番外編第十話 余命一か月と言われた老人が、孫の結婚式まで生きた
山間の療養施設に、薄い桃色の招待状が届いた。
オットーは封を切り、孫娘の名を指でなぞった。
結婚式は六週間後。
医師から病状がかなり進み、残された時間は一か月程度かもしれないと説明されたばかりだった。ただし、それは確定した期限ではなかった。
「先生、六週間後まで生きられるかな」
主治医は椅子を寄せた。
「正確な日付は誰にも分かりません」
オットーは笑った。
「分からないなら、まだ望みはあるな」
医師は頷いた。
「ただ、当日の体調を約束することもできません」
「そうか」
老人は招待状を枕元に置いた。
孫娘のエミリーが来たのは翌日だった。
「おじいちゃん、式を早めようか」
オットーは首を振った。
「お前たちが決めた日だろう」
「でも、来てほしいの」
「わしも行きたい。だから困ってる」
二人はしばらく黙った。
エミリーは招待状を握りしめた。
「結婚式をするのは私たちなのに、誰かが欠けるのが怖くて」
「わしが欠けたら、結婚をやめるのか」
「そんなことしない」
「なら、わしのために全部を決め直すな」
その言葉は優しかったが、エミリーには少し寂しかった。
オットーの痛みは、日によって強さが違った。
食事が取れる日もあれば、話すだけで疲れる日もあった。
療養施設の看護師ナディアは、痛みや息苦しさ、眠れた時間を記録し、医師と相談して負担を軽くする方法を調整した。
「式のことばかり考えると、今日がなくなってしまいますよ」
ナディアに言われ、オットーは眉を上げた。
「じゃあ今日は何をする」
「お孫さんへの贈り物を考えましょう」
老人は少し笑った。
「金はないぞ」
「お金で買わなくてもいいものがあります」
オットーは昔、時計を修理する職人だった。
病気が進んでからは、細かな部品を扱えなくなっていた。
ナディアが古い懐中時計を持ってくると、彼は蓋を開けた。
針は止まっている。
「これはエミリーの父親が生まれた日に買った時計だ」
「直せそうですか」
「今の手じゃ無理だな」
彼は残念そうに笑った。
「でも、どこが悪いかは分かる」
ナディアは紙と筆を渡した。
オットーは震える手で、修理に必要な部品と順番を書いた。
エミリーはその紙を受け取り、町の時計職人を訪ねた。
一週間後、時計は小さな音を立てて動き始めた。
エミリーが病室に持っていくと、オットーは耳に近づけた。
「まだ動くか」
「おじいちゃんが教えてくれたから」
老人は目を閉じた。
「わしの手が動かなくても、教えることはできたんだな」
エミリーはその手を握った。
「式の日、これを持ってきてほしい」
「時間係か。責任重大だ」
四週間が過ぎた頃、オットーの体調が悪くなった。
医師は入院を続けて様子を見る必要があると説明した。
式場までの移動は負担が大きい。
エミリーは泣きながら言った。
「式は中止する」
オットーはゆっくり首を振った。
「中止じゃない。場所を変えるんだ」
「どこへ?」
「この施設の庭はどうだ。春の花が咲いている」
エミリーは驚いた。
「おじいちゃん、外に出られる?」
「それは先生に聞く」
オットーは医師を見た。
「無理なら部屋の窓からでもいい。わしが聞きたいのは、誓いの言葉だけだ」
医療者たちは本人の希望を確認し、短時間なら負担を抑えて参加できる可能性を検討した。
庭までの移動、休める場所、途中で中止する条件を決めた。
式の日に体調が悪ければ、病室で挨拶するだけにする。
エミリーと婚約者のルーカスも同意した。
「立派な式じゃなくてもいい」
ルーカスが言うと、エミリーは首を振った。
「きっと、立派な式になるよ」
式を迎えるまで、オットーには眠れない夜もあった。
ある晩、ナディアが見回りに来ると、老人は時計を見つめていた。
「怖いですか」
「少しな」
「何が一番怖いですか」
オットーは長い時間をかけて答えた。
「死ぬことより、エミリーがわしのせいで笑えなくなることだ」
ナディアは椅子に座った。
「それは、エミリーさんに話しましたか」
「泣かせたくない」
「話さなくても、心配しているかもしれません」
翌日、オットーはエミリーを呼んだ。
「わしがいなくなった後も、ルーカスと喧嘩して、仲直りして、好きなものを食べなさい」
エミリーは泣き笑いになった。
「結婚前から喧嘩の話?」
「長く暮らすなら、喧嘩の一つもする」
「おじいちゃんは、おばあちゃんと喧嘩した?」
「毎週だ」
「知らなかった」
「仲直りの仕方も、毎週覚えた」
エミリーは祖父の手を握った。
二人は病気のことだけではなく、これからの生活の話をした。
オットーはその夜、久しぶりに少し長く眠れた。
当日の朝、オットーは痛みで目を覚ました。
医師と看護師が状態を確かめ、予定していた対処を行った。
少し落ち着くと、老人は窓の外を見た。
庭には椅子が並び、花が風に揺れていた。
「庭へ出られそうか」
「短い時間なら。ただし、辛くなったらすぐ戻りましょう」
オットーは頷いた。
「時間係は、遅刻できないからな」
ナディアは笑いながら車椅子を押した。
エミリーは白い服で庭に立っていた。
ルーカスが隣にいる。
二人が誓いの言葉を交わす間、オットーは懐中時計を握りしめた。
拍手が起きた時、彼は立ち上がろうとして、すぐに諦めた。
代わりに、両手をゆっくり叩いた。
エミリーが駆け寄る。
「おじいちゃん、ありがとう」
「礼を言うのは、わしの方だ」
「どうして?」
「今日を見せてくれた」
オットーは時計を差し出した。
「これはもう、お前のものだ」
エミリーは受け取らなかった。
「今はまだ持っていて。おじいちゃんが時間係なんだから」
老人は笑った。
「そうだったな」
式の後、オットーは疲れて病室へ戻った。
長く話すことはできなかったが、エミリーは枕元で今日の出来事を一つずつ伝えた。
ルーカスが誓いの途中で言葉を噛んだこと。
花束を受け取った子供が、緊張して逃げ出したこと。
皆が笑ったこと。
オットーは目を閉じたまま聞いていた。
「いい式だったな」
「うん」
「わしがいなくても、きっといい式だった」
エミリーは涙をこらえた。
「でも、いてくれて嬉しかった」
それから数週間後、オットーは静かに息を引き取った。
病気が治ったわけではない。
医療者たちが時間を延ばせたと断言できるわけでもない。
ただ、痛みを和らげ、本人の望みを聞き、家族が一緒に過ごせる場を整えることはできた。
エミリーは葬儀の日、懐中時計を胸に抱いた。
針は今も動いている。
その音を聞くたび、庭で聞いた拍手と、祖父の笑い声を思い出した。
「おじいちゃんが来てくれたから幸せだった」
そう言いかけて、エミリーは首を振った。
来られなかったとしても、祖父が自分を大切に思っていた事実は変わらない。
それでも、一緒に過ごせたあの日が宝物であることも変わらなかった。
後日、エミリーは施設へ一通の手紙を送った。
『祖父は、最後まで私たちの時間係でした』
ナディアはその手紙を読み、記録帳を閉じた。
守れなかった命を忘れない。
同時に、守ることのできた一日も忘れない。
窓の外では、庭の花がまた一つ咲いていた。




