第二話 王都を追われた治癒師に、帰る家はなかった
背後で城門が閉まる音がした。
鉄の扉が噛み合う、乾いた音。
たったそれだけで、二十七年間暮らした王都が、セレナの背後で閉ざされた。
「そこをどけ。荷車が通る」
門番に肩を押され、セレナは街道の端へよろめいた。
泥水が跳ね、外套の裾を汚す。
昨日まで、王宮医療院の最高位治癒師だった。
王国に七人しかいない銀環の持ち主。
貴族たちは頭を下げ、医療院の職員は道を開けた。
それが今では、門番に邪魔者扱いされている。
右手首には、銀環を外した赤い跡だけが残っていた。
「……本当に、追い出されたんだ」
口にした途端、胸の奥が締めつけられた。
鞄の中には、研究ノートが三冊。
着替えと、母の形見の首飾り。
そして、銅貨が二枚。
セレナは母の首飾りを取り出した。
鎖の留め具は、幼い頃に母が直してくれたものだった。
売れば宿代になるかもしれない。
質屋の看板を見つけて足を止め、扉の取っ手に手を掛けた。
「お客さん、売るのかい」
店主の問いに、セレナは首飾りを掌に握り込んだ。
「……いいえ。まだ、持っていたいんです」
店主は肩をすくめた。
セレナは銅貨二枚を数え直した。
母の形見を手放さずに済んだ代わりに、今夜の寝床は決まらない。
かつて患者の病室で夜を明かしたことは何度もある。
それでも、自分が雨をしのぐ場所さえ持たない夜が来るとは思わなかった。
王都近郊の安宿でさえ、一泊四枚は必要だった。
食事を取れば、明日には一文無しになる。
セレナは無意識に振り返った。
「……家に帰ろう」
そう呟いてから、自分で笑ってしまった。
帰る家など、もうない。
母が薬草を乾かしていた窓辺。
幼い頃、初めて治癒術の教本を開いた机。
夜遅くまで研究を続けた小さな書斎。
すべて王宮に没収された。
家も。
仕事も。
十年間積み重ねてきた地位も。
そして何より、救ったはずの少女の安否を確かめる手段さえ失った。
「シーラ……」
少女の声が耳に蘇った。
『先生……ありがとう』
あの子は確かに生きていた。
それなのに、王宮は死亡したと発表した。
診断書には偽の署名があり、診療記録は処分されたという。
母親の行方も分からない。
セレナは唇を噛んだ。
今すぐ引き返したかった。
だが、城門の上には武装した兵士が立っている。
戻れば投獄される。
そうなれば、シーラの行方を調べることすらできない。
「……生きて、確かめる」
城門の外で自分に言い聞かせた言葉を、もう一度繰り返した。
そしてセレナは、王都から延びる街道を歩き始めた。
王都を出て一時間ほど歩いた頃だった。
街道沿いに、小さな薬店が見えた。
見覚えのある看板に、セレナは足を止めた。
『マルタ薬草店』
店主のマルタは、セレナが見習い治癒師だった頃からの知り合いだった。
薬草の仕入れに困ると、余った品を融通してくれた。
セレナも、壊れた薬草乾燥器を修理したり、店主の家族を診察したりしてきた。
王都の外にあるこの店には、何度も足を運んでいる。
「……マルタなら」
少しだけ、水を分けてもらえるかもしれない。
できれば、シーラの母親についても何か聞きたい。
そう思って近づいたセレナは、店の扉を見て立ち止まった。
赤い封蝋が貼られていた。
『王宮医療院の調査に伴い、当面の取引を停止する』
「……何、これ」
窓の奥で、人影が動いた。
「マルタ?」
呼びかけると、店主がそっと顔を出した。
いつも威勢よく笑っていた女性が、今はひどく青ざめていた。
「セレナ……!」
マルタは周囲を見回した。
「来ちゃ駄目よ」
「どうしたの? この封蝋は……」
「今朝早く、役人が来たの」
マルタの声が震えた。
「あなたに協力した店を調べるって。薬草を売った記録も、治療器具を貸した記録も、全部持っていかれた」
「そんな……」
「今朝になって、取引停止を命じられたわ」
