第百八話 最高治癒師の称号
王都の式典に招かれたセレナは、最高治癒師の称号に付随する権限と予算の書類を先に求めた。
官吏は戸惑った。
「名誉を授かるのに、まず予算ですか」
セレナは頷いた。
「名誉だけでは薬も包帯も買えません」
かつて王宮を追われたとき、彼女は自分の治癒魔法だけが人を救う手段だと思っていた。
だが病院を支えたのは、患者の呼吸を記録した看護人、清潔な水を運んだ少年、薬を切らさなかった薬師たちだった。
壇上で一人の英雄として称えられることに、違和感があった。
アーデリアは称号を断ってもよいと言った。
セレナは首を振る。
「受け取ります。ただし、この地位を一人の特権にしたくありません」
断れば自分の心は軽くなる。
しかし、それで変えられるはずの規則まで手放したくなかった。
式典で彼女は称号を受け入れ、付随する予算の使途公開と、魔法の有無にかかわらず医療を学べる学校への支援を求めた。
辞退ではない。
地位を、次の世代のために使う選択だった。
来賓の貴族が尋ねた。
「最高治癒師なら、治せない病はないのでしょう」
セレナは答えた。
「治せない病があります。だから、治せない人を置き去りにしない制度が必要です」
拍手は少し遅れたが、看護人イーナは誰より先に頷いた。
式典から数日後、宮廷から肖像画の依頼が来た。
セレナは病院の中庭で描いてもらうことを条件に引き受けた。
絵には彼女だけでなく、包帯を畳む看護人や水桶を運ぶ少年も入った。
題名を尋ねられ、セレナは微笑んだ。
「まだ終わっていない仕事」
称号の授与から一週間後、セレナの机に三つの申請が届いた。
地方の診療所を建てる費用、薬師の養成費、夜勤看護人の手当。
どれも必要だったが、今年使える予算ではすべてを満たせない。
官吏は「最高治癒師の判断なら皆が従います」と言った。
セレナは三つの申請を持って現場へ出た。
地方の村では、診療所の建物よりも、雨季に患者を運ぶ橋が必要だった。
薬師の学校では、教室は空いていても実習を指導できる人が足りない。
病院の夜勤室では、看護人が休む場所もないまま交代を待っていた。
紙の上で見た数字が、それぞれ別の顔を持ち始めた。
会議で彼女は優先順位を示した。
緊急性の高い夜勤体制の改善を先に進め、橋の補修と薬師の指導者確保については、費用と実施時期を再調査する。
村長は納得せず、「また地方が後回しですか」
と声を荒らげた。
セレナは反論せず、現地調査の日付と担当者の名前をその場で決めた。
「必ず建てると約束してくださらないのですか」
「できない約束は、しません」
会議が終わると、イーナはセレナの疲れた顔を見て温かい茶を差し出した。
「称号って、便利な魔法じゃないんですね」
セレナは苦笑した。
「魔法よりずっと、間違えるのが怖い」
その夜、彼女は決定した項目だけでなく、採用しなかった案と理由も公表するよう指示した。
誰か一人の善意に任せないことが、称号を受け取った意味だった。
称号の権限でセレナが最初に求めたのは、新しい宮殿の部屋ではなく監査の日程だった。
看護人の研修費が約束どおり使われているか、半年後に確認する。
貴族の一人は、そんな細事は部下に任せればよいと笑った。
セレナは答えた。
「任せるからこそ、確かめる仕組みが要るのです」
会議を終えた帰り道、彼女は古い薬箱を抱えたイーナと歩いた。
名誉の重さを尋ねられ、セレナは少し考えた。
「一人で背負うには重い。でも、分けて持つなら役に立つかもしれない」
最初の支出監査で、夜勤研修に充てた金が地方の病院へ届いていないと分かった。
横領と決めつける前に調べると、輸送費の科目が古いままで、支払命令が止まっていた。
セレナは担当官を責めるだけでなく、申請が差し戻されたとき現場へ通知が届く仕組みを求めた。
イーナは地方の看護人から届いた手紙を読んだ。
『休める夜が一晩できました』。
その一行を聞いて、セレナはようやく称号の重さを少しだけ喜べた。
式典の翌朝、官吏が新しい執務室へ案内した。
磨かれた机には金の縁取りがあり、壁には彼女の肖像を飾る場所まで用意されていた。
セレナは部屋を見回してから、机の大きさを尋ねた。
「診療所から来る帳簿を全部広げられますか」
官吏は困った顔をした。
称号に付く部屋は、仕事のためというより威厳を示すために作られていたからだ。
セレナは装飾を外すよう求める代わりに、机をもう一台運ばせ、看護人と薬師が同席できる席を用意した。
立派な椅子が一つあるだけでは、誰も反対意見を言えない。
最初の公開会議では、地方から来た薬師が発言をためらった。
「王都の方針に逆らうつもりではありません」
セレナは議事録係に言った。
「逆らう意見も記録してください」
薬師は、輸送に時間がかかる村では同じ薬品を同じ数量だけ配っても期限切れが増えると説明した。
王都の病院で成功した制度を、そのまま地方へ移せない。
会議は在庫の確認周期を地域ごとに変え、期限が近い薬を融通する仕組みを試すことにした。
その帰り、セレナは宮殿の門前で、以前治療した子供の母親に呼び止められた。
母親は深く頭を下げたが、薬代がまだ高いと訴えた。
「称号をもらったのに、すぐには下げられないのですか」
セレナは胸が痛んだ。
それでも、下げられると嘘はつかなかった。
調査の担当者と期限を伝え、母親が相談できる窓口を書いて渡した。
拍手を受けた昨日より、答えを待つ今日のほうが、称号を持つ意味を問われている気がした。
イーナは会議の終わりに、看護人の夜勤表を差し出した。
新しい手当の額は決まったが、休む人の代わりを務める人材はまだ足りない。
セレナは手当の支給だけを成果に数えず、研修を受ける人が休める時間まで確認するよう求めた。
「予算を使ったことと、暮らしが良くなったことは別なのね」
イーナは笑った。
「やっと、いつもの先生らしい言葉が聞けました」
監査の報告には、成果だけでなく遅れた理由も記された。
セレナは署名欄の前で一度筆を止めた。
責任を負うとは、正しい決定をしたと宣言することではない。
間違いが見つかったとき、誰でもそれを指摘できるようにしておくことだ。
セレナは次回の会議日を掲示し、支出記録への質問を病院の職員からも受け付けた。
翌日、最初に届いたのは看護人の短い意見書だった。
『休める人数を、支出額と一緒に公表してください』。
セレナはそれを議題の一番上に置いた。




