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『蜘蛛の糸』

誰かを愛することは、本来、光に満ちた幸福な営みであるはずだ。


けれど、この世界には、触れた瞬間から指先を深く切り裂くような、残酷で鋭い恋がある。

それは一本の、銀色に光る細い糸。


握りしめれば手のひらから血が流れ、痛みに耐えかねて手を離せば、孤独という名の真っ暗な底へ落ちていく。


最初から終わりが決まっていると分かっていた。


自分が選ばれることは永遠にないと、痛いほど理解していた。


それでも、彼が気まぐれに垂らすその一本の糸に、縋り付かずにはいられなかった。


これは、決して誰からも祝福されることのない、愚かで、痛ましくて、どうしようもなく純粋な執着の記録。


どうか、彼女が静かに流し続ける「見えない血」の温もりを、少しだけあなたの心で受け止めてほしい。

第一章:暗闇の震え


深夜二時。雨の音が窓ガラスを不規則に叩く部屋で、河北弥生は天井の隅を見つめていた。


そこには、いつから居座っているのか、小さな蜘蛛が一匹、精巧な幾何学模様の巣を張っていた。外灯の僅かな光が差し込むと、細い糸が銀色に鈍く光る。ふと、その巣の中心が微かに震えた。獲物が掛かったわけではない。ただ、隙間風が糸を揺らしただけだ。


その震えと呼応するように、枕元のスマートフォンが短い振動を立てた。


画面に浮かび上がったのは、「真司」という二文字だけ。メッセージの内容は表示されない設定にしている。弥生の心臓が、ひやりとした感覚とともに大きく跳ねた。


『起きてる?』


画面を開くと、たった四文字の問いかけがあった。


「……起きているわけ、ないじゃない」


独り言は、自分でも驚くほど甘く、そして情けない声だった。既読をつけるか、つけないか。返信をするか、朝まで放置するか。数秒の間に無数の選択肢が頭を駆け巡るが、弥生の指はすでに「起きてるよ。どうしたの?」と打ち込んでいた。


彼と繋がる線は、いつだってこの頼りない電波だけだ。


細くて、見えなくて、いつプツリと切られてもおかしくない糸。それに縋り付いているのは、間違いなく自分の方だった。


河北弥生、二十八歳。中堅の出版社で装丁のディレクションを担当している。職業柄、ミリ単位のズレや色の微細な違いにはひどく敏感で、完璧主義だと周りからは評価されていた。自らの人生もそうやって、はみ出すことなく、美しく整えて生きてきたつもりだった。彼に出会うまでは。


真司は、フリーランスのカメラマンだった。そして、左手の薬手指には、弥生が決して触れてはいけない冷たい金属の輪が光っている。


『今から、少しだけ会えないかな。近くまで来てる』


そのメッセージを見た瞬間、弥生はベッドから跳ね起きていた。理性を司る頭の片隅で、警報が鳴り響いている。行ってはいけない。これ以上、あの引力に近づいては駄目だ。しかし、身体はすでにクローゼットを開け、雨に濡れてもいい暗い色のコートを選び出していた。


悲しいくらいに、惹かれている。

彼が糸を引けば、私はどんなに足掻いても、その糸をたぐり寄せて彼の元へ堕ちていく。


第二章:鋭利な糸


指定されたのは、弥生のマンションから歩いて十分ほどの場所にある、深夜まで開いているコインランドリーだった。雨宿りをするにはちょうどいい、蛍光灯の白々しい光が満ちた無機質な空間。


ガラス扉を開けると、乾燥機の低く重い回転音の向こうに、真司が座っていた。濡れた前髪を無造作に掻き上げながら、缶コーヒーを握っている。


「ごめん、こんな時間に」


真司が顔を上げ、柔らかく笑った。その笑顔を見るだけで、弥生の胸の奥にチクリとした痛みが走る。


「ううん。ちょうど、デザインの構成で行き詰まってて、起きてたから」


嘘だった。本当は彼の連絡を、浅い眠りの中でずっと待っていた。


「そっか。よかった」


彼はそれ以上踏み込んでこない。真司はいつもそうだ。弥生の領域に土足で踏み入ることは決してしない。それが彼の優しさであり、同時に、これ以上は二人の関係を進めないという残酷な境界線でもあった。


隣のプラスチック製のベンチに腰を下ろす。二人の間には、握りこぶし一つ分の隙間があった。


「雨、冷たかったでしょう」

「少しね。でも、弥生の顔を見たら寒さ忘れたよ」


そういう、何の気なしに吐き出される甘い言葉が、弥生の心を鋭く切り裂く。


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出す。地獄の底で蠢くカンダタの元に垂らされた、一本の細い糸。あれは救いの象徴として描かれているが、弥生にとっては違う。


真司の言葉、不意の誘い、微かな体温。それらはすべて、弥生にとっての蜘蛛の糸だった。だがその糸は、ただ細くて脆いだけではない。ガラスの破片を繋ぎ合わせたように、ひどく尖っているのだ。


強く握りしめれば手のひらから血が流れ、痛みに耐えかねて手を離せば、孤独という名前の暗い底へ真っ逆さまに落ちていく。


「……真司さん」

「ん?」

「今日、奥さんは?」


言ってはいけない言葉だった。それを口にした瞬間、魔法が解けることは分かっていた。案の定、真司の肩が微かに強張り、握っていた缶コーヒーの表面を親指でこする仕草を見せた。