セレナは扉に貼られた封蝋を見つめた。
今朝早く。
つまり、追放の処分が公になる前から、薬店への調査が始まっていた。
王子は最初から、セレナを排除するつもりだったのだ。
「ごめんなさい」
セレナは頭を下げた。
「私のせいで……」
「違う!」
マルタが思わず声を上げた。
すぐに口を押さえ、周囲を確認する。
「……違うのよ、セレナ」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「あなたは何も悪いことなんてしていない」
店の奥から、小さな咳が聞こえた。
マルタの息子だった。
まだ六歳。
生まれつき気管支が弱く、季節の変わり目にはよく熱を出す。
「……あの子は大丈夫?」
セレナが尋ねると、マルタは苦しそうに頷いた。
「今は熱もないわ。ただ、咳が少し続いているだけ」
「長引くようなら、必ず施療所で診てもらって」
「ええ……」
マルタは棚へ手を伸ばしかけた。
そこには薬草の包みが並んでいる。
セレナが旅先で使えるように、何か渡そうとしたのだろう。
だが、途中で手が止まった。
「……ごめんね」
マルタが俯いた。
「役人に言われたの。あなたを助けたら、店だけじゃなく、家族まで取り調べるって」
セレナは首を横に振った。
「何も渡さないで」
「でも……」
「あなたの家まで失わせたくない」
マルタは唇を噛んだ。
長い沈黙が流れた。
やがて彼女は、小さな声で言った。
「……シーラちゃんのこと、聞いたわ」
セレナの胸が跳ねた。
「何を?」
「あの子のお母さん、今朝まで医療院の前にいたそうよ」
「今朝まで?」
「娘に会わせてほしいって、ずっと頼んでいたんですって」
セレナは窓枠に手をついた。
「それで? 会えたの?」
マルタは首を横に振った。
「兵士に連れていかれたそうよ」
「……どこへ?」
「分からない」
「誰か見ていなかった?」
「ごめんなさい。本当に、それしか知らないの」
シーラの母親まで、姿を消した。
少女の死亡診断書は偽造されている。
診療記録も消された。
そして今度は、母親が兵士に連れていかれた。
偶然とは思えなかった。
「マルタ。もし何か分かったら――」
「セレナ」
マルタが遮った。
涙をこらえながら、首を横に振る。
「……もう、私に聞かないで」
セレナは口を閉じた。
その言葉がどれほど苦しい決断だったのか、分かったからだ。
「……分かった」
一歩、後ろへ下がる。
「今までありがとう、マルタ」
「セレナ……」
「あなたには何度も助けてもらったわ。忘れない」
マルタの目から涙がこぼれた。
「私こそ……ごめんね」
窓がゆっくり閉まる。
最後に、小さな声が聞こえた。
「……生きて」
セレナはしばらく、閉ざされた窓を見つめていた。
王宮から追放されたときよりも、胸が痛かった。
王子に憎まれることは耐えられる。
地位を奪われることも、いつか受け入れられるかもしれない。
けれど、自分に関わったというだけで、大切な人々が苦しめられる。
それだけは、どうしても許せなかった。
「……絶対に、終わらせない」
セレナは小さく呟いた。
そして、再び街道へ足を向けた。
昼過ぎ。
街道の先から、怒鳴り声が聞こえた。
「誰か! 医者はいないか!」
荷馬車が道端に止まっていた。
車輪のそばで、御者の男が右足を抱えている。
ズボンの裾が赤く染まり、地面には血が落ちていた。
「どうしたんですか?」
セレナが駆け寄ると、近くにいた商人が答えた。
「馬が暴れてな! 車軸に足をぶつけたんだ!」
男の脛には、深い裂傷があった。
出血は続いているが、勢いよく噴き出してはいない。
セレナは反射的に右手を伸ばした。
治癒魔法を使おうとして。
止まった。
右手首には、もう銀環がない。
治癒師の資格もない。
魔法を使えば、王命違反として投獄される。
しかも、魔力はまだ回復していなかった。
