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『雨のち晴れ』

毎日、天気予報を見るように自分の心模様をうかがって、それでも無理をして笑わなきゃいけない日がある。

大人になるって、もっと劇的で、スマートで、かっこいいものだと思っていた。けれど現実は、泥臭くて、情けなくて、ため息ばかりついてしまう。思い描いていた「特別な誰か」になれなかった自分に、がっかりすることだって一度や二度じゃない。

それでも私たちは、お気に入りのリップを塗って、少しだけ背筋を伸ばして、今日もドアを開ける。不器用でも、理不尽に振り回されても、自分の足でちゃんと立って歩いている。

この物語は、土砂降りの日常のなかで、自分だけの「晴れ間」を見つけようともがく、あなたに向けた小さなエールです。

さあ、傘を畳んで、新しい空を見上げる準備はできていますか?

 目覚まし時計の無機質な電子音が、薄暗いワンルームに響き渡る。六時三十分。スマートフォンに手を伸ばし、画面をスワイプして音を消す。窓の外からは、アスファルトを打ち据える絶え間ない雨音が聞こえてきた。


「また、雨……」


 ベッドの中で小さく呟き、浮島知香うきしま・ちかは重い身体を寝返らせた。二十九歳。気がつけば、20代も最後の年になっていた。社会人になって七年目。中堅と呼ばれる年齢になり、後輩も増えた。責任だけが重くなり、給料はそれに比例しない。


 無理して買った少し高めのトレンチコートを羽織り、湿気で広がる髪を一つに束ねて駅へ向かう。満員電車の湿った空気と、他人の濡れた傘が足に触れる不快感。押し潰されそうになりながら、知香はスマートフォンの画面を無表情で見つめていた。


 学生時代、自分はもっと特別な何かになれると思っていた。キラキラとしたオフィス街をヒールで鳴らし、大きなプロジェクトを回す。そんなドラマのような未来を夢見ていたはずだった。


 現実はどうだ。中堅の専門商社で営業事務として働く毎日は、ただただ同じことの繰り返しだ。エクセルへのデータ入力、鳴りやまない電話、営業たちの尻拭い。


「浮島さん、この前の請求書の件なんだけどさぁ」


 出社するなり、不機嫌そうな顔をした課長が近づいてきた。


「あ、はい。申し訳ありません、すぐに確認します」

「頼むよ、先方からクレーム来ちゃってるんだから。君ももう新人じゃないんだし」

 

 自分のミスではない。営業担当の入力漏れだ。それでも、ここで反論したところで空気が悪くなるだけだと知っている。知香は条件反射のように頭を下げた。しわ寄せでいつも頭を下げてばかりだ。自分のプライドなんて、とっくの昔にすり減って消えてしまった。


 昼休み、トイレの鏡に映る自分を見る。無理して着ているような、窮屈なオフィスカジュアル。笑顔の作り方は上手くなったけれど、目の奥の光はすっかり濁っている。


「私、何やってるんだろう」


 ため息は、換気扇の音に吸い込まれて消えた。


 金曜日の夜。雨はまだ降り続いている。

 同期の由美と、駅前の安い居酒屋に入った。レモンサワーのジョッキをぶつけ合い、愚痴大会が始まる。


「ほんと、うちの課長って何もわかってない! 私がどれだけフォローしてると思ってるのよ」

「わかるー。知香のところも大変だね。私もさ、もう今の会社辞めようかなって思ってるんだよね」


 由美の言葉に、知香は「ほんと、私も辞めたい」と同調する。けれど、心の中ではわかっているのだ。自分も由美も、明日になればまた同じ満員電車に揺られ、同じデスクに向かうことを。思い切って現状を飛び出す勇気なんて、どこにもない。安酒で現実を誤魔化して、大き口を叩いて、また月曜日を迎えるだけ。そんな自分がたまらなく嫌だった。


