第四話 井戸の水が、子供たちを殺していた
ベルナの朝は、井戸の釣瓶が石縁に当たる音から始まる。
カラン、カラン。
水を汲む女たちの話し声。
桶を運ぶ子供たちの足音。
それが、この町のいつもの朝だった。
だが、今朝は違った。
「また子供が倒れたぞ!」
悲鳴が広場に響いた。
セレナは顔を上げた。
昨日、重い脱水症状で倒れた少年ノアを施療所へ運んだばかりだった。
夜のうちにガレスから借りた古い寝台で、ようやく数時間眠れたところだった。
疲れはまだ抜けていない。
靴底は剥がれかけ、足の傷も痛む。
それでも、体は勝手に動いた。
「どこですか!」
広場へ駆け出す。
井戸の周りには、人だかりができていた。
「染物屋の娘さんだって!」
「昨日は粉屋の双子も寝込んだらしいぞ!」
「また井戸の水か?」
「馬鹿を言うな! 俺たちは何十年もこの水を飲んでるんだ!」
怒鳴り声が飛び交う。
水桶を抱えた女たちは、不安そうに顔を見合わせていた。
そこへ、ノアの母親リゼが駆け寄ってきた。
「先生!」
「リゼさん。ノアは?」
「おかげさまで、少しずつ水を飲めるようになりました。ガレスさんが診てくれています」
「よかった。でも、まだ無理はさせないで」
「はい。それより……!」
リゼは広場の奥を指さした。
「染物屋のミーナちゃんが、今朝から呼びかけても返事が弱くなっているんです!」
セレナの表情が変わった。
「案内して!」
染物屋の奥の部屋には、九歳の少女が横たわっていた。
名前はミーナ。
母親が寝台のそばに座り、小さな匙で水を飲ませようとしている。
「お願い……もう一口だけ……!」
だが、少女は顔を背けた。
唇は乾き、頬はこけている。
呼吸も速かった。
セレナはすぐに膝をついた。
「ミーナ。聞こえる?」
少女のまぶたが、わずかに動いた。
返事はない。
セレナは脈を確かめた。
速い。
弱い。
手足も冷たい。
昨日のノアと同じように、重い脱水が疑われた。
「いつから具合が悪いんですか?」
「昨日の朝からです。何度も吐いて、お腹も下して……」
母親の声が震えた。
「私が悪いんです。冷たい水なんか飲ませたから……!」
セレナは首を横に振った。
「お母さんのせいだと決めつけないでください」
「でも……!」
「今は原因を責めるより、ミーナを助けることが先です」
セレナは少女の顔を覗き込んだ。
呼びかけへの反応が弱い。
無理に水を飲ませれば、気道に入る危険がある。
「リゼさん、施療所へ走って。ガレスさんに、重症の子供がいると伝えて!」
「はい!」
「それから、運ぶための荷車をお願い!」
リゼが飛び出していった。
セレナは母親に向き直った。
「ミーナが吐いたときは、顔を横へ向けてください。無理に飲ませないで」
「……はい」
「私がそばにいます」
母親は少女の手を握った。
「ミーナ……お願い、死なないで……」
その言葉に、セレナの胸が痛んだ。
四日前。
王都の医療院で、シーラの母親も同じように祈っていた。
娘を助けてほしいと。
ただ、それだけを願っていた。
セレナはミーナの呼吸を確かめながら、静かに呟いた。
「……今度こそ」
もう、誰の命も書類一枚で消させたくない。
その思いを胸に、搬送の準備を続けた。
ガレスが荷車とともに到着したのは、それから間もなくのことだった。
「患者はどこだ!」
片脚を引きずりながら、診療用の鞄を抱えている。
ガレスは元兵士だった。
戦場で脚を負傷したあと、軍の衛生班で身につけた知識を生かし、ベルナの施療所を預かるようになったという。
医療設備は乏しく、使える薬も限られている。
それでも、町で頼れる数少ない医療従事者だった。
ガレスはミーナの状態を確認し、顔をしかめた。
「……またか」
「重い脱水が疑われます。反応も弱い。すぐに施療所へ」
「分かった」
ガレスは母親へ声をかけた。
「金の話はあとだ。まず運ぶぞ」
母親が泣きながら頭を下げた。
セレナはガレスと協力し、少女を荷車へ移した。