「……くそっ、痛え……!」
御者が呻いた。
セレナは一瞬だけ目を閉じた。
そして、鞄を地面に置いた。
「傷を見せてください」
「……あんた、医者か?」
「以前は、そうでした」
「以前?」
「今は違います。でも、手当てはできます」
男は不安そうにセレナを見た。
当然だろう。
泥に汚れた外套。
疲れ切った顔。
手首には、銀環を外した赤い跡。
誰が見ても、立派な治癒師には見えない。
それでも男は、足を差し出した。
「……頼む」
セレナは頷いた。
「まず、出血を止めましょう」
周囲の人々へ声をかける。
「清潔な布を持っている方はいませんか? それから、できれば飲用に使えるきれいな水をお願いします」
「布ならある!」
「水も持ってくる!」
商人たちが動き始めた。
セレナは男の足先を確認した。
「指を動かせますか?」
「ああ……痛えけどな」
「触っているのは分かります?」
「分かる」
足先の感覚は残っている。
明らかな変形も見られない。
ただし、骨に傷がないとは断定できない。
セレナは清潔な布を傷に当て、圧迫した。
「このまま押さえていてください」
「お、おう」
出血が落ち着くまで待ち、きれいな水で傷についた泥を慎重に洗い流した。
その後、別の清潔な布で覆い、包帯代わりの布で固定する。
「しばらく足に体重をかけないでください。できるだけ早く施療所へ行ってくださいね」
「魔法では治せねえのか?」
男が尋ねた。
セレナは少しだけ笑った。
「……今は、使えないんです」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
ただ、セレナの手首を見て、何かを察したように目を伏せた。
「……悪かったな」
「いいえ」
セレナは包帯の結び目を確かめた。
「傷が深いので、これで治療が終わったわけではありません。熱が出たり、赤みや腫れが広がったり、足先の感覚がおかしくなったら、すぐに診てもらってください」
「分かった」
男はゆっくり息を吐いた。
「助かったよ」
その言葉に、セレナは胸が熱くなった。
助かった。
たった四文字。
王宮では、毎日のように聞いていた言葉だった。
けれど今は、なぜか涙が出そうになった。
御者は荷台から干しパンを二つ取り出した。
「ほら、持っていけ」
「え?」
「礼だ」
「でも、お金は……」
「金なんか取るかよ」
男は笑った。
「あんたがいなかったら、俺はここでどうしていいか分からなかった。これくらい受け取ってくれ」
「……一つで十分です」
「二つ持て」
男は無理やり押しつけた。
「腹が減ると、ろくな判断ができねえぞ」
セレナは干しパンを見つめた。
硬くて、少し欠けている。
王宮では、食卓に並ぶことさえなかった粗末なパン。
それが今は、何よりありがたかった。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
男は照れくさそうに頭を掻いた。
「礼を言うのはこっちだろ」
周囲の商人たちが笑った。
セレナも、少しだけ笑った。
追放されてから初めて、自然に笑えた気がした。
「そういや、あんたはどこへ行くんだ?」
「国境の町、ベルナです」
「ベルナか……」
男の表情が曇った。
「気をつけろよ」
「何かあるんですか?」
「あそこは、王都から追い出された連中や、仕事を失った連中が集まる町でな。最近、病人が増えてるらしい」
「病人?」
「ああ。腹を壊して寝込むやつが多いって話だ。特に子供がな」
セレナの表情が変わった。
「症状は?」
「詳しくは知らねえ。ただ、井戸の水を飲んだ連中に多いらしい」
「井戸の水……」
セレナは鞄から研究ノートを取り出した。
余白に書き込む。
『ベルナ。
腹痛・下痢を伴う患者が増加。
井戸水との関連を調査する必要あり』
男は不思議そうに尋ねた。
「もう医者じゃねえんだろ?」
