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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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第一話 セレナが救った少女は、翌朝死んだことにされた

少女の心臓が止まったのは、夜明けまであと二時間という頃だった。

「先生! シーラの脈がありません!」

助手のユリウスの叫び声が、薄暗い治療室に響いた。

セレナ・アルヴェインは寝台へ駆け寄った。

シーラ。

十二歳。

王都の洗濯場で働く母親に連れられ、三日前に医療院へ運び込まれた少女だった。

高熱が続き、肺はひどく傷んでいた。

昨日の夕方からは、息をするたびに胸がひゅうひゅうと鳴り、夜半には意識を失った。

セレナは少女の首筋に指を当てた。

脈がない。

胸も動いていない。

「ユリウス、時間を記録して。呼吸と脈の確認を続けて」

「先生、もう魔力が残っていません!」

「分かってる」

セレナの右手首には、銀色の腕輪がはめられていた。

王国に七人しかいない最高位治癒師の証。

その銀環は今、弱々しい光を放っている。

今夜だけで六人の重症患者を診た。

魔力はほとんど尽きていた。

これ以上治癒魔法を使えば、意識を失うかもしれない。

最悪の場合、魔力の通り道そのものが傷つき、二度と以前のように魔法を使えなくなる。

「先生、お願いです。もうやめてください!」

ユリウスが悲痛な声を上げた。

「あなたまで倒れたら、明日の患者は誰が診るんですか!」

正しい意見だった。

治癒師は一人の患者のために、ほかの患者を見捨ててはならない。

セレナ自身、何度も弟子たちに教えてきたことだ。

それでも少女の小さな手が、寝台の端から力なく垂れ下がっていた。

その手には、洗濯仕事で荒れた母親の手と同じように、小さなひび割れがあった。

シーラは病に倒れる直前まで、母親の仕事を手伝っていたという。

十二歳の少女が。

まだ、十二歳の少女が。

「……この子は、昨日言ったのよ」

「何を、ですか?」

「元気になったら、お母さんに新しい靴を買ってあげたいって」

ユリウスが唇を噛んだ。

セレナは少女の胸に両手を重ねた。

「だから、まだ終わりにしない」

銀環が白く輝いた。

激痛が右腕を駆け上がる。

視界の端が暗くなった。

それでもセレナは、残った魔力を慎重に流し込んだ。

傷ついた肺の組織を修復し、血液の巡りを助ける。

治癒魔法は万能ではない。

失われた体力を無から生み出すことはできないし、病の原因を取り除かなければ再び悪化する。

だからこそ、セレナは魔法だけに頼らなかった。

「ユリウス、呼吸の補助を続けて。体を冷やさないで」

「はい!」

少女の胸が、かすかに動いた。

一度。

二度。

「……脈が!」

ユリウスの声が震えた。

「先生、脈が戻りました!」

セレナは少女の首筋に指を当てた。

弱い。

けれど確かに、生きている。

「シーラ。聞こえる?」

少女のまぶたが震えた。

ゆっくりと目が開く。

「……せん、せい?」

「ええ。ここにいるわ」

「わたし……死んじゃったの?」

セレナは微笑んだ。

「いいえ。ちゃんと生きている」

少女の目から、涙が一粒こぼれた。

「……お母さんは?」

「廊下で待っているわ。すぐに会える」

「よかった……」

シーラはかすかに笑った。

「先生……ありがとう」

セレナは少女の手を握り返した。

「お礼は、元気になってから聞くわ。今はゆっくり休みなさい」

シーラは小さく頷いた。

その後、ユリウスが少女の呼吸と脈を再確認した。

セレナは診療簿に回復時刻を記入し、自分の署名を残した。

さらに、ユリウスにも確認者として署名させた。

少女は依然として重症だった。

しかし、少なくとも命の危機は脱していた。

「ユリウス。朝まで付き添って。呼吸が変わったらすぐに知らせて」

「分かりました」

セレナはようやく椅子に腰を下ろした。

腕が震えていた。

もう指先に力が入らない。

それでも胸の奥には、確かな安堵があった。

一人、救えた。

