第二十三話 千人を受け入れるには、千人分の水がいる
国境診療所の裏庭には、空の樽が四十二個並んでいた。
ミナは樽の前に二本の棒を置き、給水に並ぶ人の列を二つに分けた。
飲み水を受け取る列と、容器を洗う列だ。
「同じ桶に手を突っ込まないでください。汲む人を決めます」
最初は不満の声が上がった。
だが、水を汲む子供が桶の縁を踏み台にしているのを見た母親が、自分から列の整理を手伝った。
セレナは一人当たりの配分を帳面に書き、重症患者用の水を別に確保した。
配給を減らす決断は容易だった。
しかし数字を隠せば、誰かが最後に何も受け取れなくなる。
「足りないことも、いつ補給できるかも、全部掲示しましょう」
不足を告げる札の前で人々は顔を曇らせた。
それでも列が崩れなかったのは、隣に次の給水時刻が書かれていたからだった。
ミナは薬草の仕入れに加え、給水班の記録を臨時に手伝っていた。
医療判断はエドガーたちに任せ、樽の残量と配給先を照合する役目だった。
「昨日の夕方には全部満ちていたのに」
給水担当も兼ねるミナが樽の底を叩く。
乾いた音が響いた。
難民の数は千人を超え、診療所に入れない人々が丘の斜面まで寝床を広げている。
飲み水、煮沸、手洗い、寝具の洗濯。
必要な水は患者が増えるより速く減った。
「井戸は?」
「一つは水位が下がっています。もう一つは家畜小屋の下流です」
セレナは地図を広げた。
川は近いが、上流には軍の野営地がある。
見た目が澄んでいても安全とは限らない。
「今ある清潔な水は重症者と飲用を優先。手洗い用も確保する。洗濯は工程を分けましょう」
「洗濯を減らせば、感染が広がります」
エドガーが指摘する。
「だから減らすのではなく、汚れた布を集める場所と、洗い終えた布を置く場所を分けるの」
セレナは木炭で二本の線を引いた。
泥の道を一方通行にする。
水汲みの列と患者の搬送路も交差させない。
そのとき、門の外で怒鳴り声が上がった。
「帝国の人間には樽で配るのに、王国の者には柄杓一杯か!」
水を受け取れなかった男が、配給台を揺さぶっていた。
腕には幼い娘がしがみついている。
「国籍では分けていません。人数と必要量で記録しています」
ガレスが台帳を示しても、男は引き下がらなかった。
「記録で喉が潤うか!」
その言葉にセレナは返せなかった。
台帳が正確でも、娘の唇は乾いている。
セレナは娘の顔を確かめた。
目は開き、呼びかけに答える。
緊急の脱水所見はないが、長く待たせてよい状態でもない。
「あなたの分は確保します。その代わり、運搬を手伝ってもらえますか」
「俺に働けと?」
「水を増やす方法が、今はそれしかないんです」
男は唇を噛み、やがて娘を妻に預けた。
午後、皇女の使いが到着した。
軍用の荷車六台を借りられるという。
ただし、川からの運搬には護衛が必要だった。
「兵を医療のために動かすなと、国境司令官が」
使者が言いにくそうに報告した。
「では司令官に、患者が兵士だった場合も同じ答えか聞いてください」
アーデリアは冷静に告げた。
護衛が決まるまで、セレナは水の処理を指示した。
沈殿させ、濁りを除き、適切に煮沸する。
布でこしただけでは病原体を取り除けないことも、看護人全員に伝えた。
「薪が足りません」
「燃料の見積もりも必要ね」
水を確保すれば終わりではない。
薪、釜、運搬人、器の清潔さ。
どれか一つ欠ければ、せっかく運んだ水が再び汚れる。
日暮れ前、最初の荷車が戻った。
樽の蓋には赤い印が付けられている。
未処理の水を誤って飲まないためだ。
朝に怒鳴っていた男が、泥まみれの手で樽を降ろした。
「これで何人分だ」
「まだ一日分にも足りないわ」
セレナは樽の容量を聞き、配給表に書き込んだ。
「今日運べた量と、煮沸に回せる量は別です。飲める状態にできるまでの時間も数えましょう」
ミナは唇を噛んだ。
