氷の姫は完璧な作戦を譲りたくない
放課後の王立学園。
西日が差し込む空き教室で、ルナティア・フォン・エーデルシュタインは黒板の前に立っていた。
その手には白いチョーク。背後には、学園競技祭の模擬戦場を模した地形図と、五人の配置を示す細かな線が描き込まれている。
「――以上が、私の考えた基本的な制圧手順ですわ」
涼やかな声が、静かな教室に響いた。
黒板には、拠点の位置、進軍経路、氷魔法による遮蔽物の配置、敵が左右どちらから攻めてきた場合にも対応できる予備の陣形まで、事細かに書き込まれていた。
まだ対戦相手は決まっていないため、使用しているのは学園から配布された標準的な模擬戦場の地形図だ。
もちろん、本番では相手の戦力に応じた調整が必要になる。
それでも、この短時間で組み上げた作戦としては、驚くほど完成度が高かった。
黒板を見つめる四人の生徒は、しばらく言葉を失っていた。
「……すごい」
最初に口を開いたのは、ノエルだった。
琥珀色の瞳を輝かせ、黒板へ一歩近づく。
「拠点の位置だけじゃなくて、相手が使いそうな魔法の射線まで考えてあるんですね。ここの氷壁を斜めに置いているのも、攻撃を防ぎながら進むためですか?」
「ええ。正面から受け止めるより、斜めに逸らす方が魔力の消耗を抑えられますの」
「なるほど……。ルナティア様、これを一人で考えたんですか?」
(…………っ!!)
ルナティアの胸の奥で、天使たちが一斉にラッパを吹き鳴らした。
褒められた。
ノエル様に。
自分の作戦を。
しかも、あんなに目を輝かせて。
(……あああああ! ありがとうございます、ノエル様ァァァ!!)
そうですとも!
私が考えましたとも!
昨夜は入浴中も夕食中も、寝台に入ってからも、ずっとあなた様と一緒に戦う方法ばかり考えておりましたの!
おかげで睡眠時間は少々削られましたけれど、何の問題もありません。
(……もっと! もっと褒めてくださいませ!)
あと三回。
いえ、五回。
できれば一生分。
あなた様が望むなら、私は王国中の軍事書を読み漁ってでも、最高の作戦を考案してみせますわ!
ルナティアの内心では、すでにノエルに抱きつき、そのまま教壇の上で祝賀の舞を披露する準備が整っていた。
けれど、現実の彼女は違う。
白いチョークを静かに置き、銀色の髪を肩から払う。
そして、控えめな微笑みを浮かべた。
「……過分なお褒めの言葉、光栄ですわ。皆様の安全と、確実な勝利を第一に考えましたの」
実に謙虚な返答だった。
さすがは氷の姫。
その美貌と知性に驕ることなく、仲間の安全まで気遣うとは。
もし内心を覗ける者がいたなら、彼女の頭の中でノエルとの優勝記念肖像画がすでに完成していることに驚いただろう。
しかも、その肖像画には、なぜか婚礼衣装が描かれていた。
(……ふふ)
優勝記念なのだから、少しくらい華やかな装いでも問題ないはずだ。
……たぶん。
ルナティアが内心で満足していると、机に広げられた資料を眺めていたリーゼが、ゆっくりと手を挙げた。
「ねえ、ルナティア様。ちょっといい?」
「……ええ。何でしょう?」
「この作戦、すごいと思うんだけど……」
リーゼは立ち上がり、黒板の一角を指さした。
「私たち三人、ほとんど後ろにいるだけじゃない?」
「…………」
ルナティアは、静かに瞬きをした。
黒板には五つの駒が描かれている。
そのうち二つは、敵陣を鋭く切り裂くように進軍していた。
ルナティア。
そして、ノエル。
一方、残る三つの駒は自陣付近に配置され、それぞれ『後方防衛』『予備戦力』『拠点維持』と記されている。
何ということでしょう。
偶然にも、ノエルとルナティアの二人だけが、前線で華々しく活躍する作戦になっていたのである。
……もちろん、偶然ではない。
「ええ。敵の前衛は私の氷魔法で分断し、ノエル様がその隙を突いて拠点へ進みます。皆様には自陣の防衛をお願いするのが、最も安全かつ効率的ですわ」
ルナティアは、何の疑問も抱かずに答えた。
