第二十話 追放された私に、王国が頭を下げた
夜明け前の国境診療所には、濡れた薪の匂いが残っていた。
昨夜、受付を済ませた避難民は九百三十一人。
橋の王国側には、まだ数十台の荷車が並んでいる。
セレナが診療記録を閉じたとき、リゼが新しい一覧を差し出した。
「飲み水は午前中まで。毛布は四十枚不足。熱のある人の待機場所も、もういっぱいです」
「分かった。まずエドガーに重症者の人数を確認してもらって。私は守備隊長に水の補給を頼む」
そのとき、入口に金の飾りをつけた靴が現れた。
「セレナ・アルヴェイン殿。王太子レオニス殿下の使者として参りました」
昨夜、担架のために道を空けさせた男だった。
泥のついた礼服は着替えられ、手には金の封蝋が押された書状がある。
「王国医療院への復職を命じます。資格剥奪を特例で取り消し、財産を返還するとのお達しです」
セレナは書状を受け取らなかった。
「私を追放した命令は、間違いだったと認めるのですか」
「そのような表現は、書状には……」
「シーラという少女の死亡診断書は、訂正されましたか」
使者の視線が揺れた。
「その件は調査中と聞いております」
「では、私の無実を確かめずに、働けるときだけ戻れというのですね」
使者は唇を結んだ。
セレナの背後では、患者が咳き込んでいる。
ここで声を荒らげれば、休んでいる人まで不安にさせる。
「復職には応じません。ただし、王国の患者を助けるための話なら聞きます」
机に広げたのは復職命令書ではなく、国境の地図だった。
「王国側の橋のたもとに、屋根のある待機所はありますか」
「古い税関の倉庫が一棟」
「使える井戸は」
「二つ。ただし片方は、最近になって濁りが出たと……」
「なら、検査が終わるまで飲用には使えません。もう片方の水量と、煮沸に使える燃料を調べてください」
使者が戸惑った。
「私は復職の返答をいただきに来たのですが」
「その返答はしました。今は橋の向こうで人が倒れています」
エドガーが診療簿を置いた。
「王国から届いた通行札には名前しかない。症状も搬送先も分からない。何人が歩けず、何人が感染の疑いを持つかも不明だ」
「王都は混乱しております」
「混乱しているなら、不明と書いてください」
セレナは紙を五つの欄に分けた。
人数、症状、出発地、必要な介助、連絡先。
確定できない欄には推測を入れない。
「死者数まで少なく書く必要はありません。正しい数がなければ、次に必要な薬も寝台も計算できない」
使者はようやく筆を取った。
午前、皇女アーデリアが護衛二人を連れて到着した。
軍の水樽を追加で出す承認を求めるため、昨夜のうちに連絡していたのだ。
「帝国が救援に協力することと、王国の命令に従うことは別です」
アーデリアは復職書状を一読して言った。
「セレナを連れ戻す前に、王国の領内で患者を安全に運べるようにしてください。橋までたどり着けずに亡くなる人がいるのでしょう」
使者は俯いた。
「王太子殿下の裁可なしに、私には……」
「では、あなたの権限で何ができますか」
アーデリアの問いに、男は答えを探した。
「国境の守備隊への伝令と、税関倉庫の一時使用なら、私の名で要請できます」
「それを先に。国境を越える人の検査と治療は帝国側で手配します。患者の情報は医療担当者に限って共有し、追放者を探す名簿には使わせません」
セレナは頷いた。
昨夜、名を告げることさえ恐れた母親の顔が浮かぶ。
治療のための記録が、追っ手の手がかりになってはならない。
合意書には三つの項目を記した。
税関倉庫の開放、飲用水と搬送手段の確保、患者数と症状の定期報告。
王国側の署名欄には、使者が自分の職名を添えた。
「私の権限を超える医療者の安全通行と拘束命令の撤回は、王都へ持ち帰ります」
「回答が来るまで待つことはできません」
「承知しています。できることから始めます」
その声には、朝より少しだけ迷いが減っていた。
昼過ぎ、橋の向こうで騒ぎが起きた。
子供を背負った母親が検査所の前で立ち尽くしている。
熱でふらつく母親に、衛兵が通行札の署名を求めていた。
「札は村を出るときに渡されただけです。役人の署名なんて……」
使者が駆け寄る。
「私が確認する。検査所の責任者を呼んでくれ」
衛兵が渋ると、男は自分の身分証を差し出した。
「規則を無視しろとは言わない。医療班の診察を先に受けさせるための臨時通行だ。記録と責任は私が持つ」
王国側の担当者と帝国側の守備隊が確認し、母子は検査区画へ運ばれた。
セレナは母親の意識と呼吸を確かめ、エドガーに診察を引き継ぐ。
子供は母親の袖を握ったまま離れなかった。
「お母さんは、もう戻れないの?」
「まだ分からない。でも、ここで診てもらえる。あなたも一緒にいられるようにするね」
リゼが二人の受付札に同じ印をつけ、離れないよう看護人に伝えた。
使者はその様子を黙って見ていた。
「私は、王都に戻れば任務を果たしたことになると思っていました」
「任務の結果を待っている人は、ここにいます」
セレナが答えると、男は金の封蝋が押された書状を懐へ戻した。
夕方、使者は王都へ出発することになった。
帰路には患者数の一覧と、署名済みの救援要請書を持たせた。
「殿下には、何と伝えればよろしいでしょう」
「私の復職は断った、と。それから、王国の人々への治療は断らない、と伝えてください」
「王宮へ戻るおつもりは、ないのですか」
セレナはすぐに答えられなかった。
王宮医療院には、今も確かめたい記録がある。
シーラの名を消した者を知りたい。
あの夜、少女に何が起きたのかを知りたい。
けれど、真実を追うために王太子の命令へ従えば、また誰かの命を取引の材料にされる。
「いつか王都へ行くかもしれません。でも、戻る条件を決めるのは私です」
使者は深く頭を下げた。
朝の形式ばった礼とは違い、しばらく顔を上げなかった。
馬車が見えなくなるころ、リゼが駆け込んできた。
「先生、橋から新しい患者が来ます。国境近くの農家の方が、少女を連れて……」
「重症なの?」
「意識はあります。でも、ひどく痩せていて、手首に古い傷があるそうです」
セレナは診療室へ急いだ。
少女は毛布に包まれ、顔を伏せていた。
付き添いの老人が、震える声で言う。
「この子は、ずっと自分の名を隠していました。もう隠さなくていいと、伝えてやってください」
セレナは少女の目の高さに膝をつく。
「私はセレナ。ここでは、診察のために必要なことだけ聞くわ。あなたの名前を教えてくれる?」
少女がゆっくり顔を上げた。
「……シーラ」
セレナの胸が、音を立てて止まったように感じられた。
王宮の寝台。
小さな手。
翌朝、見せられた死亡診断書。
目の前の少女が、かすかに唇を動かす。
「先生……覚えてる?」
答えたい言葉は山ほどあった。
それでもセレナは、まず少女の呼吸を確かめた。
生きている。
その事実だけは、どんな書状にも消せなかった。




