4-3
ミシェルは大通りの人混みをかき分け、人生で初めて出すような全速力で家路につく。足に跳ね上げられたスカートの裾がはしたなく翻るが、構うものか。
ミシェルはもう、「お嬢様」なんかではないのだ。
大通りから少し内に入った街区に建つアパルトマン。裏口から建物に入り、螺旋階段を延々と上った七階。同形のドアが並ぶ細い通路の、その一番奥。鍵穴に鍵をさし込んだところで――すでに鍵が開いていることに気がついた。
「……っ!」
立て付けの悪いドアを、ミシェルは部屋に転がり込むように押し開ける。
果たしてそこには、
「――おかえり、ミミ」
「だからミシェル……じゃなくてっ!」
耳に飛び込んできた聞き慣れた愛称に反射的に突っ込みを返してから、ミシェルはようやくそのやりとりの意味を理解した。
「……リュシアン、さん」
窓際に置かれたテーブルと、二脚の椅子。
その一方に、いつかと同じように青年――リュシアンの姿があった。
「足、ついてますよね……?」
「こんなに長いんだけど、見えない?」
リュシアンが投げ出した長い足を、これ見よがしに組み直す。その光景が未だに信じられずにミシェルは立ち尽くした。
リュシアンはこちらに歩み寄ってくると、ミシェルの腕からくしゃくしゃになった新聞を引き抜く。その紙面をしばらくしかめっ面で眺めやってから、やがて観念したようにミシェルの顔を見た。
「……ええと?」
「怪盗リュミエールが、死んだって」
リュシアンは一瞬きょとんと両目を瞬かせ、それから不意に吹き出した。
「なーんだ、まだ気づいてないのか」
「ま、まだ気づいてない、って、どういうことです? だって新聞には、怪盗リュミエールは、あの警部にナイフで胸を刺されたって……」
「ああ、刺されたのは俺じゃなくて、これ」
そう言ってリュシアンはテーブルの下から何やら大きなものを引きずり出す。
「ひっ……」
それは、一体の人形だった。
人形と言っても子供が抱くような可愛らしいものではなく、単純に人の形になるように古布をはぎ合わせ、中に詰め物をしただけの粗末なものだ。ただその大きさは体格の良い成人男性と同じくらいあり、頭にはシルクハットを思わせる出っ張りが、首元から背中にかけては長い黒の外套――この間コランタンにダメにされた、例の外套だ――が取り付けられている。
今回の犯行に当たってミシェルがリュシアンに頼まれて作ったものの一つだが、その人形の中心、人の身体で言えばちょうど心臓に当たる部分に、ざっくりと銀のナイフが刺さっている。
リュシアンがそれを引っこ抜くと、中に詰めた羽毛がパラパラとこぼれ落ちてきた。
「お針子としてあの店に潜入した時、ちょっと無理を言って、あの倉庫部屋の真上にある屋根裏部屋に個室をもらったんだ。それで昨日の夜、警部たちのいる倉庫部屋に行く前に、こいつをその部屋の窓に挟めて置いた」
リュシアンは右手で細い投げナイフを弄びながら、左手で人形の首元に絡まっているテグスを引っ張り、人形を釣り上げる。
「で、目当ての品を手に入れたら、後は窓から逃げ出すと見せかけた瞬間に上から垂れてきているこのテグスを引いて、屋根裏部屋から人形を落とす。同時に俺が棚の影に転がり込めば、仕掛けは完了だ」
リュシアンがテグスから手を離すと、人形は支えを失って自由落下する。
「昨日は満月だっただろ? あの窓からはちょうど月の光が差し込むから、その光を受けたものは、部屋の中からは全て逆光に見えるはずだ。そうなると、実際は上の階から落ちてきてきただけの人形を、窓から飛び降りた人間に見間違えさせることだってできる。あの警部――コランタンって言ったっけ、あいつが投げナイフを投げたのは、ちょうどその時だった」