 店を出ると、雨脚はさらに強くなっていた。


「じゃあね、また来週」


 由美と別れ、知香はコンビニで買った五百円のビニール傘を広げた。その瞬間、突風が吹き抜け、傘の骨がバキッと無惨に折れ曲がった。


「……嘘でしょ」


 折れた傘は使い物にならず、冷たい雨が容赦なく知香の肩を叩く。コートも、せっかくセットした髪も、すべてが台無しになる。


 街灯の下、水たまりに映る自分の姿を見た。なんて情けないんだろう。仕事も、プライベートも、中途半端。特別な才能なんてない。ただ歳を重ねて、無難に生きるためだけに自分をすり減らしている。


「もう、いいや……」


 ぽつりとこぼれた言葉は、雨音にかき消された。泣きたいのか、怒りたいのか、それすらもわからない。ただ、目の前がずっと土砂降りのまま、永遠に晴れないような気がした。


 ふと、イヤホンからシャッフル再生で流れてきた曲のイントロが耳に届いた。高校時代、擦り切れるほど聴いたあのバンドの曲。

 軽快なリズムに乗せて、少し情けない、けれどどこか温かい歌声が響く。


 ――いつの間にやら、自分もこんな歳になって。

 ――カッコ悪い毎日だけど、それでも。


 知香は立ち止まり、夜空を見上げた。顔に雨粒が落ちてくる。


 そうだ。誰の人生も、きっとこんなものだ。ドラマの主人公みたいに劇的な逆転劇なんて起きない。毎日同じ失敗をして、頭を下げて、ため息をついて。それでも、みんな必死に「普通」をやり過ごしている。


「イメージはいつでも、雨のち晴れ……か」


 濡れた顔を拭い、知香は深く息を吸い込んだ。不思議と、先ほどまでの胸のつかえが少しだけ軽くなっていた。


 スーパーマンにはなれない。才能に溢れた誰かにもなれない。でも、別にそれでいいじゃないか。泥臭くても、格好悪くても、私は私の毎日を回している。請求書のミスを直せるのも、落ち込んだ同期を励ませるのも、今の私だからできることだ。


 壊れたビニール傘をゴミ箱に捨て、知香は雨の中を歩き出した。ずぶ濡れになりながらも、その足取りは先ほどよりも少しだけ力強い。


 翌朝。


 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んできた。目を覚まして窓を開けると、昨日の豪雨が嘘のように、抜けるような青空が広がっていた。雨に洗われた街は、どこかキラキラと輝いて見える。


 知香はクローゼットを開け、ずっと着るのをためらっていた、少し明るいイエローのブラウスを手に取った。これなら、窮屈な自分の殻を少しだけ破れるかもしれない。


 月曜日が来れば、また嫌な上司に怒られるかもしれない。満員電車でため息をつくかもしれない。でも、心の中の天気予報くらいは、自分で決めてもいいだろう。


 鏡の前で、不器用な笑顔を作ってみる。昨日よりは、少しだけマシな顔をしている気がした。


「よし、行こう」


 ドアを開け、知香は新しい一日へと歩き出した。


 どんなに土砂降りの日があっても、いつかは必ず空は晴れる。その当たり前で、何よりも強い希望を胸に抱いて。


【終】

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

主人公の知香は、決して無敵のヒロインではありません。失敗もするし、愚痴もこぼすし、安いお酒で現実逃避だってしてしまいます。けれど、そんな自分の「格好悪さ」を丸ごと受け入れて、ほんの少しだけ視線を上げたとき、彼女の目の前に広がる景色は確かに変わりました。

誰もが皆、スーパーマンにはなれません。でも、自分自身の人生という舞台では、いつだって私たちが主役です。完璧じゃなくても、毎日同じことで悩んでいても、立ち止まらなければ確実に前へ進んでいけます。

雨に濡れることを恐れず、水たまりを飛び越えるようなあの頃の軽やかさで。明日もまた、あなたらしいステップで歩いていけますように。

どんなに長い雨が続いたとしても、私たちのイメージはいつでも「雨のち晴れ」なのですから。

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