第二十八話 薬の値段を十倍にした貴族たち
ミナが薬房の戸を蹴るように開けたのは、まだ鐘が六つ鳴る前だった。
「セレナ先生、値札が変わっています。昨夜の十倍です」
差し出された仕入れ票には、王国産の解熱用薬草一束につき銀貨二枚とあった。
昨日までは銅貨二十枚。
患者から受け取る診療代では、一束さえ買えない。
「誰が決めたの?」
「王国側の三商会です。帝国の問屋にも買い占めが入っています」
薬房の奥で、エドガーが空になった木箱を逆さにした。
最後の乾燥葉が二枚、床に落ちた。
「今ある分は?」
「重症者向けの調合なら三日。ただし、新しい患者が増えなければ、です」
その条件が守られないことは、診療所の門にできた列を見れば分かった。
薬房の前に、解熱剤を求める父親が立っていた。
握りしめた硬貨では、値上がりした薬草を一束も買えない。
「昨日なら買えたんです。娘は昨夜から熱が……」
ミナが帳面を閉じかけた手を止めた。
セレナは診察を先に行うよう告げ、薬の必要量を確認した。
高い薬を誰にでも渡せば、明日必要な患者に届かない。
「在庫を隠して値をつり上げた商人がいるなら、帳簿を調べます。でも今日の治療を、その結果待ちにはできません」
セレナは代替できる薬草を薬師と確認し、必要な患者には施療院の備蓄を使うと決めた。
父親は何度も頭を下げたが、彼女は礼より娘の症状を詳しく聞いた。
昼前、上等な外套を着た男が現れた。
王国商会の代理人と名乗り、金の留め具がついた契約書を机に置く。
「皇女殿下のお口添えがあれば、供給は再開できます。ただし王国から逃げた者への無料配布はお控えいただきたい」
「患者の国籍を調べてから薬を渡せと?」
「慈善と商売は別です。あなた方の理想に、商人が付き合う義務はありません」
セレナは契約書を閉じた。
男の主張には一部、現実があった。
運ぶ者にも採る者にも賃金は要る。
だからこそ、仕入れ値を示さず患者の出自で値段を変える契約は結べない。
「取引はお断りします。ただ、輸送費と適正な利益を明示した見積もりなら受け取ります」
男は笑わなかった。
「三日後には、あなたも同じことを言えなくなりますよ」
扉が閉まると、ミナが拳を握った。
「悔しいです。あんな連中に」
「悔しい。でも、怒っている間にも在庫は減る」
セレナは黒板を三つに区切った。
いま必要なもの。
代替できるもの。
使わなくてもよいもの。
薬草を使う調合の中には、十分な水分補給や休息の確保と組み合わせることで、投与量を慎重に見直せるものがあった。
ただし、重症者の薬を勝手に薄めることはしない。
患者ごとの症状をエドガーが確認し、変更した処方は記録に残す。
「節約を口実に、必要な治療を削ったら同じことになるわ」
ミナはうなずき、薬棚に赤い札を貼った。
重症者優先。
変更は医師の確認後。
午後、農家のティナが土のついた靴でやってきた。
「同じ効き目の草なら、東の丘にもあります。けれど、採れるのは若葉だけ。来月まで量は出ません」
「今すぐの解決にはならないわね」
「でも来月には、誰かに首根っこをつかまれずに済む」
その言葉を聞き、セレナは初めて笑った。
エドガーは帝国西部の医療院に緊急融通を打診し、ミナは在庫表を持って各地の薬房を回った。
アーデリアからは軍の備蓄を無条件で渡すことはできないと返事が来た。
兵士にも患者がいる。
代わりに、使途を公開し、補充期限を定めるなら一部を貸与できるという。
「条件があるほうがいい」
セレナは書類に署名した。
善意だけに頼れば、次に困るのは別の患者だ。
夕暮れ、診療所の裏口で小さな女の子が母親の袖を引いていた。
「お薬、ないの?」
母親は答えられない。
少女の額は熱く、呼吸は浅かった。
セレナはしゃがみ、目線を合わせた。
「診察はできる。必要な薬があれば、ちゃんと用意するために皆で動いているよ」
言いながら、胸の奥が痛んだ。
約束は、実現できて初めて約束になる。
診察室でエドガーが少女を診て、残っていた薬を必要量だけ処方した。
ミナはその横で在庫の数字を一つ減らした。
薬房の前で、老人が小銭を数え直していた。
「昨日は買えた薬が、今日は買えないのか」
ミナはすぐに答えられなかった。
値上がりを説明しても、熱に苦しむ孫が楽になるわけではない。
セレナは老人の手から処方箋を受け取り、在庫と代替できる処置を確認した。
「払えるかどうかで、診察の順番は変えません」
その約束を守るためにも、共同備蓄は必要だった。
薬を買えずに帰ろうとした父親は、子供の手を強く握っていた。
「明日まで待てば、少しは安くなりますか」私は答えに詰まった。
今夜必要な薬を、明日まで待たせることはできない。
私は薬を渡し、会計帳に未収と記した。
「あなたに借りを作りたいのではありません。次に同じ人が来たとき、薬が残る仕組みを作りたいんです」父親が去ったあと、私は仕入れ価格と在庫数を並べ、誰が値上げの利益を得ているか調べ始めた。
夜半、西部の医療院から使者が到着した。
荷車は二台。
乾燥薬草と包帯、それに医療院長からの短い手紙が載っていた。
『返却は急がない。
次に困った土地へ渡してほしい』
ミナが目を潤ませる。
「これなら、あと何日かは」
「何日か、ね。永遠じゃない」
セレナは新しい帳簿の表紙に「共同備蓄」と書いた。
どこから何を受け取り、誰に何を渡したか。
誰でも確認できる仕組みにする。
翌朝、商会の男が再び訪れたとき、薬房の前には患者だけでなく、協力を申し出た薬師と農家が並んでいた。
男は値札を見直した。
しかし、セレナは勝ったとは思わなかった。
三日後を越えた先にも、病気は待っている。
薬の値段を下げる仕事は、誰か一人を言い負かして終わるものではなかった。
翌朝、共同備蓄の帳面を開いたミナは、最初のページに三つの欄を設けた。
受け取った薬草、使った量、次の補給予定日だ。
「値段だけ書いても、いつ足りなくなるか分かりません」
「ええ。安い薬があっても、必要なときに届かなければ意味がないわ」
セレナは遠方の薬師たちへ、調合の品質を確かめる手順と保存方法を送った。
産地の違う薬草を、名前だけで同じものとして扱わないためだった。
午後、値上げを告げに来た商会の代理人が再び姿を現した。
薬房の前には、共同備蓄に協力する農家と薬師が並んでいる。
「まだ足りませんよ」
代理人は吐き捨てた。
「ええ。だから、あなたからも正当な価格の見積もりを受け取ります」
セレナは答えた。
相手を追い払えば薬が増えるわけではない。
契約条件を明らかにし、誰か一人に供給を握らせないことが必要だった。
男は返事をせず、見積書を持ち帰った。
薬房ではリゼが代替薬の在庫を数え、使用期限の近い瓶を手前に移していた。
「値段が下がるまで、患者さんを待たせるわけにはいきませんから」
セレナはうなずいた。
商人に勝つことより、今夜の投薬を途切れさせないこと。
その順序を見失えば、どんな正しい交渉も患者には届かない。
勝ったとは思わなかった。
だが、患者の薬を人質にした交渉だけは、もう受け入れないと決めていた。




