第百十五話 皇女が病院の予算を削られた
帝国の予算会議で、アーデリアは一枚の表を突きつけられた。
医療費の増加。
避難民支援の長期化。
橋と水路の補修費。
「これ以上、病院には金を出せません」
財務官は断言した。
アーデリアは怒りを抑えた。
「どの病院の、どの費用を減らすつもりですか」
「一律一割です」
その言葉で、彼女の表情が変わった。
患者の少ない診療所も、感染症の病棟も、同じ割合で削る。
帳簿の上では公平に見える。
しかし、夜勤の看護人が一人しかいない診療所から一割を削れば、その一人が休めなくなるかもしれない。
アーデリアは即答しなかった。
「三日ください。
削った後に何が起きるか、現場に聞きます」
翌日、彼女は王宮ではなく病院の洗濯場にいた。
夜勤明けの看護人が、乾かない寝具を抱えていた。
「洗濯費を減らせば、使い回しになります」
薬剤室では、使われないまま期限が近づく薬が見つかった。
「こちらは減らせます。
ただし、次の配送方法を変えなければ」
ある地方病院では、同じ薬を二つの倉庫で別々に買っていた。
無駄は確かにあった。
けれど無駄をなくすことと、必要な人手を削ることは違った。
三日後、アーデリアは新しい表を提出した。
共同購入による費用削減。
使われない倉庫の統合。
期限切れを防ぐ在庫の共有。
その一方で、夜勤体制と感染対策の費用は維持する。
財務官は眉をひそめた。
「削減額が足りません」
「足りない額は、足りないと記録します。
存在しない節約を作りません」
会議は長引いた。
貴族の一人が口を開いた。
「皇女殿下は患者の味方ばかりなさる」
アーデリアは答えた。
「私は、支払う人の味方でもあります。
無駄な支出を続ければ、来年の患者が困ります」
結局、病院予算の一部は削られ、共同購入と在庫統合の効果を検証することになった。
アーデリアは完全には勝てなかった。
ただし、削減対象と影響を四半期ごとに公開し、患者の安全に問題が出れば見直す条項を加えた。
その夜、セレナから短い手紙が届いた。
『すべてを守れなかったことと、何も守れなかったことは違います』
アーデリアは何度も読み返した。
翌月、最初の暫定的な影響報告が届いた。
薬の共同購入は成功したが、地方病院への配送が遅れ始めていた。
アーデリアが訪れた洗濯場では、桶の底が見えなくなるほどの寝具が積まれていた。
「これを三人で?」
「今夜は二人です。
一人は熱を出して休んでいます」
洗濯係は手を止めずに答えた。
「予算を減らすなら、寝具を替える回数を減らすしかありません」
アーデリアは帳簿を開いた。
洗濯の費用は薬剤費より小さい。
一律一割を削っても、国の財政に大きな効果はない。
しかし病棟の衛生状態には直接響く。
彼女は財務官を連れて、翌朝もう一度訪れた。
財務官は寝具の山を見て黙った。
「この費用を守れば、別の何かを削ることになります」
アーデリアは頷いた。
「だから何を削るか、患者と働く人に説明できるようにしたいのです」
別の病院では、薬の在庫が余っていた。
倉庫の責任者は、前年度に不足したことを恐れて多めに発注していた。
「次に足りなかったら、私が責められますから」
アーデリアは責める代わりに、在庫を融通した時の責任分担を確認した。
病院同士で分けても、移送中に壊れたらどちらが損失を負うのか。
その規則がないため、余った薬は倉庫で期限を迎えていた。
共同購入だけでなく、移送の保険と検査記録が必要になった。
追加予算を審議する前夜、アーデリアは一人で表を見つめた。
どの行にも、そこに働く人の顔が浮かぶ。
「全部守りたいなら、数字を書き換えるしかない」
冗談めかして呟いたが、すぐに顔をしかめた。
王国が死者の数を隠した時も、最初は小さな数字の修正だった。
彼女は赤い筆で、削減が困難な項目に印をつけた。
翌日の追加予算会議では、財務官が別案を示した。
「帝都の新庁舎建設を一年遅らせれば、医療費の不足を一部補えます」
貴族たちは一斉に反発した。
庁舎は帝国の威信だという。
アーデリアはその意見を笑わなかった。
「建物にも必要性はあります。
ですが今、どちらを遅らせると命に影響するかを比べましょう」
議論は夜まで続いた。
結果として新庁舎の工期は一部延期され、医療費も一部削減された。
誰も完全には満足しなかった。
会議後、若い書記が尋ねた。
「殿下、勝ったんですか」
「分からないわ。
半年後に確かめることになる」
正式な四半期報告では、共同購入は予定より費用を抑えた。
一方、配送の遅延によって小さな診療所の薬が足りなくなった。
アーデリアは失敗を隠さず、輸送予算の追加を求めた。
「節約できた額だけを成果にすれば、足りなくなった薬は帳簿から消えてしまう」
財務官はしばらく考え、次回から配送日数も評価表に加えると答えた。
その日、アーデリアは洗濯場へ戻った。
「次の予算でも、必要な費用を説明してもらえますか」
洗濯係は濡れた手を拭いた。
「説明なら何度でもします。
寝具を替える仕事まで、代わってくれるならもっと嬉しいです」
アーデリアは袖をまくり、桶を運ぶのを手伝った。
洗濯場の状況も記録に加え、彼女は次の予算見直しに備えた。
財務官は後日、地方病院の報告書を自分の机へ取り寄せた。
これまでは削減額の欄しか見ていなかった。
今回は、薬の到着が何日遅れたか、看護人が何時間残業したかまで読んだ。
「数字が増えて、ますます面倒になりました」
彼はアーデリアにこぼした。
「面倒になったのではありません。
今まで見ていなかった仕事が見えるようになったのです」
財務官は苦笑し、次の予算案に配送担当の増員費を加えた。
その費用を捻出するため、別の事業は延期される。
誰かが必ず不満を言うだろう。
それでも、何を守り、何を先送りしたかを説明できる。
アーデリアは会議の記録に、反対意見も残すよう求めた。
反対者がいたことを消せば、来年、同じ議論を初めから繰り返すことになる。
彼女は窓の外の病院を見た。
灯りが消えない理由を、今度は帳簿の上でも守りたかった。
予算の効果は、決定した時ではなく、患者と職員の暮らしの中で確かめなければならない。
「数字は人を隠すことも、守ることもできる」
アーデリアは書記に言った。
「だから、都合の悪い数字も消さないで」
財務官はすぐには賛成しなかった。
「来年の税収が落ちれば、この案も見直します」
「ええ。
だからこそ削減の影響も毎年公表しましょう」
二人は、追加費用の財源と次回の検証日を明記した修正案に、共同提案者として署名した。
正式な執行には、予算を決定する会議での承認が必要だった。
二人はその場で削減を撤回したとは発表せず、承認までの暫定措置と病院への通知方法を確認した。




