番外編第三話 皇女アーデリアが、一日だけ看護助手になった
「殿下、その靴では滑ります」
帝都公立病院の看護長マリエは、皇女アーデリアの足元を見て言った。
磨き上げた革靴は、病棟の濡れた床には向かない。
「では、何を履けば?」
「倉庫に予備があります。まず着替えてください」
皇女が持ってきたのは、医療費削減案の分厚い資料だった。
病院側が人手不足を訴えるたび、財務官は『業務の効率化』と書き込む。
アーデリアは、その言葉が何を意味するのか自分の目で確かめに来た。
「一日だけ、許可された範囲で補助の仕事をさせてください。患者さんには私の立場を説明し、嫌がる方には近づきません」
マリエは腕を組んだ。
「見学と非医療業務なら構いません。患者さんの了承がない場面には入りません。できる仕事は私が決めます」
「分かりました」
「分かっていない顔です」
皇女は思わず笑った。
最初の仕事は、洗濯済みの布を棚に並べることだった。
「もっと患者の役に立つ仕事は?」
「清潔な布がなければ、患者さんを寝かせることもできません」
マリエは一枚の布を広げ、汚れが残っていないか光に透かした。
「数をそろえるだけでは駄目です。破れも見ます」
アーデリアは布の端をつまんだ。
王宮では洗い上がった布が当然のように届く。
誰が何度洗い、どの布を交換したのか、考えたこともなかった。
昼前、配膳の手伝いを許された。
食札には患者の名前、食事の形、食べられないもの、手助けの必要性が書かれていた。
「同じ料理を配るのではないのですね」
「同じにしたら困る方がいます」
アーデリアは慎重に盆を持った。
ところが曲がり角で、後ろから来た台車を避けようとして盆を傾けた。
器が床に落ち、温かい汁が広がった。
「申し訳ありません!」
皇女がしゃがもうとすると、助手のニナが腕を止めた。
「破片があります。まず患者さんにかかっていないか確認してください」
アーデリアははっとして振り向いた。
近くにいた老人は無事だったが、食事を待っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいよ。誰だって落とすさ」
老人は笑った。
しかしニナは笑わなかった。
「次の盆を用意します。殿下は通路を空けてください」
その指示に従うしかなかった。
午後、別の患者の食札を読み違えた。
柔らかい食事が必要な患者に、普通のパンを置きかけたのだ。
ニナがすぐ止めた。
「お名前と食事の種類を、声に出して確かめてください」
「二度確認するのですか」
「急いでいるときほどです」
患者は黙って二人を見ていた。
アーデリアは頬を赤くし、食札を読み直した。
「私の確認不足でした。申し訳ありません」
患者はうなずいた。
「気づいてくれてよかった」
その言葉は、責められるよりも重かった。
休憩時間、アーデリアはニナと同じ長椅子に座った。
「今日は、いつ休む予定だったのですか」
「本当は午前中です。でも欠員が出て、今になりました」
「代わりの人は?」
「いません」
ニナは水を飲んだ。
「私たちが慣れているから、仕事が回っているように見えるんです。でも慣れたから疲れなくなるわけじゃありません」
アーデリアは返す言葉を失った。
予算書には、患者数と職員数しか載っていなかった。
一人が何度食事を運び、何人の患者を支え、何分休めたのかは書かれていない。
夕方、マリエが実習記録を渡した。
「今日の感想をどうぞ」
アーデリアは『人員不足』と書きかけて、筆を止めた。
「私が失敗したのは、人数が足りないせいだけではありません。確認の手順を知らなかったからです」
「そのとおりです」
「でも、ニナさんが確認する時間を取れなければ、私の失敗は患者さんに届いていた」
マリエはうなずいた。
「安全は、気合いで守れません」
アーデリアは実習記録に、落とした盆と読み違えた食札のことを隠さず書いた。
実習の終わりに、マリエは皇女を洗濯室へ連れていった。
棚には清潔な布が並んでいるが、奥の籠には交換を待つ布が山になっていた。
「昨日はこの倍ありました」
「どうして減ったのですか」
「夜勤の人が休憩を削って洗ったからです」
アーデリアは布の山を見つめた。
報告書なら『処理件数増』と書かれる出来事だった。
「それは改善ではないのですね」
「はい。今日だけ乗り切っても、明日の人が倒れます」
マリエは帳面を開いた。
「増員しても、すぐに全員が働けるわけではありません。教える時間も必要です」
「教育の時間も、予算に入れます」
「それを言ってくださる方は多いのです」
マリエは厳しい顔のまま続けた。
「実際に承認されたら、もう一度お話ししましょう」
皇女は頷いた。
拍手されるために来たのではない。
実現するまで、約束はただの言葉だった。
帰りの馬車で侍女長が尋ねた。
「お疲れではありませんか」
「疲れたわ。でも、私は明日休める」
アーデリアは手のひらを見た。
布を何枚も畳んだだけで、指の関節が痛む。
「毎日あそこにいる人は、誰が休ませるのかしら」
侍女長は答えなかった。
その沈黙を、皇女は翌日の会議まで持ち帰った。
翌日の予算会議。
財務官は資料をめくり、眉をひそめた。
「補助員を増やすより、配膳を早く終わらせる工夫が必要では?」
「早く終わらせようとして、私は食札を読み違えました」
皇女の言葉に、会議室が静まった。
「患者に合わない食事を出せば、節約どころではありません。必要なのは、確認できる人数と時間です」
彼女は看護長がまとめた実績を示した。
欠員が出た日の残業時間。
休憩を取れなかった職員数。
配膳の確認に必要な手順。
「全額を一度に認めてほしいとは言いません。まず三か月の増員試行を行い、事故と残業の記録で効果を確かめます」
財務官はしばらく黙り、試行予算を正式な審査議題に載せることを認めた。
「事故の件数だけで評価してはなりません。報告しやすくなれば、初めは件数が増えることもあります」
看護長が付け加えた。
アーデリアは頷き、休憩取得率と確認作業の記録も評価項目に加えた。
その場で全てが解決したわけではない。
それでも『効率化』の一言で片付けられていた仕事に、初めて具体的な数字が付いた。
試行予算が議会の承認を経て動き始めた三か月後、アーデリアは病院を再訪した。
ニナが休憩室でお茶を飲んでいた。
「今日は時間どおり休めていますか」
「増員された日のうちは。欠員が出れば、まだ難しい日もあります」
「では、次の審査では欠員の日の記録も見せてください」
「ええ。うまくいった日だけ報告するつもりはありません」
ニナは笑い、皇女の靴を見た。
「今日は滑らない靴ですね」
「学びましたから」
「では、次は盆を落とさない練習ですね」
「それは、もう少し時間をください」
二人は声を上げて笑った。
皇女は帰り際、洗濯室から漂う石鹸の匂いに気づいた。
王宮でも嗅いだことのある匂いだった。
けれど、その香りの向こうで働く人の顔を、今は知っていた。




