第百十二話 セレナのいない病院で、少女が命を救った
セレナが休養に入って三日目、ベルナの診療所へ一人の少女が駆け込んだ。
「お父さんが、畑で倒れたの!」
少女の名はミア。
十二歳で、診療所の手洗い教室に通っていた。
リゼは作業を止め、当直医師を呼んだ。
「いつ倒れたの?」
「さっき。息はしてる。でも、起きない」
「一人で運ぼうとしなかったのね」
ミアは頷いた。
以前、学校で教わっていた。
倒れた人を無理に起こさず、大人を呼び、見たことを伝える。
その三つだけは覚えていた。
診療所の医師は搬送班を連れて畑へ向かった。
父親は土の上に横たわり、呼びかけには反応したが、ひどく弱っていた。
医師は呼吸と脈、意識の状態を調べ、暑さと脱水の影響を疑った。
他の病気の可能性もあるため、断定せずに診療所へ運んだ。
「先生がいないのに、大丈夫?」
ミアが尋ねた。
リゼは最初、セレナのことだと思った。
「セレナ先生は休んでいるけれど、ここには別の先生がいるわ」
「違うの。
お父さんを治せる先生のこと」
リゼは少女の肩に触れた。
「今診ている人が、その先生よ」
父親の状態は夜までに落ち着いた。
だが、まだ家へ帰せるわけではなかった。
ミアは寝台のそばで小さく尋ねた。
「私、何もしてないよね」
当直医師は首を振った。
「倒れた時刻と様子を教えてくれた。
だから早く対応できた」
「治癒魔法は使えないよ」
「魔法が使えなくても、命を守る仕事はできる」
ミアは父親の手を握った。
「じゃあ、もっと勉強する」
数日後、父親の容体が安定してから、診療所では子供向けの救護教室が開かれた。
最初の課題は難しい魔法ではなかった。
『危ない場所に近づかない』『大人と医療者を呼ぶ』『見たことを正しく伝える』
リゼは黒板に大きく書いた。
ミアは手を挙げた。
「助けられなかった時は、どうするの?」
教室が静かになった。
リゼは少し考えて答えた。
「助けたいと思った人が、全部の責任を背負わなくていい。
だから、次の人につなぐ方法を学ぶの」
その日の教室で、リゼはミアに事故当日の出来事を振り返ってもらった。
ミアは、あの畑で何が起きたのかを話し始めた。
事故の日、ミアが父親のところへ走った時、畑には作業仲間が三人いた。
一人は父親を担ぎ上げようとし、もう一人は水を口へ流し込もうとしていた。
「待って!」
ミアは叫んだ。
「今、飲めるか分からないよ。
先に先生を呼んで!」
大人たちは顔を見合わせた。
十二歳の少女に止められ、腹を立てた者もいた。
それでもミアが呼吸を確かめ、誰かに診療所へ走るよう頼むと、最年長の農夫が頷いた。
「俺は道を空ける。
お前は日陰を作ってくれ」
ミアは父親の額に手を当てた。
熱い。
呼びかけると、父親はうっすら目を開けた。
「父さん、何時から具合が悪かった?」
「……朝から、少し」
その言葉を忘れないよう、ミアは指で土に線を引いた。
搬送班が到着すると、医師は父親のそばへしゃがんだ。
「娘さんが教えてくれたことを、もう一度確認します」
倒れた時刻、直前にしていた作業、飲んだ水の量。
ミアの答えは完全ではなかった。
見ていないことには「分からない」と言った。
医師はそれを褒めた。
「分からないことを作らずに話してくれるのが、一番助かる」
その日の搬送中、父親が目を閉じるたび、ミアは泣きそうになった。
けれど医師は、少女に観察の責任を押しつけなかった。
「ここからは私たちの仕事だ。
あなたは安全な場所で待っていて」
待合室では、近所の人が次々とミアを褒めた。
「勇敢な子だ」「小さな治癒師だ」
ミアはうつむいた。
父親がまだ苦しんでいるのに、英雄と呼ばれるのは嫌だった。
リゼはその様子を見て、人々に礼を言い、少女を静かな部屋へ案内した。
「怖かったね」
その一言で、ミアは泣き出した。
「私がもっと早く気づけばよかった」
「お父さんが朝から具合が悪かったことを、あなたは知らなかったでしょう」
「でも、娘なのに」
「娘だから、全部分かるわけじゃないわ」
リゼは水を差し出した。
「今は待つことも仕事よ」
ミアはそこで言葉を切った。
父親が事故当日の夕暮れに目を開けた時のことも、まだ鮮明に覚えていた。
彼は娘を見ると、弱々しく笑った。
「畑の仕事、放り出してしまったな」
「もう畑の話はしないで!」
ミアが怒鳴ると、父親は驚いた。
そして、娘の赤い目を見て謝った。
「心配をかけたな」
診療所の記録には、作業中の休憩不足が疑われること、同じ畑の人にも体調不良がないか確かめることが書かれた。
父親一人の不注意で片づけなかった。
翌週、農夫たちは昼の休憩場所を共同で作り、水を運ぶ当番を決めた。
ミアは父親に頼まれ、木札に大きな字を書いた。
『具合が悪い時は、仕事を止めて知らせる』
父親はその札を畑の入口に掛けた。
「お前が作った規則だ」
「違うよ。
みんなで決めたんだよ」
ミアは少し照れて答えた。
救護教室で、子供たちはミアに質問を浴びせた。
「怖くなかった?」「魔法を使ったの?」
ミアは首を振った。
「怖かったし、魔法は使えない。
だから大人を呼んだの」
教室の後ろでは、医師たちがその答えを書き留めていた。
救護教室の終わりに、ミアは黒板の隅へ小さく書き加えた。
『一人で助けようとしない』
子供たちは不思議そうに首を傾げた。
「それじゃ勇敢じゃないよ」
一人の少年が言った。
ミアは少し考えた。
「私は、お父さんを抱えて走れなかった。
でも、走れる大人を呼べたよ」
リゼは頷いた。
「危ない場所に戻らないことも、助ける方法の一つね」
父親が退院を許された日の帰り道、ミアは父親とゆっくり歩いた。
父親はまだ長い距離を歩けず、途中の石垣に腰を下ろした。
「お前が大きくなったら、医者になるのか」
「まだ分からない」
「そうか」
「でも、倒れた人を見つけたら、もう黙っていないよ」
父親は娘の頭を撫でようとしたが、まだ体力が戻らず、手を下ろした。
「お前が来てくれなかったら、俺は具合が悪いことを誰にも伝えられなかった」
ミアは首を振った。
「私だけじゃないよ。
畑のみんなと、お医者さんが助けてくれたんだよ」
父親は娘の目を見て「ありがとう」と言った。
ミアは照れくさそうに前を向いた。
村の入口には、皆で決めた休憩時間の札が風に揺れていた。
退院後の診察でも回復は順調だったが、医師は当面、無理な農作業を避けるよう伝えた。
その週の終わり、診療所からセレナへ届いた報告の最後には、リゼの筆跡で一行あった。
『今回は、セレナ先生の出番はありませんでした』
セレナは笑いながら、その紙を枕元に置いた。
それは、どんな勲章より嬉しい知らせだった。




