第十九話 国境に千人の患者が押し寄せた
国境の橋に最初の荷車が着いたのは、朝霧が晴れる前だった。
荷台の老婆は肩で息をし、車輪の脇を歩く少年は片方の靴を失っていた。
続く荷車は三台。
そこから先は、歩く人の列だった。
「王都から追い出されたんです」
先頭の男が言った。
「療養地へ行けと。どこにあるかも教えられずに」
セレナは王国側の通行札を確かめた。
患者の氏名はある。
症状も、受け入れ先もない。
昨夜まで、国境診療所の空き寝台は十二床だった。
橋の向こうには、もう百人以上が並んでいる。
「隊長、門を閉じます」
衛兵が槍を構えた。
「待ってください」
セレナが割って入ると、守備隊長は険しい顔をした。
「王国の流行病を帝国へ入れるつもりか。帝国の住民が病に倒れたら、誰が責任を取る」
「無条件に通せとは言いません。橋の手前で危険な症状を見分け、必要な人から治療できる場所へ運びます」
「千人来たらどうする」
「当初の十一床に一床を増やした十二床は入院用です。歩ける人の待機場所、診察のための天幕、重症者の搬送先を分けます。医師の診察を受けた人数と、受付だけ済ませた人数も別に数えましょう」
「千人を一度に診ることはできません。だからこそ、今すぐ準備が必要です」
セレナは足元の土に線を引いた。
王国側に待機区画、橋のたもとに受付、帝国側に診療天幕。
発熱や咳のある人の動線は、ほかの人と分ける。
呼吸が苦しい人、意識の悪い人は、順番にかかわらず医師が診る。
「病名が分からない人もいる。熱がないから安全とは限りません。手洗いと清掃、換気、それから体調の経過観察が必要です」
エドガーが地図をのぞき込んだ。
「医師は五人。看護人も、病院から全員は呼べん」
「病院の患者を放っておくわけにはいきません。イーナには院内の指揮を頼みます。こちらには交代できる人数だけを」
伝令が走った。
昼前、街道の列は丘の向こうまで延びていた。
受付を終えた人数は六百四十二人。
列の長さから、さらに数百人はいると見積もられた。
千人という数字は、まだ確定していない。
「先に通せ!」
柵を揺らした男に、衛兵が槍を向ける。
「父が倒れそうなんだ。あの立派な馬車は通したじゃないか!」
「槍を下げてください」
セレナは男の父親の前に膝をついた。
呼びかけには答える。
だが、立ち上がる力がない。
「水分が足りていない可能性があります。看護人に状態を見てもらいましょう」
「順番を待てってことか」
「いいえ。危険な人から診ます。あなたのお父さんも、あの馬車の人も」
馬車の扉が開いた。
中から降りた母親が抱いていたのは、ぐったりした乳児だった。
唇の色が悪い。
「エドガー、こちらを!」
医師が駆け寄り、乳児を診療天幕へ運ぶ。
セレナは父親のそばに看護人を残した。
男はしばらく馬車を見つめていた。
「……貴族じゃなかったのか」
「馬車の見た目では決められません。あなたのお父さんも、きちんと診ます」
男の手が、柵から離れた。
「飲み水が、夕方までもちません」
ガレスが持ってきた報告に、セレナは言葉を失った。
井戸から運べる水には限りがある。
飲用、手洗い、器具の洗浄、調理。
どれも削れば別の危険が生まれる。
「帝国軍の備蓄を使わせてください」
「軍の水と薪だぞ。守備隊長が許すと思うか」
「使った量と補充の見込みを記録します。アーデリア殿下にも緊急の承認を求めます」
ガレスは苦笑した。
「君はこんな時まで帳面か」
「帳面がなければ、明日何が足りなくなるか分かりません」
ガレスは走った。
セレナは看護人たちに、飲用に適した水を優先して配るよう指示した。
調理や洗浄に別の水を使う場合も、用途に応じた処理を確認する。
水が足りないからと、汚れた水をそのまま飲ませるわけにはいかない。
ほどなく守備隊長が現れた。
「水樽を二十、薪を十束出す。だが、明日の補給は保証できん」
「ありがとうございます。足りない分は今夜中に報告します」
「礼はいい。帝国の村にも配る水が必要だ。それを忘れるな」
セレナは頷いた。
国境のこちら側にいる人々を守ることも、同じ仕事だった。
夕方、受付で泣き声が上がった。
「娘がいないんです!」
母親は二枚の受付札を握りしめていた。
親子で別の番号を渡され、母親が診察を受ける間に娘の姿が消えたという。
「名前は?」
「ミナ。七歳です。赤い上着を着ていて……」
リゼは受付簿を見た。
番号は記録されているが、家族の関係も移送先も書かれていない。
「私が探します。お母さんはここで待っていてください。戻ってきたとき、行き違いにならないように」
セレナは衛兵に各天幕を確認してもらい、リゼと荷車の間を回った。
少女は炊き出しの裏で見つかった。
母親の薬袋を胸に抱き、声を出さずに泣いていた。
「お母さんは診察が終わったよ。一緒に行こう」
少女は顔を上げた。
「置いていかれたと思った」
「ごめんね。どこにいるか、ちゃんと伝えられていなかった」
母親と再会した少女が泣き出すと、リゼは小さく息を吐いた。
「受付番号だけじゃ、家族を守れません」
「そうね。付き添いと移送先を記す欄を作ろう。離れるときには、本人にも説明する」
「文字が読めない人は?」
「同じ印をつけた札を渡す。ただし印だけを頼りにせず、名前も照合する」
リゼはその場で布札を作り始めた。
誰かに命じられるのを待たなかった。
セレナは、かつて自分一人で何でも解決しようとしていた頃を思い出した。
今は違う。
リゼも、ガレスも、エドガーも、それぞれに考え、動いている。
日没後、受付人数は九百三十一人になった。
まだ橋の向こうに列がある。
千人を超えるのは時間の問題だった。
診療天幕の灯りが揺れる。
重症者の搬送は続き、歩ける人には毛布と飲み水が配られた。
王国側で待つ人々にも、見張りと水を届ける手配をした。
「門は、閉じなかったな」
エドガーが言った。
「全部開けたわけでもありません」
「それでいい。今夜は全員を安全に通す力がない。だが、見捨てずに済む道はある」
セレナは首を振った。
「まだ、済んでいません。水は明日も必要です。寝台も、医師も」
そこへ衛兵が駆け込んだ。
「先生。王国の使者が、どうしてもお会いしたいと」
門の脇に、王国の紋章をつけた男が立っていた。
泥に汚れた礼服のまま、セレナを見ると膝をつく。
「セレナ・アルヴェイン殿。王国より、正式な願いを携えて参りました」
セレナは男の後ろを見た。
橋の上では、担架が一つ、なかなか進めずにいる。
「その願いは、患者を通す許可ですか」
「いえ、私は王太子殿下から、あなたに――」
「では、話を聞く前に、担架の通行を妨げないようにしてください」
使者が戸惑って道を空ける。
衛兵と看護人が担架を運び、病人の荒い息が二人の間を通り過ぎた。
セレナはようやく男に向き直った。
「お話は伺います。でも、その前に覚えておいてください。ここで待つ人々は、王宮からの返事を待って病気になったわけではありません」
使者は深く頭を下げた。
王国が求めているのは、一人の治癒師なのか。
それとも、目の前の命を救う方法なのか。
セレナはその答えを、明日の会談で確かめるつもりだった。




