第十八話 死者の数を隠した王子の命令
王宮の会議室で、第一王子レオニスは報告書を机に叩きつけた。
「死者が二百人だと? この数字を公表すれば、商人が王都から逃げる」
財務官は震える手で書類をめくった。
「二百人は現場からの暫定報告です。埋葬許可の申請は百八十七件。うち流行病との関連が確認できたのは、まだ六十一件で……」
「では、確定した十七人だけを発表しろ」
「十七人というのは、昨日までに王宮へ届いた死亡診断書の件数です。確認済みの六十一件とも一致しません」
レオニスは財務官の説明を遮った。
「市民が知りたいのは、王都が安全かどうかだ。死因の分からぬ者まで流行病に数える必要はない。残りは別の死因として処理させろ」
財務官は青ざめた。
「殿下。市場の閉鎖が必要な地区を伏せれば、荷車も人も流入し続けます。被害が広がれば税収も補給も、かえって失われます」
「いま商人が逃げれば、来月の軍の支払いができん。国境の兵が動かなければ、帝国に弱みを見せる」
レオニスは地図に拳を置いた。
自分が守ろうとしているのは民の健康なのか、王宮の威信なのか。
その問いには答えず、数字だけを指した。
書記官の羽根ペンが止まった。
「殿下、診断書の死因を書き換えるには、担当医師の確認が必要です」
「医療院の院長がいるだろう」
窓際に立つオルフェン院長が、ゆっくり顔を上げた。
「殿下。診療記録まで変えれば、患者の治療に支障が出ます」
「ならば記録を王宮で保管しろ。市民に見せる必要はない」
院長は反論しかけたが、結局、口を閉ざした。
会議が終わると、レオニスは書記官を呼び戻した。
「医療院の原簿を回収しろ。余分な写しがあれば処分させる。数字が漏れたら、お前の責任だ」
「……承知しました」
書記官は頭を下げた。
だが廊下に出ても、しばらく歩けなかった。
南市場に住む妹から、昨夜、甥が高熱を出したと知らせが届いている。
彼が公表する十七人という数字の中に、あの子の苦しみは入っていない。
王立医療院の地下書庫で、ユリウスは三冊の帳面を並べていた。
「掲示された死者は十七人。こちらの埋葬許可は百八十七件。けれど、全部が流行病による死亡とは限らない」
向かいに座るマルタが、書類の端を押さえる。
「それでも、医療院が把握している六十一件より少なく発表する理由はないわ」
「だから、分かっていることだけを残す。死亡日、氏名、住所、診断した医師。分からない欄は空白のままでいい」
ユリウスは埋葬許可の写しに番号を振った。
数字を大きく見せるためではない。
同じ人を二度数えないためだ。
書庫の扉が小さく鳴った。
入ってきた看護人が、声を潜める。
「南市場から搬送依頼です。でも、病人の家だからと水汲み場から追い返されているそうで……」
ユリウスは筆を置いた。
「僕が行く。マルタ、写しを頼める?」
「一人で抱えていたら、あなたも記録も失う。私が預かるわ」
南市場の共同住宅には、赤い布が結ばれた戸が幾つもあった。
病人のいる家を知らせる印だった。
だが、知らせるはずの布が、住人を孤立させていた。
薄暗い部屋で、少年が寝台に横たわっていた。
母親は空の水差しを握り、幼い妹は兄の手をさすっている。
「井戸へ行ったら、うつるから来るなと言われました」
母親は泣きそうな顔で言った。
ユリウスは少年に声をかけ、返答と呼吸を確かめた。
唇は乾き、起き上がろうとしても力が入らない。
「水分が足りていません。ここで様子を見るだけでは危険です。医療院へ運びます」
「でも、医療院はもう満床だって……」
「受け入れ先を確認します。断られても、別の場所を探します」
妹が顔を上げた。
「お兄ちゃんも、赤い布みたいに捨てられるの?」
「捨てないよ」
ユリウスは即答した。
必ず助かるとは言えない。
だが、助けを求める人を門前払いしないことはできる。
同行した看護人に搬送を頼み、近隣の配水所には、病人のいる家にも水を届けるよう申し入れた。
感染を防ぐ工夫は必要だ。
しかし、水を断つことは対策ではない。
医療院へ戻る途中、担架を運ぶ職員が叫んだ。
「先生、また三人です! 寝台が足りません!」
その背後では、王宮の布告を持った役人が、掲示板に紙を貼ろうとしていた。