リュシアンは、今度は投げナイフから手を離す。空間を滑り落ちたナイフはまっすぐ、先に床に落ちていた人形の胸に突き刺さり、人形からは内容物である羽毛がいくばくか撒き散らされた。
「あいつ、本当は俺を殺すつもりなんかなかったんだろうな。なのにど真ん中にぶち当たっちまって、訝しげな顔してたよ。――まあ、そのおかげで俺は逃げやすくなったんだけどさ。本当は警備の警察官たちの目をかいくぐって建物から脱出してこなきゃいけないところを、ペイラード警部が自分の手柄を誇示するために人員を全部外に集めちまった。おかげで俺は楽にトンズラ出来たわけで。なんつうか、致命的に采配が下手だよね、あの人」
そうやってざっくりと解説を終えると、リュシアンは急に場面が切り替わったようにぱあっと明るく笑った。
「でもさ、これも、あと女に化けたのだってそうだけど、本当はちょっと無理あるかなー、って思ってたんだ。でも結局、こうやってちゃんと騙されてくれるんだから、やっぱミミの作るものって、最高だ」
そう言って、へらへらと肩をすくめて見せるリュシアン。
「…………」
「……ミミ?」
ミシェルは顔を覗き込んでくるその顔に、
「……リュシアンさんの、バカ! 考えなし! 自信過剰! 着道楽! ナルシスト!」
元来「お嬢様」であった自分の語彙を総動員させて、考えつく限りの罵声を浴びせた。
――両の眼から、堪えきれず涙を流しながら。
「本当に、死んじゃったと思ったじゃないですか! リュシアンさんがいなくなったらわたし……また……ひとりぼっちに……」
続く言葉は嗚咽に飲み込まれる。
ミシェルには泣く権利なんかない。それは分かっていた。それに、家族が死んで、ただ一人この世に遺されたときからずっと、もう少女のように泣いてはいられないと覚悟を決めて生きてきたはずなのだ。
なのに、拭っても拭っても次々と涙はこぼれ落ちてくる。
「……心配、したんですよ」
やっとの事でそれだけ絞り出すと、リュシアンはさすがに真顔になった。
「――ミミ」
「ひゃっ!?」
それから唐突に、ミシェルの身体をそっと胸に抱き寄せる。頭がさっと真っ白になり、反射的に振りほどこうとするが、
「ごめんな、心配かけて」
「……いえ」
耳元で囁かれたその声が、今まで聞いたことのないような真面目なものだったので、ミシェルは観念してリュシアンのシャツに頬をうずめた。
鼻先にミシェルが長らく忘れていた生き物の温かさと、ミシェルがかつて知らなかった男の人の匂いがする。
不思議と涙は、それで止まった。
「……俺さ、昔、舞台を見たことがあるんだ」
リュシアンがミシェルを抱きかかえたまま、ぽつりとそんなことを言った。ミシェルはリュシアンの腕の中で顔を上げる。
「舞台、ですか?」
「うんまあ、うんとガキの頃のことだから、どこの劇場のどんな演目だったとかはわからないし、その後妙に豪勢な酒盛りをやったのは覚えてるから、恐らくその劇場で舞台に夢中になった客から荷物やら宝石やらを頂戴していた時のことなんだろうけど」
「ちょ、頂戴……」
「まあ、それはそれとして。とにかくそんなんだから、ちゃんと話筋を覚えてるわけじゃないんだけどさ。でも、その舞台に立っていた主人公の姿だけは、何でかよく覚えてるんだ」
リュシアンがふと、視線を遠くに投げた。
その視線の先にあるのはおそらく、かつて少年だったリュシアンが見ていた景色だ。
「多分、一番盛り上がる場面だったんだろうな。主人公が恋人の手を引いて、二人の結婚を反対する奴らから逃げ出す場面。大きな舞台の真ん中で眩しい光を一身に浴びて、観客全員の視線を集めながら、綺麗な衣装で、胸を張って舞台を踏み鳴らす姿がすげえ格好良く見えて――俺はずっと、あんな風になりたかったんだ」
