第百十一話 最高治癒師が倒れた日
国境共同医療学校の鐘が鳴った翌朝、セレナは執務室で筆を落とした。
拾おうとしたが、指先に力が入らず、言葉も出にくくなった。
「先生?」
書類を届けに来たイーナが足を止めた。
セレナは大丈夫だと言おうとした。
だが、声が出るより早く視界が傾いた。
イーナは彼女を支え、廊下へ向かって叫んだ。
「医師を呼んで! それから、今の時刻を記録して!」
駆けつけたエドガーは、意識と呼吸、手足の動き、発症時刻を確認した。
「原因はまだ分からない。
無理に立たせず、搬送用の寝台を持ってきてくれ。
緊急の診察を始める」
セレナはかすかに首を振った。
「会議が……」
「会議は延期できる。
あなたの体は代わりが利かない」
エドガーの声は厳しかった。
エドガーは脱水や疲労だけと決めつけず、手足の麻痺や言葉の乱れが残っていないか繰り返し調べた。
急に現れた言葉と手足の異常を、単なる疲労と扱うことはできなかった。
エドガーは緊急の検査と専門医への相談を手配し、当直医師には意識や手足の動きに変化があれば直ちに再評価するよう伝えた。
意識は戻り、症状も落ち着いた。
しかし急に起きた神経症状は、一時的に消えたからといって安全とは限らない。
エドガーは血糖や脱水の有無、心臓の状態を調べ、専門医とともに神経症状の経過を確認した。
初日の検査では出血や明らかな損傷を示す所見は見つからなかったが、それだけで一時的な血流障害などの可能性を否定することはできなかった。
「今分かったのは、すぐに説明できる原因が見つからなかったということだけだ」
エドガーはセレナにもイーナにもそう伝え、再発時の連絡方法と追加の検査予定を診療記録に残した。
症状が落ち着いた後も、医療者が交代で言葉と手足の動き、意識の変化を確かめた。
廊下では官吏たちが困り果てていた。
明日、王国と帝国の医療費分担を決める会議がある。
地方診療所への薬の配分も、最高治癒師の確認待ちだった。
「先生が戻るまで、全部止めますか」
若い書記が尋ねた。
イーナは答える前に、壁の規則を見た。
そこにはセレナ自身の署名で、こう書かれていた。
『責任者が不在の場合は、代理者が記録を確認し、定められた範囲で判断する』
「止めません。
代理者を呼んでください」
しかし代理者の欄には、半年前に転任した医師の名前が残っていた。
イーナは顔をしかめた。
制度は作っただけでは動かない。
更新を忘れれば、立派な紙も役に立たない。
彼女はエドガーとアーデリアに連絡し、臨時の権限確認会議を開いた。
薬の緊急補充は各病院の責任者が行い、予算変更は共同委員会の承認を必要とする。
患者の治療判断は現場の医師が担う。
決められることと決められないことを、まず分けた。
夕方、イーナは病室を訪ねた。
セレナは申し訳なさそうに笑った。
「私が倒れたら、こんなに迷惑をかけるのね」
「いいえ。
先生が倒れて初めて、私たちが更新を忘れた欄を見つけました」
イーナは新しい当番表を見せた。
「今度は、先生がいなくても困らないようにします」
セレナはその紙を眺め、しばらく黙っていた。
自分がいなくても動く病院を作ったつもりだった。
けれど、心のどこかで最後の判断は自分が下すものだと思っていた。
「……悔しいわ」
「何がですか」
「私がいなくても動く仕組みを作ったつもりで、肝心の更新を人任せにしていたことよ」
イーナは首を振った。
「見つけた問題を直せるなら、まだ間に合います」
翌朝、共同委員会の会議室には、三つの国境病院から届いた書類が積まれていた。
一枚目は急を要する消毒薬の発注書。
二枚目は新しい医師の採用願。
三枚目には、患者の家族からの苦情が書かれていた。
「この三つ、全部セレナ先生の署名欄があります」
書記が困った顔をした。
イーナは書類を机の中央へ寄せた。
「署名が必要な理由を、一枚ずつ確認しましょう」
消毒薬は規定の在庫量を下回っている。
院長には補充を認める権限がある。
採用願は予算枠を超えるため委員会の承認が要る。
苦情は当事者であるセレナ本人に回す前に、独立した相談窓口が扱うべきだった。
「先生の署名が必要なのは、実は一枚もありません」
