第十五話 皇女が倒れた夜、王国は祝杯を上げた
アーデリア皇女が倒れたのは、薬草の検品を終えた夕刻だった。
床に落ちた銀の杯が、石畳の上で跳ねた。
「殿下!」
近衛兵が駆け寄る。
皇女は胸元を押さえ、荒い息を繰り返していた。
顔は赤く、額には汗が浮いている。
「人を下がらせて。窓を開けてください」
セレナが膝をつくと、近衛隊長が腕をつかんだ。
「王国を追われた治癒師に、皇女殿下を触れさせるわけにはいかん」
「では、エドガー先生を呼んでください。私が勝手に治療するつもりはありません。でも、呼吸を確かめる時間まで奪わないで」
隊長の手が緩んだ。
アーデリアは呼びかけに薄く目を開けた。
息は速いが、言葉は返せる。
セレナは侍女に、倒れた時刻と直前の様子を書き留めるよう頼んだ。
駆け込んできたエドガーが診察を引き継ぐ。
「熱が高い。咳はいつからですか」
侍女の顔から血の気が引いた。
「三日前から……夜中に、何度も」
「なぜ知らせなかった」
「私が止めたの」
寝台へ運ばれたアーデリアが、かすれた声で言った。
「薬草が届かなくて、病院の予算まで揺れている。私が休めば、試験事業を取り消す口実にされると思った」
セレナは答えなかった。
昨日、皇女は自分の昼食を後回しにして、腐った薬草の検品に立ち会っていた。
あのときの青白い顔を、疲労だけだと見過ごしたのは自分も同じだった。
「殿下。予算を守るために倒れたら、その予算で救える人を誰が守るんですか」
「……あなたに叱られるとは思わなかったわ」
笑おうとして、皇女は咳き込んだ。
エドガーは皇女を別室に移し、呼吸と意識の変化を見守るよう指示した。
熱と咳がある以上、感染する病気の可能性も考え、世話をする人数を絞る。
セレナはイーナに手洗いと器具の区分を任せた。
「三十人全員を呼びましょうか」
「いいえ。ほかの患者の看護を止めないで。交代できる二人だけで十分よ」
イーナは一瞬迷ったが、頷いた。
病院が開いたばかりの頃なら、皇女のために全員が駆けつけただろう。
今は誰を残すか、看護人自身が判断できる。
そのとき近衛隊長が、封をした木箱を抱えて戻ってきた。
「王国の使節が昼に届けた贈答品です。茶葉と菓子が入っていた。毒を盛られたのでは」
剣の柄に手を掛けた兵士を、セレナが止めた。
「箱を開けた人、食べた人、時刻を確認してください。中身は保管を。疑わしいからといって、触った人を犯人にしないで」
「殿下が倒れたのだぞ!」
「だからこそ、思い込みで証拠を壊せません」
侍女が震える手で帳面を開いた。
三日前から食事を半分以上残し、昨夜は咳でほとんど眠っていない。
贈答品が届いたのは今日の昼。
皇女は茶を一口飲んだが、菓子には手を付けていなかった。
「贈り物が原因ではないのですね」
「そう断言する材料もありません。ただ、症状が先に始まっていたことは重要です」
セレナが言うと、エドガーも頷いた。
「今は病名を決めるより、悪化を見逃さないことだ。呼吸が苦しくなればすぐ呼んでくれ」
夜半、王国の使節が病室への面会を要求した。
「国王陛下よりお見舞いの言葉を預かっております」
扉の外に立つ男は、病室の明かりを覗き込もうとした。
「面会はできません」
セレナが告げると、男は鼻で笑った。
「王国で人を死なせた治癒師が、帝国皇女の診察までしているのか。殿下もお気の毒に」
古い傷を狙い澄ました言葉だった。
セレナは指先を握り締めたが、声を荒らげなかった。
「診察は帝国の医師が行っています。私は看護の補助です。面会の可否も医師の判断です」
「では、せめてご容体を」
「患者の情報は、ご本人の許可なくお伝えできません」
使節の笑みが消えた。
「あなたは、どこの国の人間なのです」
「今は、病人のそばにいる人間です」
近衛隊長が一歩前へ出た。
使節はそれ以上言わず、踵を返した。
扉が閉まると、隊長は小さく頭を下げた。
「先ほどは、あなたを止めた」
「殿下を守ろうとしたのでしょう。次は、医師を呼ぶのを先にしてください」
「……承知した」
その夜、隊長は見舞客の記録係を自ら引き受けた。
夜明け前、アーデリアの熱はまだ高かった。
水を口に含むことはできたが、話すと咳が続く。
エドガーは診察のたびに所見を書き、セレナは看護人へ注意点を引き継いだ。
「殿下のご病気が知れたら、薬草の契約も病院の予算も、全部止まってしまいませんか」
イーナが小声で尋ねた。
「止めないために、私たちが手順を作ってきたのよ」
「でも、皇女様がいなければ……」
「だから、皇女様がいなくても動く仕組みにする」
セレナは診療記録の写しを見せた。
患者の状態、担当者、異変があった場合の連絡先。
誰か一人の記憶に頼らないための紙だった。
イーナは紙を受け取り、交代の看護人に読み上げて確認した。
朝、皇女は政務官を呼ぶと言い出した。
「昨日の薬草の注文書だけでも、署名しなければ」
「署名の代行者を決めてください」
セレナの言葉に、アーデリアが眉を上げる。
「勝手に決めさせるわけにはいかないわ」
「だから殿下が、元気なうちに権限の範囲を決めるんです。病院でも当直医が交代できるようにしています」
皇女は黙り込んだ。
やがて侍女に紙を持ってこさせ、補佐官へ委ねる事務と、自分の判断を待つ案件を分けて書いた。
「これでいい?」
「はい。あとは休んでください」
「病院の治療方針には、皇女でも逆らえないのね」
「患者としてなら、皆さん同じです」
アーデリアは初めて、安心したように目を閉じた。
数日後。
皇女の熱は下がり始めたが、エドガーは原因を確定できていないと説明し、療養と再診を続けることにした。
王国から届いた贈答品も、調査が終わるまで封を解かない。
一方、国境の向こうでは、まったく違う知らせが広がっていた。
『帝国皇女、重病。
国境の医療改革は中止へ』
王都の宮廷で、その報告を聞いた者たちは杯を掲げたという。
セレナがそれを知ったのは、数日遅れで届いた商人の手紙からだった。
手紙を読み終えた彼女の前で、イーナが新しい看護表を広げる。
「明日の当番、確認をお願いします。殿下のところは私が行きます」
窓の外では、薬草を積んだ小さな荷車が三つ目の山村から到着していた。
検品を待つ人々が、雨除けの下で順番に並んでいる。
王国の誰かが祝杯を上げても、患者の熱は下がらない。
病院の扉も閉まらない。
セレナは手紙を畳み、看護表に目を戻した。
「ありがとう、イーナ。まずは今日の患者さんから」
皇女が守ろうとしたものは、皇女が寝台にいる間も、少しずつ動き続けていた。




