第百十三話 治癒魔法が効かない患者
王都中央病院に、治癒魔法を三度受けても痛みが消えない老人が紹介されてきた。
老人は元石工で、長年働いた手は節くれ立っていた。
「魔法が効かないなら、もう終わりだ」
彼は寝台の端で呟いた。
若い治癒師はうつむいた。
「私の力が足りないのでしょうか」
診察に来たエドガーは首を振った。
「まず、何が起きているのか調べよう。
魔法が効くかどうかだけでは病気は分からない」
痛む場所、痛みが始まった時期、仕事の内容、眠れる時間。
一つずつ聞くと、老人は十年以上も痛みを我慢していたことが分かった。
エドガーは身体を診察し、必要な検査を指示した。
治癒魔法で損傷が一時的に和らいでも、長年の負担や生活上の問題まで消えるとは限らない。
治療方針は一度の奇跡では決められなかった。
「治らないなら、帰る」
老人は言った。
「仕事もできない。
家族の邪魔になるだけだ」
その言葉を聞いたイーナは、治療記録の余白に書き足した。
『本人は痛みだけでなく、家族の負担を心配している』
診療会議では、薬の調整、負担の少ない動作の指導、休息、家での支援を組み合わせる案が出た。
若い治癒師は納得できない顔をした。
「痛みを全部消せないのに、治療と言えるんですか」
エドガーは答えた。
「全部消せないからこそ、少しでも暮らしを楽にする方法を探すんだ」
老人の娘が病院へ来た。
彼女は父親が働けなくなることより、痛みを隠して一人で転ぶことを恐れていた。
「手伝ってって言ってくれればいいのに」
老人は視線をそらした。
「お前に迷惑をかけたくなかった」
イーナは二人に、家で困る動作を具体的に尋ねた。
階段、薪割り、水汲み。
娘は隣家と協力できる仕事を挙げ、老人は座ってできる道具の修理を思い出した。
入院中、老人の痛みは残っていた。
だが、夜に眠れる時間が少し増え、杖を使って庭まで歩けるようになった。
「まだ痛いぞ」
退院が近づいたある日、老人は若い治癒師に言った。
老人の名はバルトだった。
かつて王都の石橋を造った職人で、完成した橋を今も誇りに思っていた。
「この手で百年もつ橋を造った」
彼は節くれ立った指を見せた。
「なのに、自分の手は百年もたなかったな」
若い治癒師は何も言えなかった。
痛みを消す魔法が得意だった彼は、痛みが残る患者を前にすると、役に立てないような気がした。
エドガーは診察記録を二枚に分けた。
一枚には症状と検査結果。
もう一枚には、患者が何をしたいかを書く。
「橋をもう一つ造りたいですか」
「そんな大仕事は無理だ」
「では、何ができるようになりたいですか」
バルトはしばらく考えた。
「孫に、木の車を作ってやりたい。
だが道具を握ると痛む」
若い治癒師は初めて、治療の目標が一つではないと知った。
診療会議で、彼は思い切って尋ねた。
「治癒魔法で痛みが減った日だけ、作業を増やせばいいのでは?」
エドガーは首を横に振った。
「痛みが減ったことと、負担に耐えられることは同じではない。
無理をすれば別の傷を作る」
看護人は作業を短く区切る案を出した。
道具を握りやすくする工夫は、職人組合に相談することになった。
その一方で、病院の外から反発もあった。
「最高治癒師の学校で教わった医者なのに、痛みも治せないのか」
患者の親戚がそう言ったのだ。
バルトは黙っていたが、翌日、診療を断ろうとした。
「治らないなら、金の無駄だ」
エドガーは費用の内訳を示した。
診察に必要な費用と、継続支援の費用は分けて説明する。
本人が望まない処置を続けることはしない。
「今の方法をやめることもできます。
ただ、その場合の危険と、ほかにできることをお話ししたい」
バルトはゆっくり椅子に座り直した。
「話すだけなら聞く」
娘が来た時、彼は顔を背けた。
娘は仕事を休んで病院へ来たことを責められると思っていた。
だが彼女が言ったのは、別のことだった。
「父さんが転んだ日のこと、私はまだ怖いの」
バルトは初めて、痛みを隠して階段を下りた日を話した。
「心配をかけたくなかった」
「心配させないために、黙って倒れるのはやめて」
親子はそこで言い争いになった。
イーナは仲裁を急がなかった。
どちらも相手を守りたいのに、何を守りたいかが違っていた。
退院前の会議には、職人組合から木工職人が来た。
彼は柄を太くした小刀と、作業台に固定できる留め具を見せた。
「昔の腕には戻らないかもしれない。
でも、今の手でできる形は探せる」
バルトは留め具を触り、笑った。
「職人に説教されるとはな」
「元職人だからこそですよ」
数週間後、病院へ小さな木の車が届いた。
車輪は少し歪んでいた。
バルトは添えた手紙にこう書いた。
『孫はまっすぐ走らないと笑った。
それでも毎日遊んでいる』
若い治癒師はその手紙を治療記録と一緒に保管してよいか尋ねた。
エドガーは患者の許可を得るよう指示した。
記録は医師の勲章ではなく、患者の暮らしの一部だからだ。
その手紙の最後には『昨日よりはましだ』と書かれていた。
病院では、バルトの退院後の暮らしを確認するため、訪問担当者が家を訪ねた。
娘がすべての仕事を抱え込んでいないか、階段に危険はないか、薬を無理なく管理できるか。
診察室では見えなかった困りごとがいくつも見つかった。
「こんなことまで医者の仕事なのか」
バルトは驚いた。
「全部を医師がするわけではありません」
担当者は答えた。
「大工も、ご近所も、ご家族も、それぞれできることがあります」
その言葉に、バルトは少し安心した。
誰か一人に負担をかけることを、彼は何より恐れていたのだ。
翌月、若い治癒師は別の患者に、痛みを十段階で尋ねた。
患者が答えたあと、もう一つ質問を加えた。
「その痛みのせいで、今できなくて困っていることは何ですか」
エドガーは隣の机で、その問いを聞いていた。
教本に書いたことが、ようやく診察室で生き始めていた。
その月の終わり、バルトが孫を連れて病院へやって来た。
孫は小さな木の車を床に置き、指でそっと押した。
車輪が少し曲がっていたため、車は診察台の脚へ向かって斜めに進み、そこで止まった。
「ほら、また曲がった!」
孫が笑うと、バルトも声を立てて笑った。
「次は直してやる。ただし、今日はここまでだ」
彼は小刀をしまい、痛む手を休ませた。
以前のバルトなら、できるまで無理をしていただろう。
若い治癒師が「痛みはどうですか」と尋ねると、バルトは手をさすった。
「まだあるさ。でも、明日また続きを作れる」
孫は車を拾い、祖父の手を引いた。
二人がゆっくり廊下を歩いていくのを、若い治癒師は見送った。