揺れをできるだけ抑えながら、施療所へ向かう。
その途中、セレナはガレスに尋ねた。
「昨日から、ほかにも患者が増えていますか?」
「ああ。粉屋の双子も診た。二人とも腹を壊してる」
「症状は?」
「下痢と嘔吐だ。熱はそれほど高くない」
「……やっぱり」
セレナは唇を噛んだ。
ノア。
ミーナ。
粉屋の双子。
同じ町で、似た症状の子供たちが次々に倒れている。
偶然ではない可能性が高まっていた。
しかし、原因はまだ分からない。
だからこそ、調べなければならなかった。
午前中、セレナはリゼとともに南区の家々を回った。
まず、腹痛や下痢を訴えた人のいる家庭。
次に、症状が出ていない家庭。
患者のいる家だけを調べても、原因は分からない。
同じ井戸を使っていても健康な人がいるのか。
別の水源を使っている人にも患者がいるのか。
その違いが重要だった。
「昨日、何を食べましたか?」
「豆の煮込みです」
「家族も同じものを?」
「ええ。でも、具合が悪いのは娘だけで……」
「飲み水は?」
「広場の井戸です」
セレナは帳面に記録した。
次の家では、老人が答えた。
「うちは北の丘から水を運んでるよ」
「ご家族に具合の悪い方は?」
「今のところいないな」
さらに次の家。
「うちは井戸水を飲んでる。でも、必ず沸かしてるよ」
「病気の人は?」
「誰もいない」
セレナは記録を続けた。
午前中に十二軒。
そのうち、下痢や嘔吐を訴えた人がいる家は五軒。
発症者は八人。
聞き取れた範囲では、六人が広場の井戸水を加熱せずに飲んでいた。
残る二人は、飲んだ水の種類がはっきりしなかった。
一方、症状のない家庭にも井戸を使っている家はあった。
まだ調査数は少ない。
井戸を使う家庭の割合も、十分には把握できていない。
しかし、注意を呼びかけるだけの理由はあった。
「……井戸の水が怪しいんですね?」
リゼが尋ねた。
「可能性はあるわ」
セレナは頷いた。
「でも、決めつけてはいけない。食べ物や、人から人への感染も考えられるから」
「じゃあ、どうすれば……?」
「原因が確定するまで待っていたら、次の患者が出るかもしれない」
セレナは広場の方を見た。
「だから、調査と同時に、できる予防を始めるの」
広場の井戸には、すでに大勢の人が集まっていた。
「井戸を閉じるって本当か!」
「水がなきゃ飯も作れねえぞ!」
「病気が怖いからって、水を飲まずにいられるか!」
怒鳴り声が飛び交っていた。
井戸の管理人である老人が、石縁を叩いた。
「この井戸は、俺の祖父の代から使ってるんだ!」
セレナは前に出た。
「お話を聞いてください」
「お前が井戸を危険だと言ってる女か!」
「まだ原因と決まったわけではありません」
「なら、どうして騒ぎにする!」
老人の声には怒りがあった。
だが、セレナはその奥にある不安にも気づいた。
井戸を使えなくなれば、困る人がいる。
水を運ぶ力のない老人。
幼い子供を抱える母親。
毎日、大量の水を使う洗濯場や染物屋。
井戸を閉じるだけでは、問題は解決しない。
「……お名前を教えてください」
セレナが尋ねると、老人は眉をひそめた。
「バルドだ」
「バルドさん。ほかに水を汲める場所はありますか?」
「北の丘に湧き水がある。だが、遠いぞ。歩けば往復半日はかかる」
「その水は、今まで問題なく使われていますか?」
「少なくとも、広場の井戸よりは新しい水源だ。昔から飲み水に使ってる」
セレナは頷いた。
ただし、湧き水だから必ず安全とは限らない。
水源の周囲の状態も確認する必要がある。
「では、当面は北の丘の水を優先して使いましょう。飲む水や料理に使う水を、まず確保します」
「誰が運ぶんだ!」
バルドが叫んだ。
「俺みたいな年寄りに、半日も歩けって言うのか!」
「いいえ」
セレナは首を横に振った。
「運べる人が運びます」
広場が静かになった。
「……何?」
「荷車を持っている人。力仕事ができる人。水を運べる人たちに協力してもらいたいんです」
「そんな都合よく……」
「俺が行く」