今日も、一人。

その事実だけで、十年間の苦労が報われる気がした。

だが、その数時間後。

セレナが救ったはずの少女は、王宮の記録上、死んだことになった。

そして、その死の責任を負わされたのは、セレナ自身だった。


医療院の鐘が三つ鳴った頃、近衛兵がセレナの休憩室を訪れた。

「セレナ・アルヴェイン。第一王子殿下がお呼びだ」

「患者の診察ですか?」

「違う。同行しろ」

兵士は医療鞄を持つことさえ許さなかった。

廊下には、さらに四人の近衛兵が待っていた。

全員が武装している。

セレナは眉をひそめた。

「何があったの?」

誰も答えなかった。

ただ、一人の若い兵士だけが、申し訳なさそうに目を伏せた。

嫌な予感がした。

案内されたのは、王宮の大広間だった。

玉座の手前に、第一王子レオニスが立っている。

その隣には、王宮医療院長オルフェン。

さらに、見知らぬ貴族たちが数人。

誰も椅子に座っていない。

セレナを待っていたのは、診療依頼ではなかった。

「セレナ・アルヴェイン」

王子が冷たい声で告げた。

「昨夜、貴様が治療した少女が死亡した」

セレナは一瞬、言葉を理解できなかった。

「……何ですって?」

「患者名シーラ。十二歳。貴様の過剰な治癒魔法によって臓器が損傷し、死亡した」

「そんなはずがありません」

即座に否定した。

「少女は意識を取り戻しました。呼吸も脈も安定し始めていた。ユリウスも確認しています」

「事実は書類に記されている」

王子が指を鳴らした。

侍従が一枚の書類を差し出す。

死亡診断書だった。

患者名、シーラ。

死亡原因、治癒魔法による臓器損傷。

死亡時刻、夜明け前。

そして。

診断医の欄には、セレナ・アルヴェインという署名があった。

「……これは」

セレナの背筋が凍った。

「私の署名ではありません」

筆跡が違う。

しかも、死亡時刻は少女が意識を取り戻した時刻より前になっていた。

「殿下。この時刻には、シーラは生きていました」

「言い訳は聞かぬ」

「言い訳ではありません。診療簿に記録が残っています」

セレナは書類を掲げた。

「死亡時刻より後に、少女は私と会話しています。助手も確認しました。診療簿を調べれば、すぐに分かります」

王子は表情を変えなかった。

「その記録は存在しない」

「……何ですって?」

セレナは院長へ向き直った。

「オルフェン院長。昨夜の診療簿を見せてください」

院長は視線を逸らした。

「記録は処分した」

「処分?」

「感染症対策のためだ」

セレナは耳を疑った。

「医療院の診療記録は五年間保管する規則です。感染症の患者だからこそ、経過を残す必要があるでしょう!」

「緊急措置だった」

「では、処分命令を出したのは誰ですか?」

沈黙。

「院長!」

「……私の判断だ」

その声は、ひどく小さかった。

セレナは院長の顔を見つめた。

十年間、一緒に働いてきた相手だった。

若い頃には、彼の指導を受けたこともある。

その男が、今はセレナと目を合わせようとしない。

「ユリウスを呼んでください」

セレナは王子に向き直った。

「彼なら証言できます」

「助手は現在、別棟で事情聴取を受けている」

「では、聴取が終わるまで判断を待ってください」

「必要ない」

王子は吐き捨てた。

「貴様の行動は、以前から問題になっていた」

「私の行動?」

「金を払えぬ平民を勝手に診療し、貴族の予約を後回しにし、王宮の薬品を無断で使用した」

「無断ではありません。救急診療用の薬品です。使用量も記録しています」

「王宮の医療は、王家の権威を示すためにある」

王子の声が広間に響いた。

「貴族の治療を後回しにして、洗濯女の娘を優先するなど、あってはならぬことだ」

セレナは王子を見つめた。

「……殿下」

「何だ」

「私が裁かれているのは、少女を死なせた罪ですか?」

一歩、前に出る。

「それとも、貧しい少女を救おうとした罪ですか?」

王子の眉が跳ね上がった。

「口を慎め!」

「重症患者を優先しただけです。身分ではなく、命の危険で判断しました」

「それが秩序を乱すと言っている!」

王子が机を叩いた。

広間に乾いた音が響いた。

その瞬間、セレナは理解した。

