第百十六話 王子の罪を知らない子供たち
王都の学校で、歴史の授業が止まった。
教科書に載せるレオニス王子の記述をめぐって、教師たちの意見が割れたのだ。
「王子は悪人だったと書けばいい」
一人が言った。
別の教師は首を振った。
「子供たちの家族には、王子に従って働いた者もいます」
学校へ招かれたシーラは、教室の後ろでその議論を聞いていた。
彼女はかつて、王宮の書類で死んだことにされた少女だった。
「私が経験したことなら、話せます」
教師が頷くと、シーラは黒板に二つの言葉を書いた。
『確かめられたこと』
『まだ分からないこと』
「私は生きていたのに、死んだと書かれました。
これは、記録と私自身を調べれば確かめられることです」
子供たちは静かに聞いた。
「では、王子がすべての悪いことを一人で考えたかどうかは?」
少年が尋ねた。
「それは、調べた証拠ごとに答えが違うの。
裁判で認められた罪と、まだ調べていることを混ぜてはいけないわ」
教室の隅で、少女が手を挙げた。
「私のお父さんは、王宮の門番だったの」
彼女の声は震えていた。
「お父さんも悪い人なの?」
シーラはすぐに答えなかった。
「あなたのお父さんが何を見て、何をしたかを、私は知らない。
知らないのに決めつけるのは、私がされたことと同じよ」
少女は泣き出した。
教師が隣に座り、話を続けるかどうかを本人に尋ねた。
その日の授業は予定より早く終わった。
シーラは、少女を傷つけたのではないかと悩んだ。
しかし翌日、教師から手紙が届いた。
『子供たちが、家で大人に質問し始めました』
ある子は、なぜ病院の名簿を確かめなかったのかと尋ねた。
ある子は、命令に逆らうとき誰に相談できるのかと尋ねた。
教師は授業の続きを作った。
命令書を受け取った時に、確認すること。
間違いを見つけた時に、相談できる場所。
証拠のない噂を広めないこと。
シーラは最後の授業で、子供たちに白い紙を配った。
「ここに、将来の誰かに残したい質問を書いてください」
門番の娘はゆっくり書いた。
『こわい命令をもらったら、どうすればいいですか』
最後の授業を終えたシーラは、学校から初めて招待を受けた日のことを思い返した。
その時、最初に反対したのは母親だった。
「もう十分に話したでしょう。
あの頃のことを、また子供たちの前で?」
母親の声には怒りがあった。
王宮の記録に娘の死を記された日から、二人が取り戻すまでに失った時間は戻らない。
シーラは母親の手を握った。
「全部話すつもりはないの。
私が話していいと思えることだけ話す」
学校側とも事前に約束した。
子供たちの質問に答えない自由があること。
当時の個人記録を無断で配らないこと。
裁判で認定された事実と、今も調査中のことを分けること。
教師は頷き、授業の前に子供たちへ説明した。
「今日は誰かを裁く日ではありません。
資料をどう読むかを考える日です」
教室には王子の肖像画がなかった。
代わりに、年月日の異なる二枚の公文書の写しが掲げられていた。
一枚は病院の閉鎖を命じ、もう一枚は患者の移送を命じている。
子供たちはどちらが先かを考えた。
「後の命令があるなら、前の命令はなくなるの?」
少年が尋ねた。
「そうとは限りません。
どの命令を、誰が取り消したのか確認する必要があります」
教師が答えた。
シーラは胸の奥が少し痛くなった。
自分の死亡記録も、誰かが後から直せば済むものではなかった。
間違った記録を保存し、どうして作られたのか調べる必要があった。
別の日の授業でも、門番の娘は不安を口にした。
「お父さんが命令に従ったら、私も悪い人になるの?」
教師はすぐに答えを与えなかった。
「あなたが何をしたかと、お父さんが何をしたかは別のことだよ」
シーラは自分もそう思うと伝えた。
「でも、大人がしたことを調べなくていいという意味でもないの」
少女は涙を拭き、机の下で拳を握った。
授業が終わると、別の少年が近づいてきた。
「王子を悪く言ったら、王国が嫌いになりませんか」
シーラは窓の外を見た。
そこには洗濯物を干す家が並び、子供たちが走っていた。
「国は王子一人のものじゃないわ。
あなたたちも、そこで暮らす人でしょう」
少年は納得したような、まだ分からないような顔をした。
翌週、学校には匿名の手紙が届いた。
『昔のことを教えれば、また争いになる』
教師たちは授業を取りやめるべきか話し合った。
シーラは教壇に立つ回数を増やすことより、教師たちが続けられる教材を作る方が大切だと考えた。
証拠の出所を確かめる練習。
人の噂を事実として書かない練習。
分からないことを分からないと残す練習。
彼女は母親と一緒に、難しい言葉を子供にも読める言葉へ直した。
母親は最後の頁を見て言った。
「あなたが生きていたことを、今度はちゃんと教えられるのね」
シーラは頷いた。
「私だけじゃない。
消された名前を、もう一度確かめる方法を教えたいの」
シーラは教材の原稿を大切に持ち帰った。
授業のあと、シーラは母親と王都の通りを歩いた。
市場では、子供たちが学校で聞いた話を大人に尋ねていた。
「命令が間違っていたら、誰に言うの?」
店主は困り顔で、隣の役所を指さした。
「昔は言えなかったんだよ」
その言葉に、シーラは足を止めた。
言えなかった時代を、単に臆病だったと責めるのは簡単だ。
だが、相談先がなく、逆らえば家族が罰せられる仕組みの中で、人は簡単に声を上げられない。
彼女は翌日、学校へ原稿を持参し、教材の最後に相談先の一覧を加えた。
匿名で知らせる窓口、記録の誤りを申し立てる場所、子供が安心して話せる担当者。
母親はそれを見て言った。
「昔の私にも、これがあればよかった」
シーラは答えた。
「だから今の子たちには残すの」
歴史の授業が、ようやく明日のための授業になった気がした。
正しい答えを一つ書けば終わる質問ではなかった。
だからこそ、大人が逃げずに考え続けなければならない。
翌週、冊子を受け取った生徒の一人がシーラに言った。
「もし間違った記録を見つけたら、僕も相談していいんだね」
「もちろん。
自分だけで調べようとせず、先生や記録の担当者に相談してね。
原本と訂正記録を一緒に確かめてもらいましょう。
記録に疑問を持ったからといって、あなたが悪いわけじゃない」
少年は冊子を鞄にしまった。
過去を教える意味が、シーラにはその仕草だけで伝わった。