書記は呆然とした。
「でも、前からそうしていたので……」
「前から、という理由だけで続けたら、先生を追放した王宮と変わらなくなります」
イーナは言ってから、自分の言葉の強さに驚いた。
その日の午後、地方病院から緊急の連絡が来た。
発熱した患者が増え、隔離区画が満床に近い。
現地の責任者は増床を求めているが、宿直医は職員の疲労を理由に反対していた。
会議室には「患者を断るのか」という声が上がった。
病院の診療をほかの医師へ引き継いだエドガーは、伝令で届いた報告書を読んだ。
「床を増やしても、見守る人がいなければ病床とは呼べない」
イーナは空いている隣町の施設と、移動できる患者の条件を照会させた。
運ぶべきでない患者には現地で必要な人員を回す。
決定まで二時間かかった。
セレナがいれば、もっと早く決まったかもしれない。
しかし二時間のあいだ、誰も判断を放棄しなかった。
翌日、患者の移送が終わったとの報告が届いた。
ただし搬送車の一台は遅れ、予定した薬が不足した。
イーナは成功と書かず、「未解決」と記した。
それを見た若い書記が尋ねた。
「先生に見せる報告なのに、失敗まで書くんですか」
「先生がいない時に隠す失敗なら、先生がいる時にも隠すでしょう」
その夜、セレナは病室で、かつて自分が書いた規則集を読み返していた。
代理者の欄が古いままだったのは、誰か一人の怠慢ではない。
更新を誰が確認するのか、更新されなかった時に誰へ知らせるのか。
そこまで決めていなかった自分にも責任がある。
見舞いに来たアーデリアに、セレナは言った。
「私が戻ったら、署名欄を減らしたいの」
「治癒師の権威を減らすの?」
「違うわ。
患者を待たせる理由を減らすの」
アーデリアは笑い、すぐ真顔になった。
「それなら予算委員会も同じね。
私が倒れても支払いが止まらない仕組みにしなくては」
セレナは窓の外を見た。
医療学校の灯りが一つずつ消えていく。
昔の王宮なら、最高治癒師が倒れたことを秘密にしただろう。
不安を防ぐという名目で、患者には嘘をついたかもしれない。
ここでは職員に必要な範囲で事情が共有され、診療の予定は変わらず掲示されている。
セレナは自分の不調を隠さなかったことを、初めてよかったと思った。
「私がいない日に、みんなが自分で判断している。
それが嬉しいの」
セレナはそう呟いた。
数日後、退院を急ごうとする彼女に、エドガーは一冊の当直簿を渡した。
そこには、彼女が休んでいる間に行われた判断と、その結果が書かれていた。
成功した処置だけではない。
連絡が遅れたこと、薬の数を間違えたこと、患者への説明が足りなかったこと。
「あなたがいなければ何もできないと思っていた人たちが、自分で間違いを見つけている」
セレナは頁をめくった。
最後に、書記の小さな文字があった。
『次回は代理者の名簿を月初めに確認する』
「私が戻ったら、この欄を最初に見るわ」
「退院と職務復帰は別の判断だ。
追加検査と再診で危険を評価し、症状がぶり返さないことを確かめてから、短時間の仕事を試す。
最初から徹夜の会議はさせない」
エドガーが言うと、セレナは不満そうに唇を尖らせた。
その顔を見て、イーナは肩の力を抜いた。
偉大な治癒師にも、患者として守るべき約束がある。
それを誰もが当たり前に守れることを、三人は静かに喜んだ。
イーナは当直簿を閉じて言った。
「では、早く元気になって、その続きを見てください」
発症から一週間後、専門医は再診で症状の再発がないことを確認した。
検査で直ちに治療を要する明らかな異常は認められなかったものの、原因はなお確定していない。
専門医は再発時の緊急受診、追加検査、定期受診を条件に、短時間の書類確認から段階的に復帰する方針を示した。
セレナは診療に直接戻ることを急がず、代理者が判断した記録を読み、必要な質問だけを書き添えた。
「治癒師だからといって、自分の体の診断まで自分で決めてはいけないのね」
「その通りです」とイーナが答えた。
その夜、退院前の病室の外では、当直交代の声が響いた。
誰もセレナの許可を待っていなかった。
彼女は初めて、その音を安心して聞きながら目を閉じた。