「ええ」
「なのに、そんなことまで調べるのか?」
セレナは少し考えた。
そして答えた。
「……病気は、私が資格を失ったことなんて知りませんから」
男は目を丸くした。
それから、大きな声で笑った。
「違いねえ!」
セレナも笑った。
銀環がなくても。
王宮に認められなくても。
自分にできることは、まだ残っている。
そう思えた。
夕方になると、空が鉛色に変わった。
冷たい雨が降り始める。
セレナは外套の襟を立て、街道を急いだ。
だが、足が思うように動かない。
昨夜の治療で魔力を使い果たし、体力も限界だった。
右足の小指には水ぶくれができている。
靴底の縫い目も裂け、雨水が染み込んでいた。
「……痛い」
思わず呟いた。
誰もいない街道。
雨に濡れた石畳。
遠くに見える森。
王宮にいた頃は、雨の日に歩くことなどほとんどなかった。
馬車が迎えに来て、暖かい部屋が用意されていた。
今は、そのどちらもない。
セレナは街道脇の古い祠に駆け込んだ。
小さな軒があり、雨を少しだけ避けられる。
濡れた靴を脱ぎ、足を確かめた。
皮がむけていた。
血も滲んでいる。
「……最高位治癒師が、靴擦れ一つ治せないなんて」
自嘲するように笑った。
だが、笑いはすぐに消えた。
右手首を見る。
銀環はない。
あの腕輪を外した瞬間から、自分は治癒師ではなくなった。
そう思っていた。
けれど今日、御者の傷を手当てした。
魔法を使わずに。
銀環もなく。
誰の許可も得ずに。
それでも、男は礼を言ってくれた。
「……おかしいわね」
セレナは小さく呟いた。
「資格がなくなったのに、手当ての仕方は忘れていない」
当たり前のことだった。
けれど、今のセレナには大きな発見だった。
王宮は銀環を奪えた。
屋敷も、財産も、研究設備も奪えた。
しかし十年間学んだ知識までは、奪えなかった。
患者の呼吸を見分ける目も。
傷を悪化させないための手順も。
苦しむ人を放っておけない気持ちも。
まだ、自分の中に残っている。
セレナは母の首飾りを取り出した。
小さな青い石がついた、古い銀細工。
母は治癒師ではなかった。
魔法も使えなかった。
それでも、病人のそばに座り、手を握り、夜通し看病していた。
『治せなくても、そばにいることはできるのよ』
母は、よくそう言っていた。
幼い頃は、その意味が分からなかった。
大人になってからは、魔法で治せる自分の方が立派だと思っていた。
けれど今なら分かる。
治すことだけが、医療ではない。
病気にならないようにすること。
悪化させないこと。
苦しむ人を一人にしないこと。
それもまた、人を救うということなのだ。
「……お母さん」
セレナは首飾りを握った。
「私、まだ何かできるかな」
雨音だけが返ってきた。
そのときだった。
「できるとも」
背後から声がした。
セレナは振り向いた。
祠の横に、小さな家が建っていた。
その戸口に、腰の曲がった老婆が立っている。
白髪を後ろで束ね、古びた肩掛けを羽織っていた。
「……聞いていたんですか?」
「独り言が大きいんだよ、あんた」
老婆は笑った。
「それより、そんなところに座ってたら風邪をひくよ」
「大丈夫です。雨が止んだら出発しますから」
「その足で?」
老婆の視線が、セレナの傷ついた足へ向いた。
「……少し靴擦れしただけです」
「少し、ねえ」
老婆は呆れたように息を吐いた。
「医者ってのは、自分の体には案外鈍いもんだ」
セレナは目を見開いた。
「どうして、私が医者だと?」
「さっきから足を診る手つきが、普通の旅人じゃなかったからさ」
老婆は家の中を指した。
「入んな」
「でも、お金が……」
「誰がお金の話をした?」
老婆は眉を上げた。
「雨に濡れて、足を痛めて、腹を空かせた娘がいる。家に入れる理由なんて、それで十分だろう」
セレナは言葉を失った。
王宮では、患者を診る前に身分を確認した。