低い声が響いた。
振り向くと、ガレスが立っていた。
「施療所の荷車を使える。診療の合間になるが、一度くらいなら運べるぞ」
「ガレスさん……!」
「ただし、一台じゃ町中の水は運べねえ」
「分かっています」
セレナは広場を見回した。
「ほかに、協力してくださる方はいませんか?」
沈黙。
誰も手を挙げない。
セレナは胸が締めつけられた。
当然だった。
皆、自分の生活で精いっぱいなのだ。
そんなとき。
「……俺も行くよ」
若い男が手を挙げた。
市場で野菜を売っている青年だった。
「荷車はないけど、桶なら二つ運べる」
「うちの荷車も使っていいぞ」
粉屋の主人が続いた。
「ただし、午後までには返してくれ。粉を運ばなきゃならん」
「ありがとうございます!」
リゼも声を上げた。
「私たちは、運ばれた水を分ける係をします!」
少しずつ、人々が動き始めた。
セレナは深く頭を下げた。
「皆さん、ありがとうございます」
そして、井戸の石縁に手を置いた。
「この井戸を永久に使えなくするつもりはありません。原因を調べ、安全を確認するまで、飲み水として使うのを控えてほしいんです」
バルドはしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐いた。
「……分かった」
老人は井戸の蓋を閉めた。
「俺が見張る。勝手に飲むやつが出ないようにな」
セレナは驚いた。
「いいんですか?」
「子供が死ぬかもしれねえんだろ」
バルドは苦々しく笑った。
「井戸を守るために子供を死なせたら、俺は何を守ってるんだって話だ」
その言葉に、セレナは胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
水の運搬は、想像以上に大変だった。
北の丘まで往復するには時間がかかる。
荷車に積める水にも限りがある。
ようやく運んできた水を、汚れた桶へ移そうとする人もいた。
「待ってください!」
セレナが声を上げた。
「その桶は、何に使っていましたか?」
「洗濯だよ」
「洗剤や汚れが残っているかもしれません。飲み水には使わないでください」
「じゃあ、何に入れろって言うんだ!」
女性が困った顔をした。
セレナは周囲を見回した。
清潔な容器が足りない。
水を運ぶだけでは不十分だった。
「……そうか」
セレナはノートを開いた。
水源。
運搬。
保管。
使用。
そのすべてに、危険が入り込む可能性がある。
「飲み水専用の桶を決めましょう」
セレナは提案した。
「洗濯用とは分けて、印をつけます。水を汲む道具も清潔に保ち、使わないときは蓋をしてください」
「文字が読めない人は?」
リゼが尋ねた。
「絵を描くわ」
セレナは板切れを借りた。
飲み水用の桶には、青い丸。
洗濯用には、黒い線。
誰でも区別できるようにした。
さらに、手を洗う場所を決めた。
便所を使ったあと。
食事を作る前。
子供に食べ物を与える前。
清潔な水と石鹸が足りない家庭には、共同の洗い場を使ってもらう。
ただし、手洗いに使う水まで飲用の水と混ぜないようにした。
「……やることが多すぎるわね」
リゼが呟いた。
「ええ」
セレナは苦笑した。
「でも、一つずつならできる」
夕方までに運べた水は、桶三十六杯分。
町全体には、到底足りない。
そこでセレナは、各家庭の人数と必要量を聞き取った。
最初は一軒につき二桶ずつ配る予定だった。
だが、幼い子供が多い家庭や、病人を抱えた家庭では足りない。
「うちは六人家族なんだよ!」
「寝込んでる母親にも水が必要なの!」
不満の声が上がった。
セレナは配分表を見直した。
「……そうですね」
そして、全員に聞こえるように言った。
「同じ量を配ることが、公平とは限りません」
人々が顔を上げた。
「必要な量は、家族の人数や病人の有無で違います。まず飲み水と調理用の最低限を確保して、足りない分を追加で運ぶ方法を考えましょう」
リゼが頷いた。
