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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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第十六話 王国の医療院で、最初の異変が起きた

王都アルディスの医療院に、三人目の発熱患者が運び込まれたとき、まだ朝の鐘は鳴っていなかった。

荷運びの男、洗濯女、十歳の少年。

住む地区も仕事も違う。

けれど三人の胸元には、似た暗い斑点が浮かんでいた。

若い助手ユリウスは少年の母親に尋ねた。

「いつから熱が出ましたか」

「一昨日の夜です。昨日は歩けたのに、今朝は起き上がれなくて……」

「家族で、ほかに具合の悪い人は?」

「妹は元気です。私も」

母親は答えるたび、息子の手を強く握った。

ユリウスは三枚の患者票を並べる。

南市場の共同井戸。

そこだけが、今のところ共通していた。

ユリウスは三人の住所を地図に打った。

井戸の周囲に印が寄る。

だが洗濯女は別の区画に住んでいた。

「水を汲んだのはご本人ですか」

「いいえ。職場で飲みました」

その答えに、ユリウスは筆を止めた。

井戸が原因だと決めつければ、別の感染経路を見逃す。

彼は使用した水場に加え、職場と同居人の症状を調べる欄を増やした。

「井戸を止めるつもり?」

受付係が声をひそめた。

「市場の人は、ほかに水を汲む場所がないのよ」

「だから、まず確かめます。井戸を使っていない患者もいるかもしれない」

前夜までに発熱を訴えた患者は二十七人。

今朝、新たに十二人。

寝台は八つしかない。

数字を記した紙を持って、ユリウスは治癒師長ベルトランのもとへ向かった。

「臨時の待機場所が必要です。症状のある人を同じ廊下に詰め込めば、ほかの患者まで危険にさらします」

「熱病のたびに建物を空けろというのか」

ベルトランは杖を床に突いた。

「午後には貴族の診察がある。重症者だけ通せ」

「軽症に見える人にも、急に悪化する人がいます」

「魔法を使えない助手が、治療を語るな」

言い返したい言葉を、ユリウスは飲み込んだ。

ここで職を失えば、患者票に触れることすらできなくなる。

廊下に戻ると、下働きのマルタが汚れた布を一つの桶へ放り込もうとしていた。

「待って。その布は分けてください」

「洗う水だって足りないのよ」

「分かっています。使い回す前に洗う順番を決めましょう。患者の手に触れたら、次の人に触れる前に手も洗って」

セレナが追放される前、誰も気に留めなかった決まりだった。

「治癒魔法があるのに、そんなことが必要なの?」

「治った人が、また病気になるのを防ぐためです」

マルタは桶を二つに分けた。

昼前、少年の呼吸が急に速くなった。

「母さん……」

かすれた声が途切れる。

母親が叫び、ベルトランが駆けつけた。

杖の先から光が降り、少年の額の熱が引いていく。

「これでよい」

ベルトランは杖を下ろした。

だが少年の目は閉じたまま、唇は乾き、脈も弱い。

「先生、まだ意識が戻りません」

「魔法は効いた」

「熱が下がったことと、危険が去ったことは同じではありません」

ユリウスは呼吸と脈をもう一度確かめた。

飲み込めるか分からない状態で水を無理に飲ませることはできない。

ベルトランに継続した診察を求め、看護人には変化があればすぐ知らせるよう頼んだ。

母親が顔を上げる。

「助かりますか」

安易に頷けば、今だけは安心させられる。

けれど、それはセレナが最も嫌った嘘だった。

「まだ危険です。でも、見放しません」

少年の母親は涙を拭き、寝台の脇に座り直した。


午後、ユリウスは南市場へ行く許可を求めた。

共同井戸を使う家と使わない家、発熱した者と無事な者を比べたかった。

返ってきたのは、王宮からの通達だった。

『市場の混乱を避けるため、水源に関する独自の調査を禁ずる』

通達には第一王子レオニスの名があった。

「調査しないで、どうやって混乱を防ぐんですか」

「私に聞くな」

書記は紙を折り、目を合わせなかった。


夕方、裏門で老人が倒れた。

門番が老人を道端へ移そうとした、その向こうから王宮の馬車が近づいてくる。

