番外編第一話 セレナを追放した門番が、十年後に病院を訪れた
「診察ではないんです」
国境共同病院の受付で、老人は三度同じことを言った。
受付係のミアは差し出された古い身分証を返し、相談窓口の札を表に向けた。
「では、こちらで伺います。お名前は?」
「ハロルド。昔、王都の北門で門番をしていました」
その名を聞いてもミアは表情を変えなかった。
事件当時はまだ幼く、追放の日の門番の名まで知るはずもなかった。
ハロルドはそれに少しだけ安堵し、すぐに恥じた。
知られていないからといって、何もなかったことにはならない。
彼の鞄には、錆びた門の鍵と、当日の通行簿を写し取った薄い帳面があった。
十年前、セレナが王都から追放された日の記録だった。
原簿は王都の保管所にあり、持ち出すことはできなかった。
当時、ハロルドは命令書を読み上げる使者の横に立ち、門を開けた。
「私は、あの人が無実かもしれないと知っていたんです」
「どうしてですか」
「追放の直前、使者が通行簿を書き換えさせたからです」
使者が門を出た時刻を、一刻早く直せと言った。
それだけなら記入間違いにも見える。
だが、使者は訂正した理由を残すなと命じた。
ハロルドは従った。
「それで、十年も?」
ミアの問いは責める声ではなかった。
だからこそ答えづらかった。
「家族を失うのが怖かった。門番を辞めさせられるのも、牢に入るのも」
「怖かったことと、黙っていたことは、両方記録できます」
ミアは相談記録用紙を一枚差し出した。
その日の午後、セレナは診察の合間に老人と会った。
ハロルドは立ち上がり、頭を下げた。
「許してください」
セレナは椅子に座るよう促したが、許すとは言わなかった。
「あなたが門を開けたことは覚えています」
「……はい」
「そのとき私が何と言ったかも?」
老人は唇を噛んだ。
「『門を閉める前に、私の話を聞いて』と」
「あなたは聞かなかった」
「はい」
セレナは机の上の鍵を見た。
十年前の冷たい風が、ほんの一瞬だけ胸を通り過ぎた。
門の外に出された夜、彼女は医師としての道具よりも、誰も話を聞かなかったことに傷ついていた。
「今ここで謝れば、あなたは楽になるでしょう。でも私は、そのために十年間を使ってきたわけではありません」
ハロルドの肩が落ちた。
「では、どうすれば」
「あなたが見た事実を、正式な場所で話してください。私のためだけではなく、記録を改ざんされる次の誰かのために」
ハロルドは通行簿を差し出した。
セレナは受け取らず、記録管理官を呼んだ。
「私が預かれば、後で証拠の扱いに疑いが生じるかもしれません」
管理官は写しの作成年月と保存経緯を聞き取り、帳面の状態を記録して封印した。
老人には受領証を渡した。
「王都の原簿との照合が必要です。この写しと証言だけで、誰が改ざんを命じたかは断定できません」
「構いません。記憶違いなら、それも明らかにしてください」
老人がそう言えたのは、初めてだった。
翌朝、ハロルドは王都の記録保管所へ向かった。
古い鍵は鞄の底に残した。
証拠として必要なのは鍵ではない。
鍵を握る自分の手が、あの日、何をしなかったかを忘れないためだった。
保管所では、門の原簿と使者の移動記録が別々の棚から出された。
使者の移動記録にある出発時刻は、門の原簿の訂正後の時刻と食い違っていた。
さらに訂正欄には、当時の規則で必要な監督官の署名がなかった。
保管官は眉を寄せた。
「不適切な訂正だった可能性があります。ただし、誰が命じたかは調査が必要です」
「私が証言します」
ハロルドは自分の字で供述書を書いた。
ただし、写しに記された時刻を自分の記憶だけで正しいと断言することは避けた。
「私が見たのは、訂正を命じられた場面です。使者が実際にどの道を通ったかは知りません」
調査官はその区別を赤い線で囲んだ。
「推測を事実として書かないことが、ほかの証言を守ります」
『使者に命じられ、理由を記さず時刻を変更した。私は異議を唱えなかった』
『脅された』と書きかけて、筆を止めた。
実際に脅迫の言葉があったわけではない。
恐れたのは自分だ。
彼はその二文字を消した。
調査の数日後、ミアのもとに王都から連絡が届いた。
ハロルドの供述は正式に受理され、通行記録の改ざんについて再調査が始まったという。
ミアはセレナに伝えた。
「老人は、もう一度会いたいそうです」
セレナは少し考えた。
「今は会わなくていいと伝えて。調査が終わったら、結果を文書で知らせてもらえれば十分です」
「許さないんですか」
「まだ分からないわ」
その答えに、ミアはうなずいた。
許すかどうかを急いで決める必要はない。
保管所へ通う途中、ハロルドはかつての同僚に会った。
「まだ昔のことを掘り返しているのか」
同僚は声を潜めた。
「王宮の命令に逆らえた者などいない。お前だけが悪かったわけじゃない」
ハロルドは、その言葉に甘えたくなった。
誰もが同じことをしたのだと思えば、夜に眠れなくなる理由もなくなる。
だが、彼は首を振った。
「俺が何をしたかは、俺が話す。お前の分まで罪を背負うつもりはないし、お前に俺の分を消してもらうつもりもない」
同僚は黙り、やがて背を向けた。
ハロルドは追わなかった。
昔の仲間と和解することまで、今日の仕事に含める必要はなかった。
その夜、家で孫が鍵を見つけた。
「おじいちゃん、これで何を開けるの?」
「昔の門だよ。もう、その門はない」
「じゃあ、捨てれば?」
老人は考えた。
「そうだな。いつか捨てられるかもしれない。でも、まだ覚えておきたいことがある」
「悪いこと?」
「うん。自分がした、よくないことだ」
孫は不思議そうに首を傾げたが、責めなかった。
ハロルドは初めて、家族にも隠していた日のことを少しだけ話した。
ひと月後、ハロルドは北門の跡地を訪れた。
門は取り壊され、今は往来する人のための広い道になっていた。
荷車が行き交い、王国の子供と帝国の子供が同じ井戸で水を飲んでいる。
老人は鍵を握りしめた。
あの日、自分が開けた門の先に、セレナは居場所を作った。
だが、それは自分が正しかった証拠にはならない。
老人は鍵を布で包み、家の引き出しにしまった。
後日、追加の聞き取りで調査官は使者の声を聞いた位置を尋ねた。
ハロルドは記憶が曖昧な部分を、曖昧だと答えた。
「それでも、証言として役に立ちますか」
「分からないことを分からないと記した証言なら、照合できます」
老人は帰り際、受領証を折らずに鞄へしまった。
許されたという知らせは、まだ届かない。
それでも十年前に閉ざした口を、自分の責任で開くことはできた。




