番外編第六話 シーラの母親が、病院の洗濯場で働き始めた
「この名前、縫い直してもいいですか」
王都中央病院の洗濯場で、ひとりの女性が小さな布袋を差し出した。
袋には、ほどけかけた糸で「シーラ」と縫われていた。
看護長のマルタは、布袋と女性の顔を交互に見た。
「患者さんの持ち物ですか」
「いいえ。娘が昔使っていたものです。面接のときに、仕事の手つきを見ていただこうと持ってきました」
女性はイレナと名乗った。
シーラの母親だった。
かつてシーラは、王宮の書類の上で死んだことにされた。
娘が生きていると知った日、イレナは泣いた。
抱き締めた日も泣いた。
それからの日々は、涙だけでは埋まらなかった。
二人は長い間、別々の時間を生きてきた。
何を食べたか、どんな朝が嫌いか、どんな言葉に傷つくか。
母親なのに、知らないことばかりだった。
「娘はもう大人です。失った時間を埋めようとして、あの子の今を奪ってはいけない」
イレナはそう言って、仕事を探し始めた。
病院の洗濯場は人手不足だった。
イレナには以前、王都の宿屋で洗濯を請け負った経験がある。
面接で責任者が尋ねた。
「血の付いた布も扱います。怖くありませんか」
「怖いです」
イレナは答えた。
「でも、怖いからこそ、正しい扱い方を教えていただきたいんです」
その返事に、責任者は小さくうなずいた。
採用が決まっても、最初の三日は見習いだった。
汚れた布と清潔な布の通路を分けること。
破れた手袋を使い続けないこと。
鋭い器具が紛れていれば、素手で探さず担当者を呼ぶこと。
「昔は全部、気合いで片付けたものです」
先輩の女性が言った。
「今は気合いより手順ですね」
イレナが答えると、先輩は苦笑した。
「それを言われると、私も学び直しだわ」
四日目の昼、病棟から教材の入った箱が届いた。
中には小さな上着と、白い布袋。
布袋にはシーラの名があった。
イレナの手が止まった。
「どうしてここに……」
看護長が説明した。
「シーラさんが、子供たちの授業で使う見本を届けてくれたんです。これは洗濯を頼まれたものではありません」
名前札を付ける方法を教える教材だった。
取り違えを防ぐため、本人が昔使っていた布袋を持ってきたらしい。
イレナは、ほどけた糸を見つめた。
幼い頃、娘の名を縫ったのは自分だ。
最後の一文字だけ、何度縫っても傾いてしまった。
「これと同じ布袋を、昔、私が作ったんです」
看護長は布袋をそっと戻した。
「なら、本人に聞いてから直しましょう」
夕方、シーラが訪ねてきた。
「お母さん、働き始めたって聞いたよ」
「あなたに相談せず決めてしまった」
「仕事をするのに、私の許可はいらないよ」
シーラは笑った。
しかし母が布袋を見せると、その笑みが消えた。
「まだ持っていたのね」
「あなたが戻ったら渡そうと思って、昔の袋と同じ布で新しい袋も作っていたの」
「だから、どこかで見た気がしたんだ」
母は針を取り出した。
「ほつれた名前を、縫い直していい?」
シーラは首を振った。
「そのままがいい」
「ほつれているわ」
「うん。でも、お母さんが縫ったって分かるから」
イレナは針を置いた。
何かを直すことが、いつも正しいわけではない。
その翌週、洗濯場で問題が起きた。
汚れた布の袋に、患者の金属製の留め具が混じっていたのだ。
見習いの若者が指を入れようとした。
「待って!」
イレナは声を上げた。
「手を入れないで。中に針があるかもしれない」
若者は驚いて袋を離した。
責任者が器具を使って中を調べると、折れた縫い針が見つかった。
「よく止めてくれました」
「教わった通りにしただけです」
「その『だけ』が大切なんです」
事故にならずに済んだことは、作業記録に残された。
誰かを叱るためではない。
次の袋から同じ危険を取り除くためだ。
帰宅すると、シーラが台所で野菜を刻んでいた。
「今日は私が夕飯を作るね」
「疲れているでしょう」
「お母さんだって」
二人は同時に言い、顔を見合わせた。
少し前なら、どちらかが遠慮して終わっていただろう。
今は小さな言い合いができる。
「じゃあ、私が鍋を見ているわ」
「焦がさないでね」
「あなたこそ塩を入れすぎないで」
シーラは大げさに眉を上げた。
「私の料理、そんなにひどい?」
「昨日は少し」
「ひどい!」
二人の笑い声が、狭い部屋に満ちた。
洗濯場の休憩時間、イレナは先輩たちから家族の話を聞くようになった。
子供の学費を貯めている人、遠くの親に仕送りする人、一人暮らしを楽しんでいる人。
誰も、彼女にシーラの事件を詳しく尋ねなかった。
それがありがたかった。
ある日、先輩が布を畳みながら言った。
「娘さんと暮らすの、楽しい?」
「楽しいです。でも、時々ぎこちなくて」
「何年も離れていたら、そうでしょうね」
「母親なのに、娘の好きな食べ物も知らないんです」
「今から聞けばいいじゃない」
簡単な言葉だった。
イレナはその夜、夕食の席で尋ねた。
「シーラ、好きな食べ物は何?」
「今さら?」
「今さらだけど」
シーラは少し考えて答えた。
「焼きたてのパン。端が固いところ」
イレナは笑った。
「私もよ」
失われた年月は戻らない。それでも、今日知ったことは明日の暮らしに残る。
初めての給料日、イレナは市場でパンを二つ買った。ひとつはシーラの好きな、端が固いもの。もうひとつは自分用だった。
店主は袋を渡しながら言った。
「今日はお祝いかい」
「ええ。私が働いたお金で、娘と食べるんです」
そう答えた途端、胸の奥が温かくなった。
帰宅するとシーラは帳面を広げていた。
「明日の授業の準備?」
「患者さんが自分の名前を確かめる練習をするの」
「洗濯場でも名前を確かめるわ。取り違えると困るから」
「一緒だね」
イレナはパンを半分に割った。
昔、娘が小さかった頃もこうして分けた。
けれども、今日のパンは昔の代わりではない。
二人で新しく始めた暮らしの味がした。
翌朝、イレナは洗濯場の入口で名札を付けた。
『イレナ』。
誰かの母親としてだけではなく、自分の名前で働く日々が始まっている。
休憩時間には、シーラの布袋のほつれを直す代わりに、新しい布袋を一つ縫った。
今度は自分の名前を縫った。
最後の一文字が、また少し傾いた。
イレナはほどかず、そのままにした。