リュシアンの視線が、今に戻ってくる。その翠の瞳が見つめるのは――ミシェルの姿。
「でも、ミミと出会って、それが叶った気がするんだ。――だから、ありがとうな、ミミ」
そう言って、子どものように屈託なく笑った。
ミシェルはその笑顔が見ていられなくて目を伏せる。
リュシアンの言っている主人公が出てくる舞台に、ミシェルは覚えがあった。有名な題目だから、いろんな劇場で数多く公演されている。
この物語が悲恋もので、リュシアンが憧れたという主人公が、最後に恋人役の婚約者にナイフで刺されて死んでしまうことを、リュシアンは知っているのだろうか。
ミシェルはもう一度、リュシアンの顔を見上げて言う。
「リュシアンさん、あなたが怪盗リュミエールにこだわる気持ち、それでもやっぱりわたしにはよくわからないです」
「そっか」
ミシェルの言葉に、リュシアンは少しさみしそうな顔をした。
ミシェルはそんなリュシアンに向かってきっぱりと宣言する。
「でも、いいんです。あなたが怪盗リュミエールでいたいなら、わたしも覚悟を決めました」
コランタンが少々強引ながらも、でも確かにミシェルのことを思って差し出してくれた手をああやってはたき落としてしまったということは、ミシェルはもう本当に、「お嬢様」にも、普通の女の子にも戻れやしないのだ。
でも、それでよかった。
「だってわたしは、怪盗リュミエールのお針子ですから」
「ミミ……!」
神の啓示に打たれたような顔をして、一層強く抱き寄せようとするリュシアンを、
「ミシェル」
ミシェルはすげなく突き離した。
両腕で空気を書き抱いて不服そうに唇を尖らせるリュシアンに、ミシェルは真面目な顔をして言った。
「でもその代わり、約束してください。――絶対に、死なないって。わたしの大切だった人たちみたいに、わたしを一人遺して、死なないって」
ミシェルの言葉に、リュシアンは形の良い眉の間に深い皺を寄せて見せる。
「怪我くらいは、どうしても……」
「怪我もダメです」
「あー、擦り傷でも?」
「ダメです」
「……厳しいなあ」
「リュシアンさん」
ミシェルがやや語気を強めて名前を呼ぶと、リュシアンは分かってるよ、というように肩をすくめた。
それからあの、見るものの心を一瞬で奪ってしまうような魅力的な笑顔を浮かべ、
「俺が死ぬわけないだろ? だって、俺のいない世界なんて、つまらない」
何のてらいも照れも躊躇いもなく、そんなことを言ってのけた。
「それなら、いいんです」
ある種力強いリュシアンの言葉だが、それでもやっぱりミシェルの胸には例の黒いもやもやが湧き出してくる。
この人といる限り、きっとこの黒いもやもやが晴れることはないのだろう。
けれど、人をかけがいなく想うということは、きっとそういうことだ。
ミシェルはつくづく思い知る。
リュシアンという人間は、ミシェルの人生において、できれば関わり合いにならずに生きて行きたかった種類の人だ。
それでも――
わたしは、この人と生きていきたい。
「そうだ、ミミ、おかえりなさいのキスは?」
リュシアンが思い出したように到底真顔で言えないようなことを真顔で言い、ミシェルは、
「…………」
「…………いいの?」
「冗談でしたか?」
「冗談じゃないよ」
心底嬉しそうに笑ったリュシアンが求めるように広げた両腕に、素直に身を委ねた。
今度こそ一層強くミシェルを抱きしめると、
「ただいま、ミミ」
「……おかえりなさい、リュシアンさん」
怪盗は、愛しいお針子の唇を奪った。(了)