番外編第八話 かつてセレナを罵倒した貴族が、貧民病院に運ばれた
「私はグラウス家の当主だぞ!」
男の声が、王都の公立診療所に響いた。
受付係は顔を上げた。
「お名前は承りました。まず症状を確認します」
「だから、すぐ医師を呼べ!」
「胸の痛みはありますか。息苦しさは?」
「……今は、ない」
「いつから具合が悪いのですか」
「朝から熱がある」
受付係は体温と呼吸の様子を確認し、診察前の評価を担当する看護師へつないだ。
「症状が変わったらすぐ教えてください。順番は状態に応じて決まります」
「私より先に、あの泥だらけの男を診るのか」
看護師は待合室の奥を見た。
農夫が肩で息をしていた。
「はい。あの方は呼吸が苦しく、急いで診察が必要です」
グラウスはかつて王宮の宴で、セレナを罵倒したことがあった。
追放が決まったときには、誰よりも大きな声で笑った。
『身分をわきまえない治癒師など、国から出ていけばいい』。
そう言った記憶は、いまでも鮮明だった。
その後、彼の家は事業に失敗し、屋敷も手放した。
爵位の名目だけは残ったが、かつての召使いはいない。
体調を崩しても、呼べる医師がいなかった。
「こちらへどうぞ」
若い看護師が農夫を診察室へ案内した。
グラウスは拳を握った。
だが農夫の顔は青白く、息を吸うたび胸が大きく上下していた。
グラウスは何も言えなくなった。
しばらくして、小さな子供が母親に抱かれて入ってきた。
額には汗が浮かび、呼びかけへの反応が鈍い。
看護師はすぐ別の医師を呼んだ。
「先に診ます」
誰も抗議しなかった。
グラウスだけが、順番札を握りしめていた。
診察室に呼ばれたとき、彼は思わず尋ねた。
「なぜ、あの農夫を先にした」
若い医師は記録から目を上げた。
「呼吸が苦しかったからです」
「私の身分を知らなかったのか」
「存じています」
「ならば……」
「爵位は診察の優先順位を決めません。呼吸が苦しい方や意識がはっきりしない方を先に診ます」
言葉は静かだった。
それがかえって、グラウスにはこたえた。
医師は診察を終え、今すぐ命に関わる所見はないと説明した。
必要な検査と薬を案内し、悪化した場合の受診目安を伝える。
グラウスは紙を受け取った。
「診療費は?」
「収入に応じた負担額です。支払いが難しければ相談できます」
「私は貴族だぞ」
「身分にかかわらず、負担額は現在の収入と制度の条件で決まります。確認は皆さんにお願いしています」
グラウスは初めて、自分の家名が何の役にも立たない場所にいると知った。
だが、その場所では、貧しいことも恥ではなかった。
会計の前で、グラウスは農夫に出会った。
呼吸は落ち着いていたが、まだ疲れた顔をしている。
「先ほどは……」
言葉が続かない。
農夫は首をかしげた。
「何か?」
「順番を、奪おうとした」
「聞こえてましたよ」
農夫はあっさり答えた。
「でも、こっちはそれどころじゃなかった」
グラウスは返す言葉を失った。
自分が大きな問題だと思っていた順番争いは、相手にとっては命をつなぐ時間だった。
数日後、グラウスは診療所に戻ってきた。
受付係は警戒した顔をした。
「具合が悪くなりましたか」
「いや。寄付をしたい」
袋から銀貨を出す。
受付係は受け取らず、寄付窓口を案内した。
「使い道は規則に従って公開されます。特別な診察の権利にはなりません」
「分かっている」
グラウスは口を結んだ。
「薬を買えない人の助けになればと思う。ただし、使い道は病院の規則に任せる」
窓口の職員は書類を渡した。
寄付者の名前を掲示するかどうか、選べる欄がある。
彼は匿名に丸を付けた。
それでも胸の奥の重さは消えなかった。
彼は診療所を出て、王都の石畳を歩いた。
途中、セレナの名を冠した医療制度の案内板が目に入った。
かつて自分が嘲笑した治癒師は、もうここにいない。
謝る相手に会えないまま、寄付を一度したくらいで帳消しにはならない。
グラウスは家に戻り、古い帳簿を開いた。
追放当時の宴に出席した者の名前が残っている。
あの日、誰が何を言ったか。
彼自身が覚えていることを、記録に書き出した。
翌週、王都の記録局を訪ねた。
「証言を残したい」
係官は眉を上げた。
「何についてですか」
「セレナを追放した日のことだ。私がしたことも含めて」
「あなたに不利になる可能性があります」
「承知している」
係官は紙を用意した。
グラウスはゆっくり話し始めた。
自分の声が誰かを傷つけた日について。
記録局の係官は、証言を終えたグラウスに確認した。
「あなたが直接見たことと、人から聞いたことを分けて記録します」
「そんな違いがあるのか」
「大きな違いです。推測を事実として残せば、また誰かを傷つけます」
グラウスは黙った。
彼はかつて、セレナが危険な魔法を使ったという噂を、確かめもせず宴席で広めた。
自分の言葉が、他人の人生にどれほど重くのしかかるか考えなかった。
「私が見たのは、彼女が連行される姿だけだ。宴席で広めた話は、誰かから聞いた噂だった」
「では、そう記録します」
「罪を犯したところは見ていない」
係官は筆を止めた。
「その言葉も残しましょう」
グラウスは署名した。
かつては家名を飾るためだけに書いた署名だった。
いまは、自分の言葉に責任を負うための署名だった。
診療所の帰り道、グラウスは一度だけ振り返った。
受付に並ぶ人々は、彼が誰なのか気にしていない。
以前の彼なら、それを侮辱と受け取っただろう。
いまは、少しだけ自由に感じた。
家名を知られなくても診てもらえる。
爵位がなくても、具合が悪いと伝えれば看護師が話を聞く。
それは彼が一度も必要としなかった平等だった。
屋敷を失った後でようやく、自分もその平等に守られていると知った。
翌朝、彼は薬を決められた通りに飲み、診療所から渡された注意書きを読み返した。
最後に書かれた『症状が悪化したら、身分に関係なく相談してください』という一文を、二度読んだ。
帰り道、診療所の前を通った。
また患者たちが並んでいる。
貴族も農夫も、順番札は同じ紙だった。
グラウスは入口の掲示を読んだ。
『緊急性に応じて診察順が変わります』。
以前なら腹を立てただろう。
今は、その一文が守っているものを、少しだけ理解していた。