「……実家に帰ってる。少し、喧嘩して」

「そう」

「ごめん、弥生にこんな話」


謝らないでほしい。謝られると、自分がひどく惨めな存在に思えるから。ただの暇つぶし、心の隙間を埋めるための都合の良い存在。頭では理解しているのに、真司がふと見せる寂しそうな横顔から、どうしても目を逸らすことができない。


彼はそっと手を伸ばし、ベンチに置かれた弥生の手に自分の手を重ねた。


冷たい手だった。その温度が、指先から弥生の全身へと浸透していく。この冷たさすらも愛おしいと思ってしまう自分が、心底恐ろしかった。


第三章:手放す決意


それから二週間、真司からの連絡は途絶えた。


妻との仲が修復したのか、それとも仕事が忙しいのか。弥生から連絡を入れることは暗黙のルールで禁じられている。


その間、弥生は狂ったように仕事に打ち込んだ。装丁のミリ単位のズレを修正し、フォントのカーニングに異常なまでの執着を見せた。そうやって目に見える世界を完全にコントロールすることで、自分の内側にある「真司」というコントロール不可能な感情を抑え込もうとしていた。


金曜日の夜。完成した見本誌を抱え、オフィスを出たところで、見慣れたシルエットが街灯の下に立っているのが見えた。

真司だった。


「弥生」


名前を呼ばれた瞬間、足の力が抜けそうになった。二週間分の空白が一瞬で埋まり、またあの甘い毒が全身を巡り始める。だが、弥生はコートのポケットの中で両手を固く握りしめた。


今日こそ、終わらせなければならない。

この鋭い糸を、自分の手で断ち切らなければ。


「……真司さん。もう、こういうのやめましょう」


震える声で、ようやくそれだけを口にした。真司は驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと伏せ目がちになった。


「私が、真司さんの何なのか、もう分からないんです。連絡が来ない間、ずっと携帯を見て、一喜一憂して。自分がどんどん嫌な人間になっていくみたいで……」


言葉が後から後から溢れてくる。装丁のように、人生の余白も綺麗に整えたい。こんな不格好で、いびつで、血の滲むような関係は、もう私の人生にはふさわしくない。


真司は反論しなかった。言い訳もしなかった。ただ、深く息を吐き、ポケットから手を出して、弥生の頬にそっと触れた。


「……ごめん。君を、傷つけてるって分かってたのに。手放せなかった」


その手は、やっぱり冷たかった。そして、泣き出しそうなほど悲しい目をしていた。

ずるい、と弥生は思った。


なぜそんな顔をするのか。なぜそんな風に、痛みを共有しているような声で泣くのか。

彼が「分かった」と背を向けてくれれば、この糸は切れたのに。彼が強引に引き止めてくれれば、彼を恨んで糸を断ち切れたのに。


「悲しいくらいに……惹かれてるんだ、弥生に」


ポツリとこぼれ落ちた真司の言葉が、決定的な一撃だった。


第四章:奈落へ


頬に触れる彼の手のひらに、弥生は自分の手を重ねた。


決意も、理性も、すべてが音を立てて崩れ去っていく。


私が握りしめているこの蜘蛛の糸は、天上へ続くものではない。地獄へ向かって伸びているのだと、弥生ははっきりと理解した。この糸の先にあるのは、決して結ばれることのない未来と、誰かを傷つけているという終わらない罪悪感だけだ。


それでも。


彼が引くその細く尖った糸の痛みが、今の弥生にとって、生きていることを実感できる唯一の感覚だった。


「……痛いよ、真司さん」

「うん」

「いつか、切れて落ちるかもしれない」

「……僕が、離さないよ」


それは無責任な嘘だ。彼はいざとなれば、自分の家庭という安全な場所に逃げ込むだろう。弥生もそれを分かっている。分かっていて、それでも彼に抱きついた。雨上がり、アスファルトと彼のコロンの匂いが混ざり合う。


部屋に戻ると、あの天井の隅の蜘蛛の巣は、風で半分千切れかけていた。


弥生はそれを見上げながら、自分自身の姿を重ねる。いつ崩壊してもおかしくない、脆い世界の中で、それでも必死に糸を紡ぎ続ける愚かな生き物。


スマートフォンが光る。


『今日はありがとう。また、連絡する』


その画面を見つめながら、弥生はゆっくりと目を閉じた。


両手には、目に見えない鋭利な糸が深く食い込んでいる。手のひらから流れる血の温かさだけが、彼女がこの悲しい恋に落ち続けていることの、唯一の証明だった。

河北弥生は、最後まで「正しい道」を選ぶことができませんでした。


自分の人生を美しく整えることを諦め、自らの手を血まみれにしながら、それでも「彼」という細くて冷たい糸にしがみつくことを選びました。


いつか必ずブツリと切れる日が来る。その時、自分は真っ逆さまに暗闇へと墜落するのだと知りながら。


彼女を愚かだと笑うことは、とても簡単です。

けれど、その孤独な奈落の底でしか呼吸できないほどに、彼という存在の引力に囚われてしまった彼女を、私はどうしても責めることができません。


愛してはいけない人を愛してしまった時、人はこんなにも無防備に、そして悲しいほどに壊れていってしまうのでしょうか。


彼がつく優しい嘘の温度に抱かれながら、彼女は今日も、切れる寸前の糸を強く握りしめているはずです。


読み終えていただいたあなたの心に、彼女の絶望的な祈りと、癒えることのない痛みが、ほんの少しでも寄り添い続けることを願って。

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