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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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第百七話 二つの国の医療条約

二国の医療条約は、最後の一行で止まっていた。

『緊急時は必要に応じて通行を認める』。

曖昧なままでは、救急車が到着するたびに門衛が責任を負うことになる。

アーデリアは文面を指した。

「必要だと判断するのは誰ですか」

王国側の交渉官は、医療隊に紛れた軍の越境を恐れていた。

その懸念を無視すれば、条約は最初の事件で破られるだろう。

セレナは医療者の名簿、搬送車の識別、患者の記録を双方で照合する案を出した。

しかし確認に時間がかかれば、重症患者の命にかかわる。

そこで救命に必要な通行を先に認め、後から共同監督官が記録を確認する例外を設けた。

不正があった場合の調査手順も定める。

善意を信じるだけでは、国境の門は開かない。

調印前夜、イーナが条文を読み直して手を挙げた。

「夜間の連絡先がありません」

大臣たちは顔を見合わせた。

夜の門衛が誰へ知らせるか分からなければ、立派な約束も紙の上だけだ。

当直窓口、代行者、連絡不能時の手順が追記された。

条約の運用訓練では、負傷者役の兵士が国境の門前で倒れた。

門衛は通行証を探して時間を失い、救護員は担架を持ったまま立ち尽くした。

イーナは訓練を中断し、誰が最初に患者を診るかを決め直した。

本人確認は必要だが、呼吸と出血の確認より先にはできない。

翌日の再訓練では、門衛が救護員を呼び、記録係が後から必要事項を追った。

アーデリアは報告書に成功と書かせず、最初の失敗も添付した。

条約が守るべきものは面目ではなく命だった。

調印の翌朝、国境の門前には新しい手順書が掲げられた。

だが王国側の門衛は、まだ旧式の通行証を使っていた。

イーナは双方の責任者を呼び、現場で実際に一枚ずつ書類を交換させた。

王国の兵士は『向こうの印章を知らない』と言い、帝国の兵士は『こちらも同じだ』と答えた。

二人が顔を見合わせて苦笑したところで、ようやく共同の見本帳が作られた。

条約の言葉を互いに理解するまで、何度でも確かめる必要があった。

条約の施行から三日目、国境の救護所へ重傷者を乗せた馬車が到着した。

門衛は通行証を求めかけたが、訓練で習った手順を思い出した。

まず呼吸と出血の状態を確認し、救護員を呼ぶ。

患者を運び込んでから、同行者の名と出発地を記録する。

ところが搬送先の病院は、すでに病床が埋まっていた。

イーナは当直の医師と連絡を取り、受け入れ可能な別の病院を探した。

条約に通行を認める一文があっても、患者を受け止める場所がなければ救命は続かない。

二国の担当者は搬送先の空き状況を毎朝共有することにした。

後日、王国側から抗議が届いた。

記録が後回しになったため、越境者の人数が一時的に合わなかったのだ。

アーデリアは報告を隠さず、救命を優先した理由と事後照合の結果を返した。

王国側の交渉官は、しばらくして短い返書を送ってきた。

『手順の改善を求める。

救命の判断は支持する』。

条約発効から一週間後、二つの国の当直担当者は初めての合同訓練を行った。

言葉の違いで連絡が遅れたため、共通の患者票も作られた。

患者が橋を渡る間、情報だけが国境で止まらないようにするためだった。

条約が動き始めて十日目、国境の救護所に二台の搬送車が同時に着いた。

一台には重い呼吸困難の患者、もう一台には骨折した子供が乗っていた。

受け入れ先の病院には空きが一床しかない。

門衛は規定の順番を守ろうとしたが、イーナが止めた。

「到着順では決められません。医師に状態を確認してもらってください」

国境に待機していた医師は二人を診察し、呼吸困難の患者を先に搬送する判断を下した。

子供には痛みを和らげる処置を行い、別の病院へ連絡した。

母親は涙をこぼしながら「うちの子を後回しにするの」

と詰め寄った。

イーナは目をそらさず、子供の状態と次の搬送先を説明した。

説明を受けても、母親の不安は消えなかった。

翌日の共同会議で、王国側の担当者は空床情報が古かったことを指摘した。

前夜に患者が増えたのに、名簿の更新が朝まで行われていなかったのだ。

アーデリアは責任を相手国へ押しつけず、両国で夜間更新を行う当番を決めた。

十日目の夕方、骨折した子供の母親が救護所へ戻ってきた。

『あのときは、うちの子を見捨てるのかと思った』。

イーナは言い訳をせず、子供の回復を確かめた。

母親は包帯を巻いた小さな腕を見せ、『別の病院へ連絡してくれてありがとう』と頭を下げた。

イーナは首を振った。

『待っている間、怖かったでしょう。

次は、もっと早く状況を伝えられるようにします』。

報告書には搬送時間だけでなく、家族への説明が遅れたことも残した。

共同監督官の会議では、王国側から救護車の事後記録に空欄があると指摘された。

アーデリアは部下をかばって曖昧にせず、患者の処置中に記録係が不足していた事実を認めた。

緊急搬送のあとで必ず照合できるよう、当直者とは別に記録を確認する係を置く。

王国側も夜間の空床情報を更新できなかったことを認め、双方が改善期限を決めた。

疑いを消すのではなく、疑いを調べられる状態を作る。

それがこの条約の強さだった。

調印式の日、王国側の交渉官は署名の前にセレナへ声をかけた。

『私たちはまだ、相手国を完全には信用していない』。

セレナは頷いた。

『私も、条文だけで患者が助かるとは思っていません』。

交渉官は苦笑し、筆を取った。

信頼が完成したから条約を結ぶのではない。

互いの判断を後から検証できる約束があるから、危険な夜にも門を開けられるのだ。

訓練の翌朝、イーナは門衛の当直表を一枚ずつ確かめた。

連絡先を更新したはずなのに、交代勤務の兵士の手元には古い写しが残っていた。

『掲示を直すだけでは足りないんですね』。

イーナは写しの回収と受領の確認を手順に加えた。

セレナはその細かい作業を見ていた。

大きな条約の最後を支えるのは、誰かが忘れずに紙を差し替える仕事だった。

セレナは会議の最後に言った。

「条約があれば、迷わずに済むと思っていました。でも、迷ったときに一緒に考える道具なのですね」

交渉官は苦笑した。

「そのために、これほど長い紙が必要だったわけです」

セレナは返書を読み、ようやく肩の力を抜いた。

条約は互いを無条件に信じる約束ではない。

疑いが生じても、患者を置き去りにせず話し合うための約束なのだ。

橋の上を次の救護車が渡っていく。

今度は門衛が迷わず救護員を呼んだ。

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