実際、理屈は通っている。
彼女の氷魔法は、学園の新入生の中でも突出した威力と精度を持つ。
競技規則に従って出力を制限したとしても、局所的な氷壁の形成や進路妨害なら、十分な効果を発揮できる。
そこへ剣術に優れたノエルが切り込めば、敵拠点の制圧も難しくないだろう。
しかも、競技中にノエルと二人で行動できる。
(……完璧ですわね)
何度考えても、完璧だ。
むしろ、どこに問題があるというのか。
「でもさ」
リーゼは、なおも黒板を見つめていた。
「それだと、ルナティア様が動けなくなったときに困らない?」
(…………)
「例えば、相手が氷魔法への対策を持っていたらどうするの? それに、私の風魔法ならノエル君の動きを助けられると思うし、できれば前の方でも戦いたいんだけど」
剣術が得意なラウルも頷いた。
「俺も同じ意見だな。せっかく出るんだから、後ろで待ってるだけじゃつまらねえよ」
「僕も少し気になりました」
エリクが、控えめに口を挟む。
「自陣を守るのは大切です。でも、この配置だと、ルナティア様たちが敵の集中攻撃を受けても、僕たちの援護が間に合わないと思います」
(…………は?)
ルナティアの頭の中で、先ほどまで祝福のラッパを吹いていた天使たちが、まとめて消し飛んだ。
(……あ?)
何を。
今。
おっしゃいましたの?
(……おい、待てやコラ)
ノエル様が。
たった今。
私の作戦を褒めてくださったでしょうが。
その素晴らしい記念すべき瞬間に、何を水を差してくれておりますの!?
(……誰に向かって文句垂れとるんじゃァァァ!!)
ルナティアの脳内治安が、一瞬にして崩壊した。
(……後ろで待つのがつまらない!?)
結構なことではありませんの!
退屈なら本でも持ってきなさい!
紅茶だって用意して差し上げます!
(……前に出たいですって!?)
危ないでしょうがァァァ!!
怪我でもしたらどうするつもりですの!
あなた方が前に出たら、その分だけ私がノエル様と二人きりで戦う時間が――。
(…………)
……減るではないか。
それは困る。
非常に困る。
もはや作戦の根幹に関わる重大問題だった。
(……というか、そもそも何で五人も必要なんじゃァァァ!!)
王立学園の規則を作ったのは誰だ。
今すぐ責任者を呼んできてほしい。
自分とノエルだけなら、こんな揉め事など起こらなかったというのに!
もちろん、そんなことを言い出せば、学園競技祭そのものが成立しなくなる。
しかし、ルナティアにとって競技祭の意義とは、現時点ではノエルと一緒に過ごすことなのだ。
それ以外の事情など、二の次である。
(……ああ、もう!)
いっそ三人を氷の椅子に座らせて、動かないようにしてしまおうか。
いや、それでは競技規則に反する。
それに、本人たちの意思を無視している。
神の枷だって、さすがに黙ってはいないだろう。
(……では、何とかして本人たちが自発的に後方待機を希望するように……)
そこまで考え、ルナティアは気づいた。
今の自分は、どうやって仲間を説得するかではなく、どうすれば邪魔な三人を後ろに追いやれるかばかり考えている。
(……いや、でも)
前線が危険なのは事実だ。
ノエルと自分の方が、現時点では連携しやすいのも事実。
(……つまり、私の作戦は合理的ですわ!)
ルナティアは内心で胸を張った。
自分の欲望と合理性が一致している。
こんなに素晴らしいことが、ほかにあるだろうか。
ところが。
「……うん。僕も、リーゼたちの言うことはもっともだと思う」
その声を聞いた瞬間、ルナティアの思考が止まった。
(…………え?)
ノエルだった。
彼は真剣な表情で黒板を眺め、作戦の一部分を指さしている。
「ルナティア様の作戦は、すごくよくできています。僕には思いつかないことばかりです」
(……ええ)
そうでしょうとも。
ありがとうございます。
もっとおっしゃってくださいませ。
「でも、この配置だと、ルナティア様に頼りすぎてしまうと思うんです」
(…………)
……はい?
