番外編第十一話 皇女がセレナにだけ見せた涙
「賛成多数。地方医療支援予算案を可決します」
議長の木槌が鳴った瞬間、皇女アーデリアは背筋を伸ばした。
傍聴席から拍手が起こる。
けれど彼女は笑わなかった。
財源を捻出するため、都市部の橋の補修と学校の増築を半年延期する付帯決議も採択されたからだ。
安全上の緊急補修まで止めるものではなかったが、待つ人がいることに変わりはなかった。
新しい医療予算が必要だという判断は変わらない。それでも、延期された工事の現場を見に行こうと、アーデリアは手帳に記した。
帝都の執務室に戻ったのは夜だった。
机には、国境の山村から届いた急報が置かれていた。
診療所へ向かう輸送車が崩れた山道で立ち往生し、必要な物資の到着が遅れたという。
同じ報告には、病気の子供が一人亡くなったことも記されていた。
ただし物資の遅れと死亡との関係は、まだ確認されていない。
「予算は通った。でも、予算だけでは物資は届かないのね」
アーデリアは紙を持つ手に力を込めた。
議会で一度も揺れなかった声が、誰もいない部屋で初めて震えた。
扉を叩いたのはセレナだった。
共同医療局との協議を終え、報告に目を通すため呼ばれていた。
「亡くなった子の名前は、ミロ。七歳」
アーデリアは顔を上げずに言った。
「春に村を訪れた時、私に木の実をくれた子です」
セレナは向かいに座った。
慰めの言葉を急がず、報告書を読んだ。
崩落の発生時刻、伝令の到着時刻、物資を積み替えた場所。
その欄には、まだ空白が多かった。
「もっと早く輸送の異常に気づいていれば、違ったのでしょうか」
「その可能性も含めて調べましょう」
セレナは答えた。
「でも、調べる前にあなた一人の責任だと決めるのも、違います」
「それでも、私は皇女です」
「皇女だからこそ、調査の前に原因を一つに決めつけないでください」
アーデリアは唇を噛んだ。
「橋の補修を延期する決議に、私も賛成したのです」
「今回崩れたのは、その橋ですか」
「……違います。山の輸送路です」
「では、二つを混同してはいけません」
厳しい言葉だった。
アーデリアは叱られた子供のように顔を伏せた。
「でも、どこかで予算を削れば、誰かが困る。何を選んでも、私は人を待たせる」
セレナは頷いた。
「そうですね。だから、決めた後の確認が必要なんです」
「ミロの家族には、何と伝えればいいのでしょう」
「分かっていないことを、分かったふりで伝えないことです」
「謝れば許してもらえると思ってはいません」
「それなら、まず調査の経過を届ける方法を決めましょう。返事を求めない形で」
アーデリアは便箋を一枚引き寄せた。宛名を書こうとして、ミロの家族が今どこにいるのかさえ、確認していないことに気づいた。
「確認しても、失った命は戻りません」
「戻りません」
セレナは目を逸らさなかった。
「だからこそ、次に助けを求める人へ物資が届くよう、調べる必要があります」
アーデリアの頬を涙が伝った。
「議場では、泣くわけにはいかないと思っていた」
「今は泣いてもいいと思います」
「明日になったら、また冷たい顔で数字を読まなければ」
「冷たい顔である必要はありません。正確に読む必要があるだけです」
その言葉に、アーデリアは小さく笑い、すぐに泣いた。
誰かに見せるための涙ではなかった。
決定の重さが消えたわけではない。それでも、人前では押し殺していた悲しみを、ようやく言葉にできた。
アーデリアは幼い頃、正しい答えはいつも一つだと教えられた。
誰を救うか、何を建てるか、誰の訴えを聞くか。
皇族が迷えば民が不安になると。
けれど、机の上の地図には村がいくつもあり、どこにも人が暮らしている。
「迷っているところを見せてはいけないと、ずっと思っていました」
「迷ったことより、何を確かめて決めたのかを隠す方が危険です」
セレナは地図の端に小さな印を付けた。
「この村の診療所も、最初は人手が足りませんでした。だから近くの町と当番を組んだんです」
「現場でそこまで工夫していたのですね」
「現場には、毎日決めている人がいます。まず聞いてみましょう」
アーデリアは伝令を呼び、山村の医師と輸送担当者の意見を集めるよう命じた。
その命令だけで物資が届くわけではない。
けれど、知らないことを知らないままにしない。
それが彼女にできる最初の仕事だった。
二人は夜更けまで資料を広げた。
道路の管理者は誰か。
村が遅延を知らせた相手は誰か。
物資の備蓄は何日分あったか。
どこから別の道へ回せたか。
分からない項目には、分からないと書いた。
アーデリアは何度も「ここは私が直接確認する」と言いかけた。
そのたびセレナは担当欄を指した。
「全部を抱えたら、次の報告が遅れます」
「私が全部を抱えることが、責任を取ることではないのですね」
「動ける人を動けるようにすることです」
翌朝、アーデリアは議会で前日の成果を誇る予定原稿を閉じた。
代わりに、村の報告を読み上げた。
「支援予算は成立しました。しかし山村への物資の到着は遅れ、子供が一人亡くなりました。両者の関係を含め、事実を確認しています」
議場が静まった。
「原因は調査中です。担当部局には輸送路の安全確認と備蓄の点検を求めています。調査結果は、遺族の意向と個人情報に配慮して公表します」
反対派の議員が立った。
「では、昨日の可決は失敗だったのですか」
アーデリアは一拍置いた。
「必要な一歩でした。十分な一歩ではありませんでした」
誰も拍手しなかった。
それでよかった。
議場は祝賀会場ではないのだから。
議会を終えた日の夜、アーデリアはミロの家族へ送る文面を書いた。
謝罪の言葉だけで済ませないよう、調査の予定と問い合わせ先を添えた。
「返事がなくても、送りたいのです」
セレナは頷いた。
「受け取るかどうかは、ご家族が決めることです」
アーデリアは何度も読み返してから封を閉じた。許しを求めるためではなく、調査の進み具合を伝えるための手紙として、使者に託した。
数日後、調査班から報告が届いた。
山道の崩落に加え、伝令の引き継ぎが遅れ、代替輸送の判断が宙に浮いていた。
予算の成立日だけを早めても、防げたと断定できない。
だからといって、誰にも改善の責任がないわけではない。
アーデリアは、山村の備蓄日数と緊急連絡経路を見直すよう担当部局に提案し、現場の担当者に実行可能か確認を求めた。
現場からの回答を踏まえて修正された案を、関係部署の審議に回した。
夕方、セレナが執務室へ寄ると、アーデリアは折り目のついた予算書の端を机に残していた。
「まだ捨てないのですか」
「ええ。予算が通っただけで、安心しかけた日のことを忘れたくなくて」
「忘れないのは大切です。でも、眠ることも」
「それは命令ですか」
「医療者からの忠告です」
皇女はようやく声を立てて笑った。
窓の外には、いつもどおり荷車が行き交っていた。
その一台一台が、届くべき場所へ届くように。
アーデリアは書類を閉じ、初めて自分のために灯りを消した。




