番外編第二話 シーラがセレナに「ありがとう」と言った日
「ここに、私が死んだって書いてある」
シーラは紙を指さした。
王都の仮設診療所で渡された死亡記録の写しには、確かに彼女の名前があった。
母親は隣に座り、娘の手を握ろうとして途中で止めた。
シーラが触れられるのを嫌がる日もあると知っていたからだ。
「間違っているのは紙のほうよ」
母が言うと、シーラは首を横に振った。
「みんな、紙のほうを信じたじゃない」
セレナを陥れるために作られた偽の死亡記録。
それが公の調査で明らかになっても、シーラの暮らしが一夜で戻るわけではなかった。
学校では名簿から名前が消され、戻るためにも本人確認が必要になった。
市場の店主は、彼女を見て驚いたあと、気まずそうに目を逸らした。
子供たちは事情を知らず、「幽霊」と囁いた。
誰もが悪意を持っていたわけではない。
だからこそ、何に怒ればいいのか分からなかった。
リゼが新しい住民登録の申請書を持ってきた。
「今日は、訂正の手続きを始められるわ」
シーラは紙を受け取らなかった。
「また大人が私の名前を書くの?」
リゼは一瞬、言葉に詰まった。
母親も顔を伏せた。
「ごめんなさい。あなたに確かめずに進めようとしたわ」
リゼは申請書を机に置き、説明を始めた。
何を訂正するのか。
どこへ提出するのか。
誰が写しを見るのか。
途中で嫌になったら、今日は署名しなくてもいいこと。
シーラは最後まで聞いてから尋ねた。
「セレナ先生も、私が証言しないと困る?」
「先生本人に聞いてみましょう」
診察室の外の小さな庭で、セレナは薬草の鉢に水をやっていた。
シーラは門のところで立ち止まった。
以前にも何度かここまで来て、引き返している。
セレナが振り向いた。
「今日は座っていく?」
シーラはうなずいた。
二人はしばらく、土に染み込む水を眺めていた。
「私が話さなかったら、先生は困る?」
「事件を調べる人には、知りたいことがあるかもしれない。でも、あなたの体験をいつ誰に話すかは、あなたが決めていい」
「私のせいで先生が追放されたのに?」
セレナは水差しを置いた。
「違うわ。あなたの命を利用して、嘘の書類を作った人たちがいたの。責任があるのは、その人たちよ」
「でも私が死んだことにならなければ……」
「生きていてくれてよかった」
短い言葉だった。
シーラは膝の上の指を握り込んだ。
その言葉を聞きたかったのだと、ようやく気づいた。
「怖かったの」
シーラは小さな声で言った。
「私が生きているって言うたび、誰かが怒ったり、泣いたりした。だから、黙っていたほうがいいのかなって」
「黙りたい日は黙っていていい。話したい日は聞くわ」
「先生は怒らない?」
「あなたには怒らない」
セレナは即答した。
「でも、あなたを死んだことにした人には、今も怒っている」
シーラは初めて少し笑った。
大人が怒ることと、自分が責められることは、同じではないのかもしれない。
翌日、シーラは訂正窓口へ行った。
窓口の職員は、本人確認のため名前と生年月日を尋ねた。
シーラは答えた。
職員が古い記録を見て手を止めた。
「死亡の登録が残っていますね。保護者の方が代わりに――」
「私が話します」
母親が口を開く前に、シーラは言った。
「その記録は偽物だって、調査で分かったんです。訂正の申請をしに来ました」
職員は慌てて別の帳面を開いた。
「申し訳ありません。訂正を認める調査結果は届いています。ここで申請を受け付け、登録担当が確認します」
手続きは思ったより長かった。
一枚の書類を直すために、別の帳面を確かめ、証明書の番号を照合しなければならない。
シーラは途中で疲れた。
母親が水を差し出すと、今度は受け取った。
帰り道、シーラは母に尋ねた。
「どうして、あの紙を捨てなかったの?」
母親は布袋から青い髪留めを出した。
片方の飾りが折れている。
「あなたがいなくなったとき、これだけ残っていたの。紙を捨てたら、何を調べればいいか分からなくなる気がして」
「ずっと持っていたの?」
「ずっと」
母の声が震えた。
シーラは髪留めを受け取り、折れた部分を親指でなぞった。
「新しいのを買ってもいい?」
「もちろん」
「これは捨てない。でも、新しいのも欲しい」
母は泣きながら笑った。
訂正の申請を終えた日、シーラは学校の門まで行ってみた。
塀の向こうから子供たちの声が聞こえる。
以前、彼女を幽霊と呼んだ少年が走ってきた。
「シーラ、本当に戻るの?」
シーラは足を止めた。
「戻るよ」
「先生が、もう変なことを言うなって」
少年は靴先で地面を擦った。
「ごめん。あのとき、怖がらせた」
シーラはすぐには返事をしなかった。
謝ってもらえば、怖かった日が消えるわけではない。
「次は、知らないことを勝手に言わないで」
「うん」
「それと、私の名前を呼ぶなら、ちゃんと呼んで」
少年は顔を上げた。
「シーラ」
「うん。それでいい」
二人はそれ以上話さず、別々の道を歩いた。
夜、母親が髪留めを直してくれた。
折れた飾りを無理につなぐと、また壊れるかもしれない。
「これは箱にしまっておこうか」
「うん。でも時々見たい」
「いつでも見られるところに置こうね」
シーラは古い髪留めを布に包み、新しいものを明日の鞄に入れた。
古いものを捨てなくても、新しい日を始められる。
それが少しだけ分かった。
数週間後、審査を経て訂正された登録証が届いた。
申請が受理されただけでは、学校の出席簿は戻らない。
母親は新しい登録証を何度も確かめた。
シーラは紙に指を置いた。
そこには、死者ではなく、生きている自分の名前があった。
シーラはセレナのところへ持っていった。
「これ、私の名前」
「ええ」
「まだ怖いけど、もう一度学校へ行ってみる」
セレナはうなずいた。
「困ったら先生たちに相談して。私に話しに来てもいい」
シーラは鞄から、小さく折った紙を取り出した。
何度も書き直した跡があった。
「これ、読んで」
『私が話せるまで待ってくれて、ありがとう』
セレナは紙を読んだあと、顔を上げた。
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
「でもね」
シーラは息を吸った。
「今は、自分の声で言える」
彼女はまっすぐセレナを見た。
「ありがとう」
学校側が登録証を確認した翌朝、出席簿にシーラの名前が戻った。
教師が読み上げると、彼女はいつもより大きな声で返事をした。
「はい。ここにいます」
声は少し震えた。
けれど教師は聞き返さず、いつものように次の名前を呼んだ。
特別な拍手も、気遣う視線もなかった。
シーラはそれが嬉しかった。
教室の窓から差す光の中で、青い新しい髪留めが揺れた。