「もしルナティア様が別の拠点へ移動しなきゃいけなくなったら、僕一人じゃ攻撃を続けられないかもしれません。逆に、僕が足止めされたら、ルナティア様に無理をさせることになります」
ノエルは、ほかの三人を見回した。
「せっかく五人で出るんだから、みんなの得意なことを使えた方がいいと思うんです」
そして、もう一度ルナティアへ向き直る。
「ルナティア様。もう少し、みんなで動ける作戦にできませんか?」
(…………)
ルナティアの胸に、鋭い痛みが走った。
否定された。
ノエルに。
あれほど褒めてくださったのに。
(……うそ)
いや、違う。
彼は作戦が悪いと言っているわけではない。
ただ、五人で動けるようにしてほしいと頼んでいるだけだ。
それは理解できる。
理解できるのだが。
(……でも!)
私とノエル様の、完璧な二人舞台が!
どうして三人も追加しなければならないのですの!?
(……ああ、もう! 五人組って本当に面倒くさいですわね!!)
ルナティアは、表情を変えないまま黒板を見つめた。
そこには、自分とノエルが連携して敵の拠点へ進む、実に美しい作戦が描かれている。
昨夜、何度も考え直したものだ。
彼の剣術。
自分の氷魔法。
互いの死角を補いながら、敵の防衛線を突破する。
そして、背中合わせに敵を迎え撃つ。
(……背中合わせ)
ああ。
何という素敵な響きだろう。
彼の背中が、自分の背中に触れる。
互いに振り返らずとも、相手の動きが分かる。
呼吸を合わせ、信頼し合い、二人だけの連携で勝利を掴む。
(……最高ではありませんこと?)
これを捨てろと?
そんなの、嫌に決まっている。
絶対に嫌だ。
何があっても嫌だ。
(……ですが)
ルナティアは、ふとノエルの横顔を見た。
彼は黒板を眺めながら、リーゼやラウルたちと真剣に話し合っている。
どうすれば五人の長所を生かせるか。
どの配置なら、全員が動きやすいか。
そんなことを、一生懸命に考えていた。
(…………)
ああ。
そうだった。
ノエルは、皆と一緒に競技祭を楽しみたいのだ。
友人たちを置き去りにして、自分と二人だけで勝ちたいわけではない。
そんな当たり前のことに、今さら気づいた。
(……まったく)
何ということでしょう。
自分が勝手に理想の二人舞台を作り上げ、彼まで同じことを望んでいると思い込んでいたらしい。
(……悔しい)
心底、悔しい。
できれば、ノエルには自分だけを見ていてほしい。
競技祭も、勉強も、放課後も。
何もかも、二人だけで分かち合えたらよいのに。
けれど、彼が四人の仲間と一緒に戦いたいと望んでいるのなら。
(……仕方ありませんわね)
ルナティアは、静かに息を吐いた。
……仕方ない。
本当に。
とても、とても不本意だけれど。
(……ええい、もう! 分かりましたわよ!!)
五人で勝てばよいのだろう。
だったら、勝って差し上げようではないか。
ただし。
(……ノエル様との連携だけは、絶対に譲りませんからね!!)
その一点だけは、何があっても守り抜く。
ルナティアは、ゆっくりとチョークを手に取った。
「……皆様のご意見、もっともですわ」
四人が、顔を上げた。
彼女は黒板へ向き直る。
「確かに、この配置は私とノエル様の連携を重視しすぎておりました。ほかの方々の長所を、十分に生かせておりませんでしたわね」
「い、いや、そこまで悪いってわけじゃ……」
ラウルが慌てて口を挟む。
「分かっていますわ」
ルナティアは穏やかに微笑んだ。
「だからこそ、よりよい作戦にいたしましょう」
(……ええ、やってやりますとも!)
五人全員が満足する作戦。
それでいて、自分とノエルの連携も完璧。
そんなもの、不可能だとでも思っているのか。
(……舐めないでいただきたいですわね!)
私はエーデルシュタイン伯爵家の令嬢。
氷の姫と呼ばれる魔法使い。
そして、ノエル様を世界で一番愛している女ですのよ!
この程度の難題、解決できなくてどうしますの!