「殿下のお通りだ。病人を見えない所へ」

窓から侍従が怒鳴った。

「道を空けるのは構いません。ですが、先に担架を」

ユリウスが答えると、侍従は目を細めた。

「名を申せ」

「医療院助手、ユリウスです」

名乗った瞬間、後戻りできなくなったと分かった。

それでも老人の肩から手を離さなかった。

マルタが担架を持って駆けつけ、門番の一人が馬車の前に立つ。

老人は診察室へ運ばれた。

ユリウスはその門番の名前も記録した。

誰が患者を助けたかを、忘れないために。

夜、受付簿を数え直すと、三日間の発熱患者は八十三人。

死亡が確認できた者は六人だった。

まだ連絡の取れない患者もいる。

ところが正面の掲示板には、こう書かれていた。

『季節性の熱病。

重篤者なし』

ユリウスは掲示板の前で足を止めた。

寝台で苦しむ少年も、裏門で倒れた老人も、この一行の中には存在しない。

「院長がお呼びよ」

マルタが告げた。

院長室では、オルフェンが窓に背を向けていた。

「独自の患者名簿を作っているそうだな」

「受付簿と病棟の人数が合いません。確認が必要です」

「中央への報告は私が行う。お前の仕事ではない」

「報告を変えてほしいと言っているのではありません。実際に来た患者を消さないでほしいんです」

オルフェンは机を叩いた。

「王子の命令に逆らうつもりか」

「患者の名前を消す命令には従えません」

「記録室への出入りを禁じられれば、今日の患者の経過も追えなくなります」

「それは別の者にやらせる」

「なら、その人に引き継がせてください。危険な徴候が出た少年がいます。治癒術で熱は下がりましたが、まだ呼吸が不安定です」

オルフェンは一瞬だけ視線を落とした。

「……引き継ぎだけは認める」

ユリウスは初めて息を吐いた。

記録を守ることは、自分が英雄になることではない。

明日の担当者に、患者を見失わせないことだった。

沈黙のあと、院長は告げた。

「明日から外来担当を外す。記録室にも立ち入るな」

ユリウスは頭を下げた。

謝罪ではない。

これ以上ここで言い争えば、手元の記録まで取り上げられる。

廊下へ出ると、マルタが古い台帳を抱えて待っていた。

「これ、処分しろって言われたの。あなたが見てからにしようと思って」

台帳の背には、セレナがまだ医療院にいた頃の年度が記されている。

開いた頁に、見覚えのある名前があった。

シーラ。

王宮が死亡を発表した、十二歳の少女だ。

死亡診断書と同じ日付の欄に、別の筆跡で『夜間移送』とある。

移送先の印章は半分しか残っていない。

「死んだはずの子を、どこへ運んだんだ……」

ユリウスは声を落とした。

これだけでは生存の証明にはならない。

記入間違いかもしれないし、別の事情もあり得る。

だが、確かめるべき事実がある。

彼は頁番号、記入時刻、筆跡の違いを写し、原本を元の場所へ戻した。

台帳を持ち出せば、逆に改竄を疑われかねない。

「私が隠しておくわ」

「危険です」

「名前を消される子を、もう見たくないの」

マルタの声は震えていた。

そのとき病室から看護人が走ってきた。

「ユリウスさん、あの男の子が目を開けました!」

駆けつけると、少年は母親の指を弱く握っていた。

まだ安心できる状態ではない。

それでも母親は、泣きながら息子の名を呼んだ。

ユリウスは患者票に時刻を書き足す。

回復した時刻も、悪化した時刻も、亡くなった人の名前も。

都合の悪いものだけを消せば、次に救える命まで見失う。

窓の外には、診察を待つ人々の灯りが並んでいた。

彼は新しい紙を広げ、住所、発症日、利用した水場、家族の症状を記す欄を作った。

診た人だけの記録では、王都全体の流行は分からない。

その限界も書き添える。

最後に、別の紙へシーラの移送記録の所在を書いた。

目の前の患者を守るための記録と、かつて消された少女の記録。

どちらも、同じ手で残す。

扉の向こうで靴音が止まった。

「ユリウス。まだ仕事をしているのか」

オルフェンの声だった。

ユリウスは紙を伏せず、顔を上げた。

「はい。今日、ここに来た人たちの名前を残しています」

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