第百十八話 セレナを追放した国から、最後の依頼が届いた
王国の使者が、最高治癒師の執務室へやって来た。
封筒には王国評議会の印が押されていた。
「セレナ殿に、王都中央病院の院長就任をお願いしたいのです」
使者は深く頭を下げた。
かつて彼女を追放した国が、今度は病院の頂点へ迎えようとしている。
書記たちは息をのんだ。
セレナは手紙を読み終えると、静かに尋ねた。
「院長の仕事は、何ですか」
使者は戸惑った。
「もちろん、王国で最も優れた治癒師として、患者を救っていただくことです」
セレナは首を振った。
「それでは、昔と同じです」
使者は言葉を失った。
セレナは書類を机に置いた。
「私がいれば助かる病院ではなく、私がいなくても患者を守れる病院が必要なのです」
数日後、彼女は王都を訪れた。
院長室には新しい机が置かれ、窓には彼女の紋章を掲げる準備がされていた。
だが廊下の先では、夜勤の看護人が二人分の仕事をしていた。
薬剤室の在庫表は古く、地方病院からの転院依頼は未処理のままだった。
セレナは院長室に入る前に、当直表を見せてもらった。
「私の名前を飾る前に、ここを直しましょう」
評議会との会議で、彼女は条件を出した。
院長を公開の選考で決めること。
看護人と薬師の代表を病院運営に参加させること。
院長の任期と監査の仕組みを設けること。
「それでは、あなたを迎えられないかもしれません」
評議会議長は言った。
「それで構いません」
セレナは微笑んだ。
「私を迎えることが目的なら、この依頼は断ります」
議長はしばらく黙っていた。
「では、あなたには何を頼めばよいのですか」
「新しい院長を選ぶ手伝いをさせてください」
選考には三人が応募した。
王宮で長く働いた医師。
地方診療所を立て直した女性医師。
そして、看護体制の改革を進めた若い医師。
選考委員の一人として、セレナは各候補者へ同じ質問をした。
『あなたが病気で休んだ時、病院はどう動きますか』
最も立派な経歴を持つ医師は、答えに詰まった。
女性医師は代理者の名前を挙げ、若い医師は緊急時の権限表を示した。
審査の末、選考委員会は地方診療所を立て直した女性医師を院長候補に選び、評議会がその人事を承認した。
彼女は受諾の前に、夜勤者の増員と薬剤在庫の監査を最初の議題にするよう求めた。
「私の名前を掲げる前に、眠れる当直表を作りたいのです」
セレナの意見だけで決まったわけではない。
彼女はそのことを喜んだ。
新院長の名はマリエだった。
評議会は正式な任命通知を発し、就任日と院長不在時の代理権限も職員へ知らせた。
地方診療所を立て直した実績はあっても、王都の大病院を預かるのは初めてだった。
就任前夜、マリエは引き継ぎのために病院を訪れた。
院長室に運び込まれた新しい椅子には座らず、夜勤者の休憩室へ向かった。
古い長椅子の上には、当直を終えた看護人の外套が積まれていた。
「ここで休んでいるのですか」
「仮眠できる部屋はあります。でも、急患が重なると戻る暇がありません」
看護人は疲れた顔で答えた。
マリエはその言葉を帳面に書き留めた。
就任当日の朝、セレナが病院を訪れると、マリエは机の上に三枚の紙を並べていた。
一枚目は当直者の人数。
二枚目は薬剤の不足。
三枚目は、院長が不在の時に誰が決めるかを記した権限表だった。
「あなたの名前を掲げる準備が、まだ終わっていないそうね」
セレナが言うと、マリエは首を振った。
「掲げるなら、私の名前より先にこの表です」
しかし、問題はすぐには解決しなかった。
看護人を増やすには予算が要る。
予算を確保するには、今までの支出を見直さなければならない。
古参の管理官は言った。
「これまで、この人数で回してきました」
「回してきたのではなく、誰かが休みを削って支えてきたのかもしれません」
マリエは勤務記録を差し出した。
連続勤務の時間と、患者から寄せられた待ち時間の苦情が並んでいた。
管理官は反論しかけたが、数字を見て口を閉じた。
マリエは、増員の決定まで危険な勤務が続かないよう、診療の受け入れ方法を見直し、近隣病院との応援体制を整えた。
患者に影響が出る変更は、理由と代替先を掲示することにした。
「全員に喜ばれる判断はできません」
彼女はセレナへ言った。
「でも、何を犠牲にしたかを隠す院長にはなりたくありません」
セレナは、かつて自分も一人で何もかも背負おうとしたことを思い出した。
「あなたなら大丈夫、と言ってしまいたいわ」
「言わないでください。私も間違えますから」
マリエは笑った。
「間違えた時に止めてくれる人を、病院の中に残しておきたいんです」
就任式の日、マリエは短い挨拶をした。
「私はすべての病を治せません。すべての判断を一人で下すこともできません」
集まった職員たちは静かに聞いていた。
「だから、報告しにくい失敗ほど知らせてください。知らせた人が損をする仕組みを変えます」
拍手は大きくなかった。
その言葉が本当かどうかは、これからの仕事で示すしかなかったからだ。
式が終わると、セレナは使者に返書を渡した。
『院長職は辞退します。選考を経て任命された新院長の判断を尊重してください』
使者は封書を受け取り、少し困ったように笑った。
「王国は、あなたに戻ってきてほしかったのです」
「戻ってきましたよ。必要な時には、こうして話し合えます」
セレナは廊下の先を見た。
マリエが若い看護人に呼び止められ、予定していた休憩時間の不足を指摘されていた。
マリエは立ち止まり、帳面を開いて話を聞いている。
「ただ、ここを私の居場所に戻す必要はありません」
数週間後、王都中央病院から最初の報告が届いた。
増員の予算はまだ審議中だった。
代わりに、当直の交代方法が改められ、危険な勤務が続く時間帯には赤い印がつけられていた。
報告書の末尾には、マリエの筆跡で一行あった。
『赤い印は、まだ消えていません。次の会議で再び報告します』
セレナはその一行を読み、安堵した。
立派な院長が生まれたからではない。
院長が解決できていない問題を、誰もが見られる場所に置けたからだった。
セレナは報告書を閉じ、王都中央病院で今夜も当直者が働いていることを思った。
その灯りを守る仕事は、もうセレナ一人の肩には載っていなかった。