ルナティアは黒板消しを手に取り、最初の陣形の一部を消した。
……ただし、ノエルと自分の駒が並んでいる部分だけは、最後まで残しておいた。
そこは、絶対に譲れない。
彼女にも、譲れないものがあるのだ。
「まず、ラウル様には前衛へ出ていただきます」
ルナティアが説明を始めた。
「ノエル様とは別の経路から進み、敵の注意を分散させてくださいませ」
「おっ、俺も前に出ていいのか!」
「もちろんですわ。剣術に自信がおありなのでしょう?」
「任せろ!」
ラウルが嬉しそうに拳を握る。
「リーゼ様には、風魔法での牽制と索敵をお願いいたします。敵の進行方向を把握できれば、私の氷壁も必要な場所へ絞れますから」
「なるほど! それなら私にもできそう!」
リーゼが身を乗り出した。
「エリク様は、自陣の防衛を基本にしながら、前衛への支援もお願いいたします。防御魔法があれば、私の氷壁だけに頼らずに済みますわ」
「……分かりました。それなら、敵の進路に合わせて位置を変えられそうですね」
エリクも納得したように頷く。
五つの駒が、黒板の上で動き始めた。
最初は二つの駒だけが大きく進み、残り三つが後方に留まる作戦だった。
しかし、今度は違う。
前衛が二方向から進み、中衛が敵の動きを制限し、後衛が拠点を守りながら全体を支援する。
ルナティアの氷魔法は、そのすべてをつなぐ役割を担う。
単純な力押しではない。
五人が互いの得意分野を生かし、必要に応じて役割を入れ替えられる陣形だった。
「……これならば、いかがでしょう?」
ルナティアが振り返る。
リーゼが、ぱっと顔を明るくした。
「すごい! さっきよりずっと動きやすそう!」
「いいじゃん! これなら俺も活躍できるな!」
ラウルも嬉しそうだ。
エリクは黒板を見つめ、慎重に頷いた。
「……これなら、防衛と支援を両立できそうです。敵の動きに合わせた変更もしやすいと思います」
そしてノエルが、ルナティアを見つめた。
「ありがとうございます、ルナティア様!」
(…………っ!)
「すごいですね。みんなの意見を聞いて、こんなに早く作り直せるなんて」
(……あああああ!!)
また褒められた。
しかも今度は、先ほどより嬉しそうな顔で。
(……好き! 大好きですわァァァ!!)
何という素晴らしい笑顔だろう。
ああ、もう。
そんな顔をされてしまったら。
(……作り直してよかったですわ!!)
数分前まで、絶対に譲るものかと思っていた作戦だった。
それが今では、書き直した自分を褒めてほしくて仕方がない。
実に現金な女である。
もっとも、本人にはその自覚がほとんどなかった。
「……皆様のご意見があってこそですわ」
ルナティアは、あくまで謙虚に微笑んだ。
(……ええ! もっと感謝していただいて構いませんことよ!)
「私一人では、ここまで考えが及びませんでした」
(……まあ、本当は考えられましたけれど! 考えなかっただけですけれど!!)
「力を合わせれば、よりよい結果が得られそうですわね」
(……そして何より、ノエル様が喜んでくださる!!)
完璧な外面。
相変わらずどうしようもない内面。
その落差は、今日も少しも縮まる気配がなかった。
*
作戦会議が一段落したところで、ノエルが黒板の一角を指さした。
「ルナティア様、ここなんですけど」
「……はい?」
「この右翼の挟撃、僕とルナティア様で合わせるんですよね?」
(…………っ!)
来た。
ついに来た。
ルナティアは、内心で拳を握りしめた。
(……ええ、そうですとも!)
そこです!
そこなのです!!
そのために、私はあらゆる知恵を振り絞ったのですわ!!
黒板の右側には、ノエルとルナティアの駒が並ぶように描かれていた。
敵が中央の拠点へ攻め込んできた際、ルナティアが局所的な氷壁を作って進路を絞り、ノエルがその隙間を抜けて反撃に転じる。
その後、敵の動きに合わせて二人の位置を入れ替え、背中合わせになることで互いの死角を補う。
競技規則にも適合し、戦術的にも十分な意味がある。
それでいて。
二人の距離が、非常に近い。
(……ふふ)
完璧だ。
やはり、自分は天才かもしれない。
「ただ、ここの切り替え、結構難しそうですね」
ノエルが少し首を傾げた。
「氷壁ができるタイミングに合わせて僕が動かないと、逆に進路を塞いでしまいそうです」
「……その点は、ご心配には及びませんわ」
ルナティアは、優雅に微笑んだ。
「ノエル様の足運びや剣の軌道を見ながら、私が術式の発動を調整いたします」
「そんなことまでできるんですか?」
「ええ。多少の練習は必要ですけれど」
(……多少?)