診療費を払えるか調べた。
許可証がなければ、治療室に入ることすらできなかった。
それなのに、この老婆は。
名前も知らない旅人を、ただ困っているという理由だけで家に招こうとしている。
「……本当に、いいんですか?」
「何度も言わせるんじゃないよ」
老婆は背を向けた。
「ほら。湯が冷めちまう」
セレナはしばらく戸口を見つめていた。
そして、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
老婆の家は、小さかった。
壁には隙間があり、家具も古い。
それでも、暖炉には火が燃えていた。
部屋の隅には薬草が吊るされ、木の棚には陶器の器が並んでいる。
「そこに座んな」
老婆は椅子を指した。
「まず、足を見せてごらん」
「自分でできます」
「知ってるよ」
老婆は湯を入れた桶を運んできた。
「でも、今はあんたが手当てされる番だ」
セレナは返す言葉を失った。
老婆は温かい湯と清潔な布を渡し、セレナが傷を洗うのを見守った。
それから、包帯を差し出した。
「きつく巻きすぎないようにね」
「……はい」
セレナは包帯を巻いた。
老婆が結び目を少し緩める。
「ほら。これくらいでいい」
セレナは思わず笑った。
「私、十年間も患者に包帯を巻いていたんですけど」
「じゃあ、十年ぶりに教わったと思えばいいさ」
老婆も笑った。
そのあと、薄い粥が出された。
麦と野菜を煮込んだだけの、質素な食事だった。
「さあ、食べな」
セレナは木の匙を握った。
温かな湯気が立ち上っている。
王宮では、毎日のように豪華な料理が並んでいた。
焼いた肉。
新鮮な果物。
香辛料をふんだんに使ったスープ。
けれど、今目の前にある薄い粥の方が、ずっとありがたく思えた。
「……いただきます」
一口、食べた。
温かかった。
喉を通り、胃の中へ落ちていく。
その瞬間。
涙がこぼれた。
「あれ……?」
セレナは慌てて目元を拭った。
「すみません。私……」
「泣きたいなら、泣けばいい」
老婆は静かに言った。
「ここには、あんたを笑う人間なんていないよ」
その言葉で、堪えていたものが崩れた。
セレナは匙を置いた。
「……私、何も悪いことなんてしていないんです」
声が震えた。
「ただ、病気の子を助けたかっただけなのに……」
老婆は何も言わなかった。
「助けたはずなんです。ちゃんと目を開けて、話もして……それなのに、死んだことにされて……」
涙が止まらなかった。
「家も、仕事も、全部取られて……」
言葉が途切れる。
「……帰る場所まで、なくなってしまいました」
老婆はしばらく黙っていた。
やがて、セレナの前に温かい茶を置いた。
「そうかい」
それだけだった。
責めもしない。
慰めの言葉を並べることもしない。
ただ、そこにいてくれた。
セレナは両手で茶碗を包んだ。
温かさが指先に伝わる。
「……ありがとうございます」
老婆は小さく笑った。
「礼なら、明日の朝にでも薬草を選り分けておくれ」
「薬草?」
「ああ。年を取ると、細かい葉を見分けるのが大変でね」
セレナは涙を拭った。
「それなら、得意です」
「そうかい。助かるよ」
老婆は立ち上がり、奥の部屋から毛布を持ってきた。
「今夜はここで寝な。狭い家だけど、雨風はしのげる」
「……いいんですか?」
「またそれかい」
老婆は呆れたように笑った。
「帰る家がないなら、今夜くらい、ここを家だと思えばいい」
セレナは毛布を受け取った。
その言葉が、胸の奥に深く染み込んだ。
帰る家はない。
けれど、今夜眠れる場所はある。
誰かが、自分のために温かい食事を作ってくれた。
それだけで、明日も生きていける気がした。
翌朝。
雨は上がっていた。
セレナは老婆に頼まれた薬草を、一枚ずつ選り分けていた。
「これは使えます。こちらは傷んでいますね」
「おや、よく分かるねえ」
