第百十四話 王国で最も貧しい村に、医師が来た
王国北部のラウ村には、診療所がなかった。
最寄りの病院までは徒歩で山道を二日かかり、冬は吹雪で通行できない日も多かった。
共同医療学校での課程と医師資格を取得したばかりのレオンは、村へ赴任することになった。
「若い先生で大丈夫なのか」
村長の最初の言葉は、それだった。
レオンも同じ不安を抱えていた。
病院には先輩がいた。
ここには診察台すらない。
彼は村長に尋ねた。
「今まで、具合が悪くなった人はどうしていましたか」
村人たちは互いに顔を見合わせた。
薬草を煎じる者、隣村まで運ぶ者、ただ待つ者。
そして、間に合わなかった者。
村長は最後の話だけ口にしなかった。
レオンは空き家を借り、診療所の準備を始めた。
最初に作ったのは立派な薬棚ではなく、搬送が必要な患者をどこへ送るかという連絡表だった。
秋のうちに、村の若者たちと道の危険箇所を調べた。
村の女性が尋ねた。
「先生は何でも治せるの?」
「いいえ。
治せない病気もあります。
だから、ここで診られることと、外へ運ぶべきことを決めます」
正直な返事に、女性は少し驚いた。
最初の患者は、長く咳をしている少年だった。
レオンは診察し、他の子への感染を防ぐための注意を説明した。
必要な検査が村ではできないと分かり、搬送を相談した。
だが父親は首を振った。
「運ぶ金がない」
レオンは言葉を失った。
医師がいても、道と金がなければ患者は治療へたどり着けない。
彼は村長と話し合い、共同の搬送費を積み立てる案を出した。
出せる家だけが金を出し、出せない家は馬車の整備や道の補修を手伝う。
しかし、それだけでは足りなかった。
レオンは王国の地方医療補助制度へ申請書を送った。
返事は一か月来なかった。
その間、少年の家には村人が交代で食事を運んだ。
レオンは症状を記録し、悪化時の連絡先を父親に渡した。
秋の終わり、山の頂に初雪が降った日に、補助金の承認が届いた。
金額は申請した半分だった。
村長は怒った。
「これでは何もできん」
レオンは首を振った。
「全部はできません。
でも、搬送用の馬を一頭確保できます」
村人たちは相談し、使っていない納屋を診療所の待合室にした。
補助金の承認通知が届いてから数日後の夜、レオンは一軒の家から呼ばれた。
馬は確保できても、悪路に耐える搬送車と付き添いの医療者はまだ手配できていなかった。
産後間もない女性が高い熱を出しているという。
レオンは診察し、ここで対応できる範囲を考えた。
手元には限られた薬しかない。
夜の山道を安全に通れる搬送用の馬車は、まだ手配できていない。
「村に来た医師なら、何とかしてくれ」
夫の声には怒りより恐怖があった。
レオンは言った。
「一人では難しいです。
搬送の準備を手伝ってください」
彼は女性の状態を記録し、遠隔地の病院へ伝令を走らせた。
村長は二頭の馬を出し、村人たちは道のぬかるみへ板を敷いた。
患者を無理に揺らさないよう、休憩地点も決めた。
伝令は中継所で交代しながら山を下った。
レオンは病院からの返答を待つ間も患者の状態を確認し、搬送可能な時点を病院側と相談するよう頼んだ。
レオンは産後の感染症を疑い、病院へ患者の症状と手元の薬を伝え、助言を求めながら可能な処置を続けた。
女性の意識や呼吸、熱の変化を繰り返し確かめ、危険な兆候があれば別の搬送手段を探すよう村長に頼んだ。
中継所から連絡を受けた病院の医療班は、交代の馬を使って山道を進み、翌々日の朝に村へ到着した。
医療班は女性の状態を改めて評価し、搬送に耐えられることを確認してから出発した。
女性は搬送先で治療を受け、数日後に熱が下がった。
だが村へ戻った夫は、レオンに礼を言わなかった。
「もっと近くに病院があれば、こんな思いはしなかった」