「運んだだけじゃ、まだ渡せないんですね」
「そう。処理の終わった樽だけに青い札を付ける。赤い札の樽を間違って配ったら、努力が逆効果になる」
「……じゃあ、明日も行く」
セレナは頷いた。
感謝の言葉より先に、男に石鹸と手洗いの場所を示す。
運搬に参加した人が病気になっては意味がない。
配給表を確認すると、最初の行に新しい欄が増えていた。
『水を運んだ者』ではなく、『水を受け取れなかった者』。
ミナが書き足したのだ。
「忘れないためです。足りないことを、数字で見えるようにしたい」
セレナはその欄を消さなかった。
千人を受け入れるとは、千人に門を開けることではない。
明日の朝も生きていられるよう、必要なものを届け続けることだった。
配給所の隅で、小さな子供が空の器を抱えていた。
「お母さんの分も、もらえる?」
ミナは一瞬だけ帳簿に目を落とし、子供の手を取った。
母親は熱で列に並べないという。
「器を二つ持っていこう。運ぶのは私が手伝う」
数字の上では一世帯でも、必要な水を受け取れない人がいる。
セレナは配給表に『取りに来られない患者への巡回』という欄を加えた。
同じ夕刻、川の上流で兵士が倒れたという報告が届いた。
水不足だけでは済まない何かが、国境全体に広がり始めていた。
その報告を受けたころ、樽の残量を数え直したミナが青ざめた。
「計算が合いません。飲み水を先に配ると、夜勤の手洗い用が足りなくなります」
セレナは配給表を見た。
全員に同じ量を渡せば公平に見える。
だが、高熱で水分を失う子供と、歩いて水場へ行ける大人では必要量が違う。
「飲用の最低限は削らない。歩ける人には給水所まで来てもらう。寝たきりの人には運ぶ。水を運ぶ人員も患者数に含めて計画して」
「不公平だと言われます」
「配る水が減るなら、先に私の分を削って」
ミナが言った。
「それでは、あなたが倒れたときに配給が止まるわ」
セレナは首を振る。
「給水班にも最低限の飲み水が必要です。誰か一人の我慢に頼る計画は、明日には壊れます」
「理由を掲示しましょう。説明できない配給は、いつか奪い合いになる」
その夜、配給所で男が叫んだ。
自分の家族の桶だけが小さいという。
ミナは逃げずに帳簿を開き、幼児と重症者へ別に届けた水の量を示した。
男はすぐには納得しなかったが、列の後ろにいた老女が口を開いた。
「うちの孫にも運んでくれた。あれがなければ、ここまで歩けなかったよ」
男は桶を下ろした。
翌朝、川の上流を調べた衛生班から、野営地の排水が流れ込む地点を確認したとの報告が届いた。
川の水を無条件に飲用へ回す案は取り下げ、帝国の役所へ水運搬車の追加を要請した。
セレナは夜勤表の隅に書き添えた。
『水は樽の数ではなく、誰がいつ安全に使えるかで数える』。
調査結果が届いた日の夜勤が始まる前、ミナは新しい配給表を壁に貼った。
そこには水量だけでなく、配る担当者、運搬に使う時間、容器を洗う場所まで書かれていた。
「これなら、私が熱を出して休んでも、次の人が続けられます」
「そこが一番大切よ」
セレナが答えると、ミナは小さく笑った。
翌日の午後、以前配給台を揺さぶった男が戻ってきた。
今度は空の桶ではなく、二つの木枠を抱えている。
「車輪が余ってた。樽を載せる台車にできるかもしれない」
謝罪はなかった。
セレナも求めなかった。
男の娘は診察を受け、今は母親の膝で眠っている。
「助かります。まず清潔な容器だけを運ぶ道を決めましょう」
新しい配給表の隅に、ミナは小さく書いた。
『明日の水も、今日のうちに考える』
翌日の配給当番を決めると、ミナは自分の名前を一番下に書いた。
水を運ぶ人、量を測る人、飲めない患者を探す人。
表のどこかが空欄なら、その日の水は届かない。
数字は樽の中だけでなく、人の手にも支えられていた。
それは千人を救うための、最初の仕事の名前になった。