いいえ。
何百回でも練習しますとも。
あなた様の歩幅を覚え、足音を覚え、剣を振るう癖まで、隅から隅まで覚えてみせますわ。
呼吸を合わせる?
上等です。
何でしたら、まばたきのタイミングまで合わせて差し上げますわよ!
(……うふふ)
そして、いつか。
競技祭が終わっても、自然と歩調が合うようになったら。
街を歩くときも、庭園を散歩するときも。
彼が半歩近づいただけで、こちらも自然に寄り添えるようになったら。
(……ああああ! 素敵すぎますわァァァ!!)
「……ルナティア様?」
「……はい?」
ノエルの声に、ルナティアは意識を戻した。
「すみません。何だか、すごく真剣な顔をされていたので」
「……少し、連携の手順を考えておりましたの」
「なるほど。やっぱり、頼りになりますね」
(…………っ!)
ノエルが笑った。
ルナティアは、微笑み返した。
「……お任せくださいませ」
その言葉に、嘘はない。
少なくとも、この連携だけは誰にも負けるつもりがなかった。
(……ええ、絶対に)
絶対に、成功させてみせる。
そして試合が終わったら。
ノエルは、きっとこう言うのだ。
『ありがとう、ルナティア。君のおかげで勝てたよ』
そのとき、自分はどう答えよう。
『いいえ、あなた。これからもずっとおそばにおりますわ』
(……あなた!?)
ああ。
何ということ。
競技祭の作戦会議をしていたはずなのに、またしても夫婦になってしまった。
どうやら、ルナティアの頭の中では、何をしていても最終的に結婚へ行き着くらしい。
恐ろしいほど一直線な恋心だった。
*
会議が終わる頃には、窓の外が茜色に染まり始めていた。
五人は黒板の内容をそれぞれ書き写し、翌日から始める連携練習について確認した。
「いやあ、助かったぜ。正直、最初はどうなるかと思ったけどさ」
ラウルが、伸びをしながら言った。
「これなら、結構いいところまでいけるんじゃないか?」
「うん。まずは明日、実際に動いてみないとね」
リーゼが頷く。
「ルナティア様、今日はありがとうございました!」
「……いいえ。こちらこそ」
ルナティアは丁寧に頭を下げた。
リーゼは少し驚いたように瞬きをする。
それから、嬉しそうに笑った。
「なんか、ルナティア様って思ってたよりずっと話しやすい人なんだね」
(…………)
は?
何ですの、突然。
「私、最初はちょっと怖い人なのかなって思ってたんだけど」
(……ほう?)
「でも、ちゃんとみんなの意見も聞いてくれるし、すごく頼りになるし」
(……へえ?)
「一緒の組になれてよかった!」
(…………)
ルナティアは、静かにリーゼを見つめた。
……何だろう。
この女。
いや、この方。
つい先ほどまで、ノエルの隣に立っているだけで腹立たしかった相手だ。
できることなら、ノエルとの距離をもう少し取っていただきたい。
できれば三歩。
いや、五歩。
……もう少し離れていただいても、一向に構わない。
しかし。
今の言葉には、悪意がなかった。
自分と一緒の組になれてよかったと、心から喜んでくれているらしい。
(……ふん)
まあ。
見る目はあるようですわね。
ルナティアは、心の中で小さく胸を張った。
(……もっとも、ノエル様の隣を譲るつもりは一切ございませんけれど!)
それとこれとは、別問題である。
「……私も、皆様とご一緒できて嬉しく思いますわ」
彼女が穏やかに答えると、リーゼはますます嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日からよろしくね!」
「……ええ。よろしくお願いいたします」
そのやり取りを見ていたノエルが、少しほっとしたように微笑んだ。
「よかった。みんな、仲良くなれそうですね」
(……っ!)