「十年間、薬草を扱ってきましたから」
セレナは笑った。
資格を失っても、知識は失われない。
昨夜、何度も考えたことだった。
だが今朝は、それを実感できた。
作業を終えると、老婆は小さな包みを渡してくれた。
「持っていきな」
「これは?」
「干しパンと、少しの干し果物さ」
「でも……」
「薬草を選り分けてもらった礼だよ」
老婆は笑った。
「働いた分を受け取るのは、悪いことじゃないだろう?」
セレナは包みを受け取った。
「……ありがとうございます」
「ベルナへ行くんだったね」
「はい」
老婆の表情が少し曇った。
「あそこは、最近よくない噂を聞くよ」
「病人が増えているんですよね?」
「ああ。井戸の水を飲んで腹を壊す人がいるらしい」
「詳しいことをご存じですか?」
「いや。ただ……」
老婆は少し考えた。
「ベルナの南区に、古い共同井戸があるんだ。あの辺りで病人が多いって聞いたよ」
セレナはすぐに研究ノートを開いた。
『ベルナ南区。
共同井戸周辺で患者増加の可能性。
要確認』
「……あんた、本当に医者なんだねえ」
老婆が感心したように言った。
セレナは少しだけ首を傾げた。
「もう、資格はありませんけど」
「資格?」
老婆は鼻で笑った。
「そんなもの、病気の方は気にしないだろうよ」
セレナは目を見開いた。
昨日、御者に話したことと同じだった。
老婆は続けた。
「困っている人を見て、何とかしようとする。それが医者ってもんじゃないのかい?」
セレナはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……そうですね」
玄関を出ると、雨上がりの空が広がっていた。
冷たい風が頬を撫でる。
足の傷はまだ痛む。
所持金も銅貨二枚のまま。
王都へ戻ることもできない。
シーラの行方も分からない。
何一つ、解決していなかった。
それでも昨日より、少しだけ前を向けた。
「おばあさん」
セレナは振り返った。
「お名前を、聞いてもいいですか?」
「リゼットだよ」
「リゼットさん」
セレナは深く頭を下げた。
「いつか必ず、お礼に来ます」
老婆は手を振った。
「そんなことより、ちゃんと飯を食べな」
「はい!」
セレナは笑った。
そして、街道へ歩き出した。
ベルナまでは、まだ三日以上かかる。
道は長い。
先に何が待っているのかも分からない。
だが、セレナには目的ができていた。
ベルナで起きている病気の原因を調べる。
自分の知識で救える人がいるなら、救う。
そしていつか、王都へ戻り、シーラの真実を明らかにする。
そのためにも、まずは生き延びなければならない。
セレナは鞄を抱え直した。
研究ノートの角が、外套越しに胸へ当たる。
母が残した言葉が、頭に浮かんだ。
『治せない病気を、減らす方法を探しなさい』
「……お母さん」
セレナは青空を見上げた。
「私、もう一度始めてみる」
王宮の許可は、もういらない。
銀環も、立派な研究室もない。
けれど、学んできたことはすべて自分の中にある。
今度は、誰かの身分ではなく、その人が困っているかどうかで手を差し伸べよう。
セレナは、少しだけ歩幅を広げた。
その頃。
遠く離れたベルナの町では、南区の共同井戸が封鎖されようとしていた。
病人が増え続け、町の施療所はすでに満床。
治癒師を呼ぶ金もなく、町の役人たちは途方に暮れていた。
そして、井戸のそばにある小さな家では。
高熱を出した少年が、母親の腕の中で苦しそうに息をしていた。
「……お母さん」
少年がかすれた声で呟く。
「ぼく、死んじゃうの……?」
母親は答えられなかった。
ただ、息子の手を強く握った。
その町へ、一人の女が向かっていることを、まだ誰も知らなかった。
銀環を奪われた、元最高位治癒師。
セレナ・アルヴェイン。
彼女がベルナへたどり着くまで、あと三日。