「それなら、私が家族の人数を確認して回ります」
「頼める?」
「もちろん!」
ガレスが笑った。
「……あんた、本当に人使いが荒いな」
「すみません」
「褒めてるんだよ」
セレナは思わず笑った。
王宮では、命令すれば人が動いた。
ここでは違う。
一人ひとりに説明し、納得してもらい、協力してもらう必要がある。
時間はかかる。
失敗もする。
けれど、その分だけ確かなものが積み重なっていく。
日暮れ前。
セレナはバルドとともに、井戸の裏手を調べていた。
石垣の向こうには、細い排水溝がある。
染物屋から流れた色水が、地面を濡らしていた。
さらに上流には、共同便所があった。
「……ここは?」
セレナが尋ねると、バルドが答えた。
「昔からある便所だ。町の連中が使ってる」
セレナは地面を見た。
最近の大雨で、土が崩れている。
排水溝の一部が傾き、汚れた水が井戸の石積みの方へ流れていた。
石の隙間には、湿った土が詰まっている。
「……もしかして」
セレナはしゃがみ込んだ。
井戸の外壁と、排水溝の位置を確かめる。
汚水が地下へ染み込み、井戸の水へ混入している可能性がある。
ただし、地表の様子だけでは断定できない。
染物屋の排水による化学的な影響も考えられるし、病気の原因が複数ある可能性もある。
「バルドさん。この辺りが崩れたのは、いつですか?」
「……十日ほど前の大雨だな」
「病人が増え始めたのは、そのあと……」
セレナはノートに日付を書き込んだ。
時間的な関係はある。
だが、それだけでは証拠にならない。
水源を調べ、患者の発症状況と突き合わせる必要がある。
「町の役人を呼んでいただけますか?」
バルドは顔をしかめた。
「……また揉めるぞ」
「分かっています」
セレナは立ち上がった。
「でも、放っておくわけにはいきません」
やって来た役人は、昨日と同じ男だった。
井戸の周囲を見回し、不機嫌そうに言った。
「今度は何だ?」
セレナは排水溝を指した。
「大雨で地面が崩れ、汚水が井戸の近くへ流れ込んでいます」
「だから?」
「井戸の水が汚染されている可能性があります。排水溝の修繕と、井戸の調査が必要です」
「金がない」
即答だった。
セレナは眉をひそめた。
「まだ費用も出していません」
「出したところで同じだ。町の予算に余裕はない」
「では、病人が増えた場合の費用は?」
「……何?」
「施療所の負担が増えます。働けない人が増えれば、町の収入も減ります。子供が亡くなれば、取り返しがつきません」
役人は顔をしかめた。
「脅すつもりか?」
「違います」
セレナは静かに答えた。
「何もしない場合にも、費用がかかるという話です」
役人は黙った。
「今すぐ大規模な工事をする必要があるとは言いません。まずは崩れた場所を調べ、汚水が井戸へ近づかないよう、応急的に流れを変える方法を考えましょう」
「誰がやるんだ?」
「私も手伝います」
セレナが答えると、バルドが鼻を鳴らした。
「俺もやる」
役人が振り向いた。
「バルド?」
「この井戸は、俺の祖父の代から守ってきたんだ」
老人は石縁に手を置いた。
「だからこそ、俺の代で子供を死なせる井戸にはしたくねえ」
役人は言葉を失った。
しばらくして、深く息を吐く。
「……分かった。明日の朝、石工を一人寄越す」
「ありがとうございます」
「ただし、修繕費が出せるかは別だぞ」
「ええ。まずは状況を確認しましょう」
セレナは頷いた。
小さな前進だった。
しかし、何もなかった昨日とは違う。
夜。
セレナは施療所へ戻った。
ミーナはまだ寝台に横たわっていた。
ガレスが水分補給を続け、状態を見守っている。
「……どうですか?」
セレナが尋ねると、ガレスは頷いた。
「朝より反応がいい。少しずつ飲めるようになった」
セレナは少女のそばへ座った。
「ミーナ。聞こえる?」
少女がゆっくり目を開けた。
「……お水」
母親が顔を上げた。
「ミーナ!」
「……喉、かわいた」
セレナは微笑んだ。
「よく頑張ったわね」