レオンはその通りだと思った。
医師が一人来ただけで、村の問題が終わるわけではない。
女性が退院した後、冬の本番に備える会議で、レオンは村の地図を広げた。
雪が積もる道、崩れやすい橋、夜でも灯りを借りられる家。
村人たちが印をつけていく。
「ここは近道だが、凍ると馬が滑る」
「こちらの家には丈夫な橇がある」
「峠の小屋に薪を置けば、吹雪の時に休める」
地図は医師の知識より、村人たちの経験で埋まっていった。
それでも搬送費の積み立てには反対が出た。
「病気にならない家が損をする」
若い農夫が言った。
村長は怒鳴りかけたが、レオンは止めた。
「そう感じる理由を聞かせてください」
農夫の家には、前年の不作で借金が残っていた。
これ以上、現金を出せないのだ。
会議では、現金の代わりに運搬や道の整備を分担できる案が出た。
ただし労働を提供できない高齢者を不利にしないよう、最低限の搬送費は公費で補う必要がある。
レオンは申請書を二度書き直した。
最初の返書には「医師が常駐しているため緊急性は低い」と書かれていた。
レオンは思わず紙を握りつぶした。
医師がいるからこそ、運ばなければ救えない患者が分かるのに。
彼は産後の女性の搬送記録を、本人の同意を得て匿名化し、添付した。
二度目の申請で、ようやく担当官から質問が届いた。
「冬季の搬送予定件数と、代替経路を示してください」
レオンは正確な件数など分からなかった。
それでも過去の記録から見込みを示し、不確かな数字には注記をつけた。
村の少年が地図を見て言った。
「先生、こっちの道は春になると川になるよ」
レオンは赤い印を一つ増やした。
村の子供が教えてくれた道の方が、役所の古い地図より確かだった。
本格的な積雪の前、セレナが巡回に訪れた時、村の待合室には三つの椅子しかなかった。
しかし壁には搬送の連絡先と、夜間に灯りを持つ当番が書かれていた。
レオンは患者を治した数より、助けを呼べる人が増えたことを報告した。
その当番表は、医師だけでなく村人たちの名前で埋まっていた。
村の診療所に最初の冬が来た。
吹雪の日、レオンは患者を診るより先に、連絡表が使えるか確かめた。
伝令に出る予定の若者が熱を出していたため、当番を入れ替える。
橇の縄が傷んでいたので、予備と交換する。
地味な確認ばかりだった。
村長は言った。
「医師が来たというのに、毎日道具の心配をしているな」
「患者が来てから縄を編んでも、間に合いませんから」
レオンは笑った。
その夜、腹痛を訴える子供が運ばれた。
診察の結果、すぐに遠方へ搬送する必要はないと判断され、村で経過を見守った。
母親は何度も礼を言った。
レオンは「明日の朝、もう一度診せてください」と答えた。
何も起きなかった夜にも、確かめる仕事がある。
その夜遅く、雪が強まった。
村長が戸を叩き、隣家の老人が息苦しさを訴えていると知らせた。
レオンは外套を羽織り、診療鞄をつかんだ。
当番の若者は既に橇を点検し、別の村人は峠の中継所へ伝令を出す準備をしていた。
「先生、今度は誰を呼べばいい?」
「まず私が診ます。必要なら連絡表の順番で助けを求めましょう」
村長は頷き、灯りを持って先に立った。
診察の結果、老人は村で治療と観察を受けられる状態だったが、悪化すれば搬送する手順も確かめた。
夜明け前、雪はやんだ。
診療所の扉には、村人が手書きした『ラウ村診療所』の板が掛かっていた。
レオンが赴任した秋にはなかった名前だ。
「立派な看板だな」
村長は照れくさそうに言い、橇の傷んだ縄を指さした。
「ただし、次の吹雪までにこれを替えなきゃならん」
レオンは交換費用を帳面に記した。
救えた一夜だけで満足せず、次の夜にも間に合うようにする。
そのための仕事が、また始まった。




