番外編第五話 セレナを処刑しようとした兵士の娘が、医師になった
医療学校の卒業名簿に、エルナの名前があった。
彼女は何度も指でなぞり、ようやく本当だと信じた。
五年かけて学び、試験に合格した。
明日からは研修医として患者の前に立つ。
ところが帰宅すると、父は祝いの食卓に手を付けず、古い軍帽を置いていた。
「話さなければならないことがある」
父の声は震えていた。
十年前、父は王宮の兵士だった。
セレナに処刑命令が出されたとき、彼は命令を受ける側にいた。
実際に刑は執行されず、セレナは追放された。
しかし父は、命令が実行されていれば剣を抜くつもりだったと告げた。
「お前の学校を作るのに力を貸した人を、俺は殺そうとしていた」
エルナは言葉を失った。
父は続けた。
「命令だから仕方ないと思っていた。そう考えることで、自分を守っていた」
「どうして今まで黙っていたの」
「お前に嫌われたくなかった」
エルナは椅子を押し、立ち上がった。
「私が医師になると知っても、黙っていられたの?」
父は答えられなかった。
その夜、エルナは卒業証書を箱にしまった。
医療学校で習ったのは、患者の過去や身分で診察を変えないことだった。
けれど自分の父がセレナを殺そうとしたと知ると、白衣を着る資格がない気がした。
翌朝、彼女はエドガーを訪ねた。
「研修を辞退したいんです」
理由を聞いたエドガーは、しばらく黙った。
「君は父親の行為を知っていたのか」
「昨夜、初めて」
「隠そうとしたのか」
「いいえ。でも、父の娘です」
「それは事実だ。だが君自身が何をしたかとは別の話だ」
「患者に知られたら?」
「君が適切に診察できるかどうかは、研修で確かめる。家族の罪を理由に医師を排除する制度にはしない」
エドガーは辞退届を返した。
「それでも辞めたいなら、考える時間を取ろう。ただし、恥ずかしさだけで決めるな」
エルナは自分でセレナに会うことにした。
診療所の庭で待っている間、何度も逃げ出したくなった。
セレナが現れると、彼女は深く頭を下げた。
「父は、あなたへの処刑命令が出たとき、執行に備えていた兵士の一人でした」
「そう」
セレナは驚いた様子を見せなかった。
「父のことを許してくださいとは言えません。でも、私が医師になるのは間違いでしょうか」
「どうして私に聞くの?」
エルナは顔を上げた。
「あなたが傷つけられた人だからです」
「それなら、私にはあなたの将来を決める権利はないわ」
セレナは静かに言った。
「あなたのお父さんがしたことは、調べられるべきこと。あなたが患者をどう扱うかは、あなた自身の責任よ。私に会いに来たことも、父親の代わりに謝る義務からでなくていい」
「私は、父を許せません」
「今すぐ許す必要はない」
「それでも、父を見捨てたくもありません」
「その気持ちも、あなたのものよ」
エルナは涙を拭いた。
自分が欲しかったのは無罪の証明ではない。
自分の選択を自分で引き受ける許しだった。
研修初日、エルナは病棟で高齢の患者を担当した。
男は元兵士で、古い戦傷のため足が不自由だった。
「若い先生か。俺みたいな年寄りは面倒だろう」
「困っていることを教えてください」
男は笑った。
「夜になると痛くて眠れん」
エルナは痛みの場所、強さ、いつ悪化するかを尋ねた。
先輩医師と相談し、治療計画を説明した。
薬だけでなく、夜間の姿勢や歩行補助具も確認した。
男が昔の軍隊の話を始めると、エルナの手が一瞬止まった。
しかし、問診票を閉じなかった。
「その頃から、痛みはあったのですか」
「いや、もっと後だ」
「では、今の症状をもう少し教えてください」
彼女は目の前の患者の話に戻った。
帰宅すると、父が玄関で待っていた。
「どうだった」
「失敗もした。先輩に何度も確認した」
「そうか」
父は安心したように息を吐いた。
エルナは鞄を置いた。
「父さん。あの命令のこと、正式に証言してほしい」
父の顔が強張った。
「今さら、何が変わる」
「過去は変わらない。でも、記録は残せる。次に同じ命令が出たとき、誰かが拒む理由になるかもしれない」
父は長い間、軍帽を見つめた。
「俺が罰を受けるかもしれん」
「それでも、話してほしい」
エルナは声を震わせながら言った。
「私が医師になるのを、父さんの沈黙の上に置きたくない」
父が調査窓口へ行く前夜、エルナは食卓に二つの椅子を並べた。
「怖い?」
父は頷いた。
「お前に軽蔑されるのが、一番怖かった」
「もう怒っているよ」
「分かっている」
「でも、話してくれたことまで無かったことにはしない」
父は目を伏せた。
エルナは水差しを持ってきた。
二人はしばらく無言で食事をした。
仲直りの言葉は出なかった。
けれど、食卓を挟んで座ることはできた。
病棟では、エルナにも失敗があった。
患者の痛みの記録を引き継ぐ際、前日の数値を見落としかけた。
先輩医師に指摘され、顔が熱くなる。
「すみません。確認します」
「謝るだけで終わらせない。どこを見落としたか一緒に確かめよう」
エルナは記録の欄を見直した。
自分が正しいと思い込むことの怖さを、彼女は知っている。
父が過去に従った命令と、今日の記録の見落としは同じ罪ではない。
それでも、間違いに気づいたときに隠さないという選択は、自分でできる。
「次の引き継ぎでは、変化した数値を先に読み上げます。確認した人の名前も記録します」
先輩医師は頷いた。
「それでいい。明日も続けよう」
数日後、父は調査窓口へ出向いた。
証言が受理されても、すぐに処分が決まるわけではない。
調査は続き、父娘の会話も以前のようには戻らなかった。
エルナはそれを急いで直そうとしなかった。
病棟では毎日、新しい患者が待っていた。
研修開始からひと月後、元兵士の患者が退院した。
「先生、夜に眠れるようになったよ」
「よかったです。無理はしないでくださいね」
「若いのに、話をよく聞いてくれた」
男は杖をついて歩き出した。
エルナは見送ったあと、自分の名札を確かめた。
そこに刻まれているのは父の階級でも、過去の命令でもない。
『研修医 エルナ』
彼女は次の患者の名を呼んだ。
「お待たせしました。どうぞ」
診察室に入ってきたのは、父と同じ年頃の男だった。
エルナは名札を裏返さず、患者の目を見た。
「今日は、どんなことでお困りですか」
男は答える前に、握りしめた帽子を膝へ置いた。
エルナは急かさず、記録用の筆をいったん机に戻した。
父の過去を知らないこの人にとって、目の前にいるのは一人の医師だった。
その信頼に応える仕事は、今日からも続く。




