第二十七話 病院を焼けば、疫病は消えるのか
ベルナの町で、朝鐘より先に火の見櫓が鳴った。
火事ではない。
王国の役人が、感染者の住む長屋を焼却すると宣言したのだ。
「家を燃やせば病が消える。王都からの命令だ」
役人の背後には油壺を抱えた兵士が並んでいる。
長屋には、寝たきりの老人と子供が残っていた。
「待ってください。避難先は」
ベルナの行政官オルドの問いに、王国の役人は肩をすくめた。
「病人を移せば、そこが新しい感染源になる」
「それなら焼く前に、患者をどうするつもりです」
「犠牲は必要だ」
言い切った瞬間、群衆の中から石が飛んだ。
兵士の盾に当たり、乾いた音がした。
オルドは両手を広げる。
「やめろ! ここで争えば逃げ道まで塞がる!」
怒号は止まらなかった。
長屋の前に積まれた薪を見て、住人たちは荷物を抱えて飛び出した。
寝たきりの老人だけが二階に残されている。
「火をつける前に、避難先と患者の搬送先を示してください」
オルドの声に、役人は苛立った。
「命令に逆らうのか」
「患者を置き去りにして焼けば、病気ではなく火で人が死にます」
町の荷運び人が二階へ上がり、老人を背負って降りてきた。
周囲の人々が道を空ける。
役人が持っていた松明の火は、風にあおられて揺れていた。
オルドは松明ではなく、役人の手を見た。
震えていた。
命令を守らなければ処罰される恐怖が、その指を強張らせているのだ。
石鹸職人ダンは、工房から台車を引き出した。
上には石鹸の箱、清潔な布、セレナが残した衛生記録が積んである。
「おい、どこへ運ぶ気だ」
隣人が声をかけた。
「燃やされたら終わりだ。道具も記録も、また一から作ることになる」
「だったら逃げろよ。お前の家もすぐそこだ」
ダンは長屋の二階を見上げた。
窓辺に、小さな手が見えた。
「逃げるなら、あの子を先に下ろしてからだ」
彼は台車を止め、階段へ走った。
煙はまだ出ていない。
だが、兵士が油を撒けば一瞬で手遅れになる。
国境の施療院では、セレナが川向こうの煙の色を確かめていた。
「火が上がったわけではないようです。でも、見張り台に人が集まっています」
ガレスが報告する。
橋は前日の臨時措置のあと、再び厳しく封鎖されていた。
王国へ医療班を送れば、王子に侵攻の口実を与えかねない。
皇女アーデリアは地図を広げた。
「武装した兵は越境させません。ですが、王国の町が医療資材を求めるなら、非武装の支援について協議できます」
「協議を待つ間に火がついたら」
セレナの問いに、皇女は目を伏せた。
「だからこそ、向こう側の人たちが使える方法を先に伝えましょう」
エドガーが紙を取り出した。
感染者を隔離して看護する場合も、火災で住居を失えば健康な人まで密集し、別の危険が生じる。
焼却は病の原因を確かめる代わりにならない。
セレナは、ベルナで協力した町役人オルドへ宛てて、短い手紙を書いた。
『患者を置いたまま建物を燃やしてはいけません。
まず避難できる場所を決め、重症者を運ぶ人手を確保してください。
使用した布や器具は分け、記録を残してください』
手紙は帝国の商人を通じて、王国側へ運ばれた。
昼前、ベルナの広場では、焼却を命じた役人が刻限を告げていた。
「正午までに立ち退け。残った者は王命に逆らったとみなす」
ダンは二階から少女を背負って降りてきた。
彼女の祖母は歩けず、階段の途中で止まっている。
「あと一人だ! 手を貸してくれ!」
兵士の一人が反射的に駆け寄った。
役人が怒鳴る。
「命令を忘れたのか!」
「この人を置いて火をつける命令なら、私は従えません」
兵士は祖母の腕を取った。
群衆が道を開ける。
怒りの声は、いつの間にか運搬の掛け声に変わっていた。
そこへオルドが走り込んだ。
手には帝国側から届いた紙がある。
「焼く前に、ここを読んでください」
王国の役人は紙を奪い取った。
「追放者の入れ知恵か!」
「誰の言葉でも構いません。避難先を決めないまま焼けば、患者も家族も路上に出ます。町の井戸も、避難小屋も足りていない」
「王命だぞ」
「ならば王命に従った結果を、私の名で記録します。誰が何人を建物に残し、誰が点火を命じたのか、全て」
オルドは町の公印を押した記録帳を掲げた。
役人の顔が引きつった。
命令を口にするのは簡単でも、結果に自分の名が残るのは別だった。
「……点火を一刻延ばす」
「一刻では足りません」
「では、避難が終わるまでだ!」
役人は吐き捨てるように言った。
長屋から運び出された老人は、焼却用の油壺を見て震えた。
「ここには、亡くなった妻の道具がある」
オルドは部下に家財の持ち出しを手伝わせた。
病を防ぐための措置が、住民の暮らしまで奪ってよい理由にはならない。
「必要な隔離は続けます。でも、理由と期限を説明してください」
セレナから届いた指示書には、患者の診察と同じくらい、住民に説明することが強く記されていた。
夕方までに、長屋の住民は寺院の空き部屋と町の倉庫へ分かれて移った。
発熱者とそれ以外を可能な範囲で離し、水と寝具の置き場を決めた。
ダンは手洗い用の石鹸を運び、オルドは移動先と人数を帳面に書き込んだ。
家屋の消毒や清掃が必要かどうかは、病の性質と汚染状況を見て判断する。
誰も、それだけで疫病が消えるとは言わなかった。
夜、オルドは帝国へ返書を送った。
『火は止めました。
しかし王都は次の命令を出すでしょう。
こちらだけでは、いつまでも守り切れません』
セレナはその文字を読み、しばらく返事を書けなかった。
彼女が王国を追われたとき、ベルナの人々は見知らぬ治癒師に手を差し伸べてくれた。
今度は、彼らが命令に逆らって患者を守っている。
「助けられる側と、助ける側は、決まっていないんですね」
エドガーの言葉に、セレナは頷いた。
ベルナからの報告は、臨時通行を許された連絡係が検問で内容を確認され、帝国側へ届けたものだった。
報告には、焼却命令を停止した役人自身の署名があった。
オルドは署名を求める前に「責任を一人に押しつけない。町の避難記録にも私の名を残す」と伝えたという。
役人は最後まで松明を手放さなかった。
ただ、油壺を持つ兵に退くよう命じ、火をつけなかった。
王命を破ったことは消えない。
それでも、長屋の住人はその夜を生き延びた。
翌朝、彼女は皇女に新たな提案書を差し出した。
国境を越えられないなら、王国側で医療を続ける人たちへ知識と資材を届ける仕組みを作る。
火を止めたのは魔法ではない。
人の名前を記録する勇気と、目の前の命を置いていかない決断だった。