この場では、シーラが生きていたかどうかなど、最初から重要ではなかったのだ。

王宮医療院の予算は、貴族からの高額な診療費と王家の支援によって成り立っている。

その制度の中で、セレナは救急患者を優先し、貧しい者にも必要な治療を行ってきた。

治療費の免除を求めるたび、院長から注意された。

貴族の予約を変更するたび、王宮から苦情が届いた。

そして今、少女の死という名目が、セレナを排除するために使われている。

「……シーラは、本当に亡くなったのですか?」

セレナは静かに尋ねた。

王子は答えなかった。

「遺体を確認させてください」

「すでに埋葬の手配を進めている」

「亡くなったばかりなのに?」

「貧民の子一人のために、王宮の手続きを止めるつもりか?」

セレナの胸の奥で、何かが冷たく固まった。

王子は、少女の死を悼んでいない。

それどころか。

少女が本当に死んだのか、確かめようとさえしていない。

「判決を言い渡す」

第一王子レオニスが宣言した。

「最高位治癒師セレナ・アルヴェインの資格を永久に剥奪する」

広間が静まり返った。

「王宮から支給された屋敷、研究設備、財産をすべて没収。日没までに王都を去れ」

セレナは差し出された命令書を見た。

王印ではない。

王太子の代理執行印だった。

国王は長く病床にあり、第一王子が医療院の人事と懲戒を代行している。

しかし、その権限で死亡事故の調査を省略できるわけではない。

「正式な審問を請求します」

「請求は受理する」

王子は薄く笑った。

「審問の日程が決まるまで、王都への立ち入りを禁ずる」

「日程は?」

「追って知らせる」

知らせるつもりなどない。

セレナにも、それは分かった。

「従わなければ?」

「資格を失った者による治癒魔法の違法行使、および王命違反で投獄する」

兵士が近づいてきた。

「銀環を」

セレナは右手首を見下ろした。

十年間、肌身離さず身につけてきた銀環。

初めてこれを授かった日、母の墓前で誓った。

どんな患者も、見捨てない。

貧しくても。

身分が低くても。

治療を必要とする者に、手を差し伸べる。

そのために治癒師になったのだ。

けれど、王宮での十年間は、少しずつセレナを変えていた。

誰を先に診るか。

どの薬を使えるか。

誰の許可が必要か。

命より先に、書類と身分を確認する日々。

いつの間にか、それが当たり前になっていた。

「……分かりました」

セレナは自分で銀環を外した。

留め金が外れた瞬間、右手首に冷たい空気が触れた。

銀環を受け取った兵士が、安堵したように息を吐いた。

「最後に、一つだけ聞かせてください」

セレナは王子を見た。

「シーラのお母さんには、誰が娘の死を伝えたのですか?」

王子は顔をしかめた。

「何?」

「娘が亡くなったのなら、お母さんは会いたいはずです。最後に何があったのか、知りたいはずです」

「そのようなことは医療院が処理する」

「では、私から説明させてください」

セレナは頭を下げなかった。

「シーラは、最後に『ありがとう』と言ってくれました。お母さんに新しい靴を買いたいとも話していました」

王子は苛立たしげに手を振った。

「連れ出せ」

兵士がセレナの腕をつかんだ。

そのときだった。

「……セレナ」

かすかな声が聞こえた。

振り向くと、オルフェン院長がこちらを見ていた。

唇が震えている。

何かを伝えようとしている。

だが、王子が視線を向けると、院長はすぐに俯いた。

セレナは何も言わなかった。

ここで問い詰めても、院長が答えられるはずがない。

ただ、一つだけ確信した。

院長は、何かを隠している。

そして、その秘密はシーラの死と関係している。

屋敷へ戻ることは許されなかった。

王宮の門の外で渡されたのは、小さな鞄一つだけ。

中には着替えと、研究ノートが三冊。

それから、母の形見の首飾りが入っていた。

セレナはノートの表紙を撫でた。

そこには、母の文字で一文が記されている。

『治せない病気を、減らす方法を探しなさい』

母は治癒師ではなかった。

魔法も使えなかった。

それでも、流行病が村を襲ったとき、病人に水を運び、汚れた井戸を使わないよう家々を回った。

