気になる人そのものを減らすために、戦う。
それが、セレナの新しい医療の始まりだった。




