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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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番外編第四話 最高治癒師の休日は、誰にも見つからなかった

「今日だけは、診療鞄を置いてください」

リゼがそう言って鞄を取り上げたのは、休日の朝だった。

セレナは戸口で困った顔をした。

「でも、何かあったら」

「当直医がいます。代診の連絡先も確認しました」

「薬箱だけでも」

「持ちません」

リゼは容赦がなかった。

セレナはようやく諦め、普段は被らない麦わら帽子を手に取った。

今日は誰にも呼ばれず、市場の蜂蜜パンを食べる。

それだけの予定だった。


国境の市場は朝から賑わっていた。

焼きたてのパン、果物、布、木工品。

セレナは店先で立ち止まるたび、値札を確かめた。

普段は薬剤の納入価格ばかり見ているので、林檎の値段を比べるのが新鮮だった。

「お姉さん、どれにする?」

果物屋の少年が尋ねた。

「一番甘いのを」

「それなら、こっち。でもちょっと傷があるよ」

「味がよければ構わないわ」

少年は満足そうに林檎を袋に入れた。

「おまけはしないからね」

「それでいいわ」

セレナは笑って代金を払った。


パン屋には長い列ができていた。

ようやく順番が来たとき、目当ての蜂蜜パンは残り一つだった。

セレナが手を伸ばすと、隣の少女も同時に指さした。

「それ、欲しい!」

母親が慌てて少女の手を引いた。

「先に並んでいたのはこの方よ」

セレナはパンを見た。

最後の一つ。

今日の楽しみの半分だった。

「半分ずつにはできないかしら」

店主が笑った。

「できますけど、切ると蜂蜜がこぼれますよ」

少女は真剣に考えたあと、言った。

「じゃあ、お姉さんが大きいほうでいい」

「どうして?」

「お姉さん、すごく食べたそうな顔だから」

母親が顔を赤くした。

セレナは思わず吹き出した。

「じゃあ、半分ずつにしましょう」

二人は紙に包んだパンを受け取り、店先の長椅子に並んで座った。


「お姉さん、何のお仕事?」

少女が尋ねた。

セレナは一瞬迷った。

医師と答えれば、病気の相談が始まるかもしれない。

「今日は、仕事を休む練習中なの」

「そんなお仕事あるの?」

「私も初めてやっているの」

少女は大笑いした。

「下手だね」

「そうね」

セレナは蜂蜜のついた指を拭いた。

休むことが下手だと言われて、なぜか嬉しかった。


次に立ち寄った焼き栗屋で、店主が釣り銭を一枚多く渡した。

「おじさん、一枚多いわ」

「おや、助かった。朝から忙しくてね」

店主は銅貨を受け取り、栗を一粒おまけした。

「これは?」

「正直者へのご褒美」

「では、ありがたく」

セレナは紙袋を抱えた。

たった一粒の栗が、妙に特別に思えた。

病院では感謝の言葉を受け取ることがある。

けれど、今日の栗は命を救った報酬ではない。

釣り銭を返しただけだった。


昼過ぎ、川辺の草地で本を開いた。

三行読んだところで、遠くから病院の鐘が聞こえた。

セレナの背筋が伸びる。

立ち上がりかけた瞬間、リゼの声が頭に浮かんだ。

『当直医がいます』

セレナはもう一度座った。

鐘が鳴るたびに駆け出していては、誰も代わりを務められない。

自分が休むことも、病院を一人に頼らせない訓練なのだ。

そう考えたあと、セレナは苦笑した。

休日まで仕事の理屈を持ち込んでいる。

「本当に下手ね、私」

誰もいない草地で呟いた。


川辺で本を読んでいると、小さな犬がセレナの靴を嗅いだ。

「こら、そっちは駄目だよ」

追いかけてきた老人が頭を下げる。

「すみません。食べ物の匂いがすると、すぐ寄っていくんです」

「焼き栗の匂いかもしれません」

セレナが紙袋を見せると、犬は期待に満ちた目を向けた。

「これはあげられないわ」

「賢い子なんですが、食い意地だけはね」

老人は犬の首輪を直し、立ち去った。

セレナは犬の後ろ姿を見送った。

たったそれだけの出来事なのに、笑いが止まらなかった。

病院では、誰かの症状を見落とさないよう気を張っている。

今日は、ただ犬が栗を欲しがっただけだ。

それ以上の意味を探す必要はない。


本を開き直すと、物語の主人公が船酔いで寝込んでいた。

セレナは思わず脈を測る方法を考えた。

すぐに自分の額を軽く叩く。

「違う。これは冒険の話」

ページを戻して読み直すと、主人公は友人に笑われながら甲板を這っていた。

セレナも声を立てて笑った。

その笑い声に驚いた鳥が飛び立ち、彼女はまた笑った。

休暇の練習は、思っていたより忙しい。


夕方、帰り道の古本屋で一冊の物語を見つけた。

冒険者が海へ出る話だった。

治療法も制度も書かれていない。

ただ、知らない町へ行き、見知らぬ人と食事をする。

セレナは迷わず買った。

店主が包みながら尋ねた。

「お仕事に使う本ですか」

「いいえ。私が読みたい本です」

そう答えた途端、少し後ろめたくなった。

仕事に役立たないものを買うことに、理由が要ると思い込んでいたからだ。

「それはいいですね」

店主は嬉しそうに頷いた。

「昔、私も休みの日まで店の帳簿を開いていました。でも、読書を始めてからは閉店が楽しみになりましてね」

セレナは包みを抱え直した。

「私も、そうなれるかしら」

「本を開くところからですよ」


家に戻ると、リゼが茶を淹れていた。

「どうでした?」

「蜂蜜パンを半分しか食べられなかった」

「それは残念」

「でも焼き栗を一粒おまけしてもらった」

セレナは紙袋を差し出した。

リゼは一粒取って口に入れた。

「誰かに見つかりました?」

「何人にも話しかけられたわ。でも、誰も最高治癒師とは呼ばなかった」

「よかったですね」

セレナはうなずいた。

本当に嬉しかったのは、誰にも正体を知られなかったことではない。

知らない人たちと、何の肩書きもなく話せたことだった。


翌朝、当直医から昨日の報告が届いた。

患者の診察は滞りなく終わり、緊急の判断も当番の医師たちで済んでいた。

セレナは報告を読み、ほっと息をついた。

そして机の引き出しから、新しい本を取り出した。

次の休みには、続きを読もう。

今度こそ蜂蜜パンを一つ丸ごと食べたい。

その願いを予定表に書き込むと、リゼが覗き込んだ。

「『休み』の文字、会議より大きいですね」

「重要な予定だから」

セレナは真顔で答えた。

リゼは笑い、予定表を閉じた。

リゼは予定表の丸印を指でなぞった。

「次は私も休んでいい?」

「もちろん。蜂蜜パンは二つ買いましょう」

「半分ずつじゃなく?」

「今度は一つずつよ」

セレナは真剣に答え、二人で笑った。

読みかけの本は机の端に置いたまま、しばらく開かれなかった。

その時間さえ、彼女には休日だった。

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