第百十九話 最高治癒師の後継者
セレナの任期満了が近づき、共同医療評議会は運営責任者の引き継ぎについて審議を始めた。
最初の議題は、誰を選ぶかではなかった。
「そもそも最高治癒師という役職に、何を任せるべきでしょうか」
イーナの問いに、議場は静まった。
これまで最高治癒師の名の下に、医療基準の確認から予算、人事、緊急時の指揮まで、多くの仕事が集まっていた。
セレナが倒れた日、署名が必要な書類が滞ったことを皆が覚えている。
アーデリアは当時の当直簿を机に置いた。
「誰かが倒れたら止まる制度を、後継者に渡すわけにはいきません」
委員たちは職務を分けた。
治療の判断は現場の医師が行う。
医療基準は専門家と患者代表を含む委員会が見直す。
予算と監査は別の担当が引き受け、緊急時の代理権限は名簿に明記する。
最高治癒師という称号は功績をたたえる名誉称号として残し、共同医療機関の運営は任期制の代表が担うことになった。
「肩書きを変えるだけでは足りません」
セレナは言った。
「任期が終わる前に、代理者が実際に仕事を引き継げるか確かめてください」
評議会は代表の選考基準を公表し、候補者からの推薦を受け付けた。
新しい代表職の選考が告知されると、共同医療学校を通じて各地から推薦状が届いた。
最も多かったのは、治癒魔法の強さを褒める言葉だった。
「一度に十人を治した」「重い傷を短時間で塞いだ」
セレナはその記録を読んだ。
どれも立派な技能だ。
けれど、新たな代表の仕事はそれだけではない。
候補者の一人は、若くして名声を得た治癒師だった。
彼は面接で言った。
「私なら、国境の患者を一人残らず治します」
委員の一人が感心して頷いた。
セレナは静かに尋ねた。
「あなたが熱を出して倒れたら、翌日の診療はどうなりますか」
若者は答えに詰まった。
「すぐに回復します」
「回復できなかった時の話をしています」
別の候補者は、地方病院で働く女性医師だった。
彼女の治癒魔法は強くない。
しかし感染症が広がった時、村の井戸を調べ、看護人の当番を増やし、患者の搬送先を確保した経験があった。
「あなたが共同医療機関の代表になったら、何を変えますか」
委員が尋ねた。
女性医師は答えた。
「私の代わりを、最初に決めます」
会議室が静かになった。
セレナは笑いそうになり、こらえた。
選考は人気投票にしなかった。
患者代表、医師、看護人、行政担当者がそれぞれ評価し、利益相反のある委員は審査から外れる。
候補者には過去の失敗についても説明を求めた。
女性医師は、かつて搬送の判断を遅らせた経験を話した。
「患者は助かりました。
でも、次も助かるとは限りません」
彼女はその後に作った連絡手順を示した。
若い治癒師も、自分の病院で当直表が一人に偏っていたことを認めた。
二人は競い合ううちに、互いの仕事を見直すようになった。
最終面接では、候補者全員に同じ問いが出された。
「あなたが間違えた時、誰が止めますか」
若い治癒師は、以前なら自分は間違えないと答えただろう。
だが今は、隣にいる同僚と、患者からの相談窓口を挙げた。
女性医師は、独立した監査と診療記録の点検を挙げた。
イーナにも立候補を勧める声があったが、選考委員会の事務局を担当していたため辞退し、候補者の評価や採決にも加わらなかった。
「誰を選んでも、その人を一人にしない仕組みが先です」
彼女はそう言い、議場の後ろに座った。
審査の結果、地方病院で感染対策と搬送体制を整えた女性医師が、初代の任期制代表の候補者として推薦された。
評議会は推薦理由と審査記録を確認し、正式に選任した。
若い治癒師には緊急治療の教育担当が提案された。
落選したことを悔しがる若者に、セレナは言った。
「悔しさは消さなくていい。
でも、患者を守る仕事は明日も続くわ」
選考結果が公表された日の夕方、セレナは候補者たちを医療学校の庭へ呼んだ。
「誰が選ばれても、誰かが失敗したという意味ではありません」
若い治癒師は苦笑した。
「私は魔法の強さばかり見せようとしていました」
女性医師は言った。
「私も、できないことを隠していたら同じです」
両者はすぐには握手しなかった。
選考への悔しさは、簡単には消えない。
それでも翌週、二人は一緒に研修の計画を作り始めた。
セレナは評議会の正式な承認を経た引き継ぎ予定表を確認した。
そこには、自分自身の退任日も明記されていた。
その日付は、誰かの病気や失脚によって決まるものではない。
決められた任期の終わりに、次の人へ仕事を渡すための日付だった。
「私が何度も間違えたことを、あなたは繰り返さなくていい。
一人で抱え込まないで。
みんなと一緒にやって」
新代表は頷き、イーナに引き継ぎ会議への参加を頼んだ。
その日の議事録には、代表者の名前の下に、監査担当、代理者、患者代表の名前が並んだ。
その翌朝、次期代表は引き継ぎ期間の最初の仕事として、代理者名簿の更新を求めた。
「私が病気になったら、誰が署名しますか」
書記は古い書式を取り出しかけ、手を止めた。
昨日決めたばかりの役職には、まだ代理者の欄がない。
議場にいた人々は顔を見合わせた。
セレナは口を出さず、新代表の返答を待った。
「今日中に作りましょう。
ただし私だけで決めません。
現場の責任者にも確認してもらいます」
その日の午後、代理者の候補から一人が辞退を申し出た。
病院での夜勤が続いており、これ以上の仕事は引き受けられないという。
次期代表は辞退の意思を尊重し、選任を担当する委員会へ報告した。
「名前を埋めるためだけに任命しても、緊急時に助けを求められません」
代わりに、別の病院と当直を分担する案が出た。
委員会は負担の見積もりを提出させ、必要な人員の予算も検討した。
制度の完成を祝う式典は、予定より短くなった。
その時間を使い、代表と監査担当と患者代表が初めて同じ机についた。
患者代表の女性は、難しい規則を読んで眉を寄せた。
「これでは、誰に苦情を言えばいいのか分かりません」
新代表は説明文を一枚にまとめるよう書記へ頼んだ。
「制度を作った私たちだけが分かる言葉では、役に立ちませんね」
一週間後、病院の受付には、相談先と代理者の名前が大きな字で掲げられた。
セレナはそれを見て、ようやく肩の力を抜いた。
引き継ぎとは、立派な演説をすることではない。
次の人が迷った時に、誰へ相談すればいいか分かるようにすることだ。
退任の日、セレナは引き継ぎ簿の最終確認を終え、筆を置いた。
自分の決裁印を押さない明日を想像すると、少し寂しかった。
けれど受付の壁には、彼女の名ではなく、当番の医師と相談窓口の名が並んでいる。
「ここに私の名がなくなるのは、少し寂しいわ。
でも、私がいなくても、誰に聞けばいいか分かるのね」
隣にいたイーナが頷いた。
「先生が残したのは、次の英雄ではありません。
迷った時に助け合える道です」
セレナは筆を箱にしまった。
寂しさは残る。
それでも、今度は安心して手放せる。