ガレスが飲める状態を確かめ、母親に少量ずつ水分を与えるよう伝えた。
少女は少し飲み、再び目を閉じた。
まだ危険が去ったわけではない。
それでも、母親は泣きながら笑った。
「……ありがとうございます」
セレナは首を横に振った。
「お礼は、元気になってからでいいですよ」
母親は何度も頷いた。
その光景を見て、セレナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
シーラのことを思い出す。
あの子も、こうして目を開けた。
母親に会いたいと言った。
そして、ありがとうと笑った。
今、どこにいるのだろう。
生きているのだろうか。
セレナは一瞬、目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げた。
今は、目の前の患者を守る。
そして、いつか必ずシーラの真実を確かめる。
その決意は、少しも揺らいでいなかった。
施療所を出ると、広場には小さな灯りがともっていた。
井戸の蓋には、板が立てかけられている。
『調査中につき、飲用を控えてください』
その下に、別の紙が結びつけられていた。
『水を運べる人は、朝の鐘で集合』
セレナは足を止めた。
自分が書いたものではない。
誰かが、自分の意思で書いたのだ。
その横では、若い男たちが荷車の車輪を修理していた。
女たちは飲み水用の桶を洗い、子供たちは蓋に使う板を運んでいる。
誰も魔法を使っていない。
誰も銀環を持っていない。
それでも、人々は動いていた。
セレナは静かに息を吐いた。
王宮では、一人の患者を救うために大量の魔力を使った。
しかし、今ここで行われているのは違う。
井戸の水を調べる。
安全な飲み水を運ぶ。
清潔な容器を使う。
病人の状態を記録する。
どれも地味で、時間のかかる仕事だ。
けれど。
もし、この町で病気になる人を減らせたなら。
一人を治すよりも、ずっと多くの命を守れるかもしれない。
「……お母さん」
セレナは胸元の首飾りに触れた。
『治せない病気を、減らす方法を探しなさい』
母の言葉が、ようやく形になり始めていた。
そのとき。
「先生!」
パン屋の主人が駆け寄ってきた。
「ちょっと聞いてくれ!」
「どうしました?」
「うちの娘も、昨日から腹を壊してるんだ」
セレナの表情が変わった。
「広場の井戸は使っていますか?」
「いや。うちは裏庭の樽の水を使ってる」
「……樽?」
「ああ。雨水も混ざってるけどな」
セレナはノートを開いた。
「娘さんは、ほかの病人と接触しましたか?」
主人は少し考えた。
「……そういや、染物屋のミーナちゃんの看病に行ってたな」
セレナの鉛筆が止まった。
井戸を使っていない家でも、患者が出ている。
別の水源が原因なのか。
人から人へ感染しているのか。
それとも、複数の原因が重なっているのか。
まだ分からない。
セレナは深く息を吸った。
「明日、娘さんの話も聞かせてください」
「分かった。俺も手伝うよ」
主人は頷いた。
「うちの客なら、話を聞いてくれるはずだ」
セレナは微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして、ノートに新しい項目を書き加えた。
『飲み水以外の感染経路についても調査する』
井戸の水だけを調べていては、見落とすものがある。
病気は、人々の暮らしの中で広がっていく。
ならば、暮らしそのものを調べなければならない。
セレナは広場を見渡した。
水を運ぶ人。
桶を洗う人。
病人を看病する人。
明日のために、働く人々。
その一人ひとりが、この町を救う力になる。
セレナはノートを閉じた。
「……明日も、忙しくなりそうね」
小さく笑う。
だが、その表情には、もう追放された日の絶望だけではなかった。
新しい目的があった。
新しい仲間がいた。
そして、守りたい命があった。
王宮から追放された元最高位治癒師は、今、魔法を使わずに町を救おうとしていた。




