番外編第九話 元王子レオニスが、牢獄で初めて人の命を救った
「そこの床を磨け」
看守の声に、レオニスは黙って布を絞った。
王子と呼ばれるたび、周囲の囚人が笑う。
いまの彼に王位継承権はない。
あるのは刑期と、過去に下された判決だけだった。
その日の作業場は蒸し暑かった。
石を運んでいた囚人のアルドが、急に足を止めた。
「どうした?」
誰かが声をかける。
アルドは答えず、膝から崩れ落ちた。
「医療係を呼べ!」
看守が叫んだ。
レオニスは布を放り出し、倒れた男のそばへ駆け寄った。
「触るな!」
別の看守が制した。
「勝手なことをするな」
レオニスは手を引いた。
「呼吸の確認だけでも、許可を」
「お前に何ができる」
「以前、救護講習を受けました。医療係を呼んだうえで、指示に従って反応と呼吸を確かめます」
看守は短くうなずき、別の囚人に連絡を命じた。
レオニスは呼びかけへの反応と呼吸を確かめた。
アルドは息をしている。
しかし顔色が悪く、汗が止まらない。
「日陰へ移せるか」
看守が尋ねた。
「倒れたとき頭を打ったかもしれません。周囲を空けてください。日差しを遮り、医療係に状況を伝えましょう。移動が必要かも含めて指示を仰ぎます」
レオニスはそう答えた。
囚人たちが荷物を退ける。
水を飲ませようとした男を、看守が止めた。
意識がはっきりしない人に無理に飲ませてはいけないと、講習で習っていた。
医療担当者が到着すると、レオニスは見たことを順番に説明した。
「石を運んでいる途中で立ち止まり、膝から倒れました。呼吸はあります。呼びかけへの反応は鈍いです」
「分かった。あとは私たちが診る」
レオニスはすぐ場所を譲った。
昔の彼なら、命令する側に居座っていただろう。
医師の手が届くよう道を空けることが、いま自分にできる仕事だった。
アルドは医務室へ運ばれた。
医療班は熱による重い体調悪化を疑い、体温の測定と速やかな冷却を始めた。必要な水分管理と検査を行い、ほかの原因も確認した。作業場の暑さと休憩体制についても、医療担当者から監督官へ報告された。
翌日には意識もはっきりし、食事を取れるようになった。
「助かったらしいぞ」
囚人仲間がレオニスに言った。
「お前が早く知らせたのもよかったって」
レオニスは首を振った。
「医療班のおかげだ」
「また謙遜か?」
「事実だ」
それ以上、話す気にはなれなかった。
夕方、アルドが作業場の戸口に現れた。
「おい、元王子」
レオニスは顔を上げた。
「俺は礼を言わない」
「分かっている」
「お前の命令で、俺の弟は治療を受けられなかった」
レオニスの指が止まった。
アルドの弟は、王宮が閉鎖を命じた地方の病院へ向かう途中で亡くなったのだという。
その命令書に、レオニスの署名があった。
「知っていたのか」
「裁判の記録で読んだ」
「紙の上の名前だろう」
「……そうだ」
アルドは唇を噛んだ。
「お前が今日、俺を見捨てていたら、少しは憎みやすかった」
レオニスは答えなかった。
「謝れば済むと思うなよ」
「思っていない」
「なら、何で助けた」
レオニスは長い間、言葉を探した。
「目の前で人が倒れたからだ」
「それだけか」
「それだけだ。お前の弟を救えなかったこととは、別のことだ」
アルドは鼻で笑った。
「初めて、まともなことを言ったな」
それきり背を向けて去った。
許しはなかった。
レオニスは、許しを求める言葉を口にしなかった。
数日後、刑務所では暑い日の作業手順が見直された。
水を飲む休憩の回数が増え、体調不良を訴えた者を罰しない規則が掲示された。
医療担当者が所長に報告した結果だった。
看守がレオニスに言った。
「倒れた時刻を正確に覚えていたのは、お前だったな」
「時計が作業台の前にあったので」
「記録に名前を載せるか」
「事実だけ書いてください」
看守はうなずいた。
「それが記録だ」
夜、レオニスは寝台の上で古い判決文を読み返した。
病院閉鎖の命令。
証拠の改ざん。
セレナへの不当な追放。
そのどれも、今日の救護によって消えない。
紙の端は何度も折り返され、柔らかくなっていた。
彼は判決文を閉じ、翌日の救護講習の案内を手に取った。
囚人も看守も受けられる、新しい講習だった。
救護講習では、受講者が二人一組になった。
レオニスの相手は、年老いた囚人だった。
「俺は字が読めん。手順を覚えられるかね」
「私が声に出して読みます」
レオニスが答えると、老人は目を細めた。
「王子様が読み聞かせか」
「元王子です」
「そうだったな」
二人は模型を前に、呼びかけと呼吸の確認を繰り返した。
老人は順番を間違えた。
レオニスも一度、指示を聞き落とした。
講師は二人を叱らず、もう一度実演した。
「間違えたときに言い直せることも、訓練です」
レオニスは頷いた。
かつて宮廷では、王子の間違いを誰も指摘しなかった。
その沈黙が、多くの人を苦しめた。
ここでは誰でも間違いを指摘できる。
その当たり前のことを、彼はようやく学び始めていた。
ある夜、アルドが寝台の前で立ち止まった。
「講習を受けているそうだな」
「そうだ」
「俺も申し込んだ」
レオニスは驚いて顔を上げた。
アルドは視線を合わせなかった。
「お前のためじゃない。次に誰かが倒れたとき、俺も何かできるようにだ」
「分かっている」
「勘違いするなよ。弟のことは許していない」
「忘れない」
アルドはそれ以上何も言わず、通路の向こうへ去った。
レオニスは長く息を吐いた。
相手が学ぼうとしていることを、自分の功績にしてはいけない。
同じ教室に座る日が来ても、二人の過去が消えるわけではない。
ただ、次の事故で誰かが助かる可能性が増える。
それだけで、講習には意味があった。
翌朝、レオニスは最初に教室へ入った。
講師は彼を特別扱いしなかった。
「では、呼吸の確認から始めます」
レオニスは椅子を引き、ほかの受講者と同じ位置に座った。
講師は出席簿を読み上げた。
「アルド」
「はい」
少し離れた席から返事があった。
「レオニス」
「はい」
二人の名前は、同じ大きさの文字で並んでいた。
それは和解ではなかった。
それでも二人は、同じ説明を聞き、同じ手順を覚えようとしていた。
人を救う知識に、王子の席はなかった。