寝込んだ子供の体を拭き、薬草を煎じ、誰よりも早く患者のもとへ駆けつけた。

そして最後には、自分も病に倒れた。

セレナがまだ十歳の頃だった。

『セレナ。

病気になった人を治すのは、とても大切なことよ』

母は最期にそう言った。

『でもね。

病気になる人を減らせたら、もっとたくさんの人が笑えるでしょう?』

幼かったセレナには、その意味が分からなかった。

だから治癒師になった。

誰よりも強い治癒魔法を身につければ、誰も死なせずに済むと思っていた。

けれど現実は違った。

どれほど患者を治しても、翌日には新しい患者が運ばれてくる。

汚れた水。

不衛生な住居。

栄養不足。

治療費を払えず、重症になるまで医療院に来られない人々。

母が見ていたものを、セレナは十年かけてようやく理解し始めていた。

「……お母さん」

首飾りを握りしめる。

「私、何をしていたんだろう」

王宮で最高位治癒師と呼ばれ、貴族たちに頭を下げられた。

高価な薬を使い、立派な設備で治療を続けた。

それでも、シーラのような少女が、命を落としかけるまで働かなければならない現実は変えられなかった。

そして今、その少女を救ったことさえ罪にされた。

涙が頬を伝った。

悔しかった。

腹が立った。

何より、怖かった。

シーラは本当に死んだのか。

生きているなら、どこにいるのか。

ユリウスは無事なのか。

考えるほど、胸が締めつけられた。

けれど、王都へ引き返すことはできない。

門の向こうには近衛兵がいる。

資格を剥奪された今、セレナが捕まれば、少女の行方を追うことさえできなくなる。

「……生きて、確かめる」

セレナは涙を拭った。

「絶対に」

門を出る前、鞄の中身を調べた兵士は、研究ノートをただの走り書きだと思ったらしい。

だが、その三冊には、十年間の診療で集めた記録が残されている。

患者の症状。

井戸水の状態。

薬草の効果。

季節ごとの流行病。

そして、魔法を使わずに病人を救うための試行錯誤。

王宮では、ほとんど誰も興味を示さなかった研究だった。

しかしセレナにとっては、銀環よりも大切なものだった。

日が傾き始めていた。

国境の町ベルナまでは、徒歩で四日。

所持金は銅貨二枚。

宿に泊まる金もない。

治癒魔法を使う力さえ、ほとんど残っていなかった。

それでも、歩かなければならない。

セレナは街道脇の水飲み場で水筒を満たした。

泥に汚れた裾を払い、鞄を肩にかける。

そのとき、背後から馬車の車輪が軋む音がした。

王都の門から、一台の小さな幌馬車が出てくる。

荷台には粗末な木箱が積まれ、厚い布がかけられていた。

御者は王宮医療院の制服を着ている。

セレナは思わず足を止めた。

見覚えのある馬車だった。

医療院で患者を搬送するときに使うものだ。

その荷台の隙間から、白い布が一瞬だけ見えた。

セレナの胸が跳ねた。

シーラが着ていた寝間着も、白かった。

だが、白い布など珍しくない。

確かめる前に、馬車は街道を進んでいった。

セレナは追いかけようとして、一歩踏み出した。

しかし、膝から力が抜けた。

徹夜の治療で、体は限界だった。

馬車は遠ざかっていく。

「……待って」

声は届かなかった。

それでもセレナは、馬車が向かった方角を覚えた。

王都の南門から延びる街道。

ベルナへ向かう道と、途中までは同じだった。

偶然かもしれない。

何の関係もない荷物かもしれない。

それでもシーラが生きている可能性を、セレナは捨てたくなかった。

少女は確かに目を開けた。

確かに笑った。

確かに、ありがとうと言った。

あの声を、なかったことにはさせない。

セレナはもう一度、鞄を握り直した。

そして、馬車が消えた街道へ歩き始めた。

王宮で最高位治癒師と呼ばれた女は、その日、地位も財産も居場所も失った。

だが、まだ失っていないものがあった。

十年間で培った知識。

母から受け継いだ願い。

そして、目の前の命を見捨てないという意志。

それらは、王子の命令でも奪えない。

夕暮れの街道に、セレナの影が長く伸びていた。

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