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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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第百九話 小さな診療所の灯り

ベルナの小さな診療所へ戻ると、セレナがかつて使った古い流し台は残っていた。

けれど薬棚の鍵はリゼが持ち、当番表にセレナの名前はない。

「先生がいなくても、毎朝ここを開けられます」

リゼは自慢げに言ったあと、少しだけ不安そうに付け加えた。

「もちろん、困ったら相談します」

リゼの言葉に、セレナは少しだけ寂しくなった。

待合室には若い看護人がいた。

彼はセレナを見るなり緊張して立ち上がったが、すぐに患者の記録を開いた。

「今日の担当は僕です」

セレナは椅子に座り、最後まで説明を聞いた。

処置の順序について考えが違ったものの、患者の状態を確かめると、青年の判断には理由があった。

自分が不在だった時間に、ここでは別の人たちが学び続けていた。

昼にはノアが修理した水桶を運んできた。

「来月、隣町の給水所で働くんだ」

セレナは思わず、ここに残ってほしいと言いかけた。

だが口にしたのは「困ったら連絡してね」

だった。

ノアは笑った。

「先生がそう言ってくれるなら、安心して行ける」

夕方、診療所の外で小さな子が転んだ。

セレナが立ち上がるより早く、若い看護人が出ていき、傷を洗い、家族に注意点を説明した。

必要なときには医師へ相談する手順も知っている。

セレナは戸口で見守るだけだった。

夕刻、通りの向こうから診療所の灯りを眺めた。

窓にはリゼと青年の影が動いている。

自分がいなければ消えてしまうと思っていた灯りが、今は自分の手を離れて続いている。

セレナはそのことを、ようやく誇らしく思えた。

その日の昼過ぎ、リゼがセレナを裏庭へ連れ出した。

古い井戸の脇には、新しい雨よけがついていた。

「前に先生が雨の中で水を汲んでいたから」

とリゼは笑った。

セレナは覚えていなかった。

自分にとっては数え切れない忙しい日の一つでも、残った人たちには直したい不便として記憶されていたのだ。

そこへ若い看護人が駆け込んできた。

待合室で子供が突然倒れたという。

セレナは反射的に走り出しかけたが、リゼが先に指示を出した。

看護人は呼吸と反応を確かめ、医師を呼び、周囲の患者に場所を空けてもらった。

セレナは必要なときだけ手を貸し、処置の主導権を奪わなかった。

子供はほどなく意識を取り戻し、医師の診察を受けた。

原因はまだ分からず、経過観察が必要だった。

母親はセレナに何度も礼を言った。

彼女は首を振り、若い看護人を紹介した。

「最初に気づいて動いたのは、この人です」

青年は赤くなったが、リゼは誇らしげに頷いた。

夕食の席で、セレナは小さな声で打ち明けた。

「私がいなくても大丈夫だと分かると、少し寂しいの」

リゼは驚かずに答えた。

「でも、帰ってきていい場所ではありますよ」

その言葉にセレナは笑った。

必要とされることと、帰る場所があることは同じではない。

その晩、セレナは当番表に自分の名前がないことを思い出した。

明日を任せられる人たちがいる。

その事実が、今は何より心強かった。

翌朝、リゼはセレナに古い診療記録を見せた。

初めてこの町へ来た頃のものだ。

薬の在庫も患者の体温も、ほとんどセレナ一人の筆跡で埋まっていた。

今の帳面には複数の名前が並ぶ。

記録の書き方も統一され、引き継ぎの欄が増えている。

「先生がいない日、最初は怖かったです」

とリゼが言った。

「でも、困ったことを次の人へ伝えるようになったら、少しずつ怖くなくなりました」

セレナは帳面を閉じた。

かつて自分がすべてを抱えていたのは、患者を思う気持ちだけが理由ではなかった。

任せて失敗するのが怖かったのだ。


午後、遠くの村から一人の老人が訪ねてきた。

治癒魔法で治ると思っていた病は、長い療養が必要だと告げられた。

老人は落胆したが、若い看護人は通院の方法と家でできることを丁寧に説明した。

セレナは口を挟みかけ、やめた。

老人が聞き返すと、看護人は嫌な顔をせず説明を繰り返した。

帰り際、老人はセレナに気づいて頭を下げた。

「あなたがいなくても、よくしてもらえました」

セレナは胸が熱くなった。

「それが、いちばん嬉しい言葉です」

診療所の灯りは夕暮れの道を照らしていた。

誰か一人の名声ではなく、明日も開く扉のために燃えていた。

翌朝、セレナは診療所の帳簿に新しい欄を見つけた。

患者が帰宅した後、困ったときの連絡先が書かれている。

リゼは言った。

「先生がいない夜に、何をすればいいか分からなくて始めたんです」

セレナは昔の帳簿を開いた。

自分の字で埋まった頁には、他の誰かが読み取れる引継ぎが少なかった。

助けたい一心で仕事を抱え込んだ結果、誰かが困っていたのだ。

彼女は古い帳面を閉じ、今の当番表を見た。

知らない名前が増えていることが、今日は誇らしかった。

夕方、リゼはセレナを町の小さな集会へ誘った。

診療所を維持するため、住民が寄付する薪の量を話し合うという。

昔ならセレナが足りない分を自分で買っていた。

今は、誰がどれだけ出せるかを皆で決めている。

年老いた木こりが「冬は運べない」

と言うと、若者が運搬を引き受けた。

金を出せない家は、待合室の掃除を申し出た。

セレナはその輪に入ろうとして、リゼに袖を引かれた。

「今日は聞いていてください」

集会の終わり、町の人々は診療所の壁に貼る当番表を作った。

病気の人が多い月は当番を増やし、仕事が忙しい家には無理をさせない。

完璧な計画ではない。

けれど、一人が倒れれば皆が困ることを知っているから、続ける方法を話し合える。

セレナは窓の向こうの灯りを見た。

あの灯りを守るのは、治癒魔法だけではなかった。

出発の日、ノアは旅立ちの荷物を背負って診療所へ立ち寄った。

リゼが水桶を渡すと、彼は慣れた手つきで持ち上げた。

昔は桶一つ運ぶのにも息を切らしていた少年が、今は別の町の水を守りに行く。

セレナは別れの言葉を探し、結局「無理をしないで」

とだけ言った。

ノアは笑った。

「先生もね」

彼が坂道を下っていくと、リゼが診療所の戸口から呼んだ。

「先生、今夜の当番表、見ていきますか」

セレナは首を振った。

「あなたたちに任せるわ」

リゼは少し誇らしげに頷き、戸を閉めずに中へ戻った。

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