『王都の流行病は収束に向かっている』
ユリウスは担架の列と布告を交互に見た。
収束しているのなら、なぜ今朝より患者が増えているのか。
翌朝、王宮の使いが医療院へ来た。
「診療台帳をすべて提出せよ。第一王子殿下の命令だ」
オルフェン院長は鍵束を差し出した。
ユリウスは一歩前へ出る。
「原簿を持ち出すなら、受領書をお願いします。日付、冊数、引き渡し先を記録してください」
「王命に逆らうつもりか」
「従うためです。診療を続けるには、どの記録がどこにあるか把握する必要があります」
「診療に必要な情報まで奪われれば、昨日投与した薬も、今日の悪化も確認できません」
王宮の使いは口を閉じた。
オルフェンが言った。
「患者の治療経過は医療院に写しを残す。持ち出す冊数もここで数えろ」
それは院長がこの日、王宮の命令に付けた唯一の条件だった。
使いは舌打ちし、乱暴に印章を押した。
原簿が運び出されると、院長は低い声で言った。
「余計なことをしたな。受領書があっても、王子は止まらん」
「少なくとも、誰が持ち出したかは残ります」
「記録が残れば人が救えるとでも?」
「記録だけでは救えません。でも、患者が何人いるか分からなければ、薬も寝台も用意できません」
院長は答えなかった。
その日の午後、裏庭の焼却炉から煙が上がった。
ユリウスは窓から、医療院の古い台帳が炉に投げ込まれるのを見た。
表紙には、今朝運び出された原簿と同じ管理番号があった。
駆け出しかけて、足を止める。
ここで騒げば、写しを預かったマルタの居場所まで探られる。
「何もなかったことにするつもりですか」
背後にいたオルフェン院長へ、ユリウスは問いかけた。
「お前は若い。王子に逆らえば、医療院そのものが潰される」
「黙っていれば、亡くなった患者の名前まで消されます」
「私に何ができる」
「まず、真実を話してください。シーラの夜間移送記録を、誰が命じて書き換えたのかも」
院長の顔色が変わった。
「その名を、ここで口にするな」
ユリウスは追及しなかった。
今の反応だけで罪を断定することはできない。
それでも、院長が何かを知っていると確信した。
夕方、南門から病人を乗せた荷車が三台出ていくと聞いた。
行き先は国境方面。
王宮は『療養地への移送』と説明しているが、受け入れ先の記載はなかった。
ユリウスは搬送担当者を呼び止めた。
「患者の人数と状態、飲み水の量を確認させてください。行き先の施設には連絡しましたか」
「命令書には、出発しろとしか」
「ならば、少なくともこの一覧を持って行ってください。途中で具合が悪くなった人を、誰なのか分からないままにしないために」
患者の名簿を渡し終えると、ユリウスは地下書庫へ戻った。
マルタが守った写しと受領書を並べ、確認済みの死亡数、原因未確定の埋葬数、現在の患者数を別々の欄に記した。
推計には推計と明記した。
「これを誰に渡すの?」
「国境のセレナ先生に。向こうへ患者が運ばれるなら、必要な寝台と水の量を知らせないと」
「王宮に見つかったら、あなたは……」
「分かってる」
ユリウスは封筒に宛名を書いた。
『グランヴェル帝国国境診療所 セレナ・アルヴェイン殿』
そこへ、昼間の王宮書記官が現れた。
顔を隠すように外套の襟を立てている。
「これを……」
差し出されたのは、王宮会議の議事控えだった。
死亡数の公表を十七人に抑える指示が、日付とともに記されている。
「原本ではありません。私が控えたものです。証明には足りないでしょう」
「大切に保管します。あなたが見聞きしたことと、書類に書かれていることは分けて記録します」
書記官は唇を噛んだ。
「妹の子が熱を出しています。私が隠す数字の向こうに、あの子もいる」
ユリウスは書類を封筒とは別に包んだ。
出所を確かめる前に誰かを告発するわけにはいかない。
だが、失わせるわけにもいかなかった。
封をした手紙を、信頼できる看護人へ託す。
「届かなければ、別の経路で送ります」
窓の外では、荷車の車輪が石畳を軋ませていた。
王子が公表する死者数を減らしても、必要な寝台は一つも減らない。
ユリウスは新しい患者のために、空いた診察台へ向かった。