ルナティアの心臓が跳ねる。
ああ。
また、その笑顔だ。
何という優しい人なのだろう。
自分がリーゼと話しているのを見て、嬉しそうにしている。
(……まったく)
仕方のない方ですわね。
そんなに嬉しそうな顔をされてしまったら。
(……少しくらいは、仲良くして差し上げてもよくてよ!)
ただし。
リーゼがノエルの肩に触れたり、あまりにも親しげに顔を寄せたりしたら、話は別である。
そのときは、そのときだ。
ルナティアは、そっと微笑んだ。
何とも心の広い伯爵令嬢だった。
……本人の基準では。
*
帰りの回廊を、五人は並んで歩いていた。
窓から差し込む夕日が石畳を橙色に染め、長い影が足元に伸びている。
ラウルとリーゼは明日の練習について賑やかに話し、エリクはその内容を聞きながら、時折慎重な意見を挟んでいた。
ノエルも楽しそうに笑っている。
ルナティアは、少し後ろからその横顔を眺めていた。
(……本当に)
楽しそうな方。
昨日までは、自分以外の人と笑っている姿を見るだけで、胸の奥がざわついたものだった。
いや、今だってざわつく。
できれば、その笑顔はすべて自分だけに向けてほしい。
それはもう、切実に。
けれど、今日は少し違った。
同じ組の仲間として、彼らと一緒に歩いている。
ノエルが笑えば、ほかの三人も笑う。
そして、ときどきこちらにも話しかけてくれる。
(……悪くは、ありませんわね)
本当に、悪くない。
もちろん、二人きりの方が何百倍も素晴らしいことに変わりはない。
そこは譲れない。
絶対に。
しかし、こうして五人で過ごす時間も、思っていたほど退屈ではなかった。
「ルナティア様」
ノエルが振り返った。
「……はい?」
「明日からの練習、楽しみですね」
柔らかな笑顔。
それだけで、胸の奥が甘く疼いた。
「……ええ」
ルナティアは、静かに微笑んだ。
「とても、楽しみですわ」
その言葉には、何の偽りもなかった。
明日から。
ノエルと一緒に。
練習できる。
しかも、背中合わせで戦うための特別な連携まである。
(……ふふ)
楽しみすぎる。
今夜は、きっと眠れない。
いや、眠っている場合ではない。
さっそく伯爵邸へ戻り、練習しなければ。
ノエルと背中合わせになる場面を、何百回でも想定して。
氷壁の形成。
発動速度。
相手の剣の軌道。
足運び。
呼吸。
あらゆる可能性を考えておくのだ。
(……そうですわ!)
庭園に模擬戦場を作ってしまおう。
ちょうど薔薇園の隣に、広い芝生の区画がある。
あそこを使えば、十分な訓練ができるはずだ。
何なら、実際に敵役を務める人員を雇ってもよい。
護衛たちに協力してもらえば、かなり実戦的な練習ができるだろう。
(……完璧ですわね!)
ついでに、ノエル様の背丈と同じ木製の人形を用意してもらえば、背中合わせの距離感も確認できる。
いや、待って。
人形では体温が分からない。
背中合わせになったとき、どれほど近くに彼がいるのか。
それを知るには、やはり実際に――。
(…………)
ルナティアは、ふと足を止めかけた。
(……あら?)
今、自分は何を考えていたのだろう。
いや、もちろん、練習の話だ。
競技祭のための。
非常に真面目な。
純粋な訓練である。
(……ええ。何もおかしくありませんわ)
そう。
何も。
……ただ、背中合わせになるだけなのだから。
(……っ!)
駄目だ。
想像しただけで、頬が熱くなってきた。
ルナティアは、そっと片手を頬へ添えた。
その様子に気づいたノエルが、不思議そうに首を傾げる。
「ルナティア様、どうかしました?」
「……いいえ」
彼女は、いつもの涼やかな微笑みを浮かべた。
「明日の練習に向けて、少し考え事をしておりましたの」
「さすがですね。僕も帰ったら剣の練習をしておこうかな」
(…………っ!!)
ノエル様も、練習を!?
つまり、今夜は同じ目的のために、それぞれの家で努力するということ?
(……ああああ! 何という素晴らしい共同作業!!)
離れていても、心は一つ。
同じ目標へ向かい、互いに努力する。
(……もう、これって夫婦では!?)
いや、違う。
まだ違う。
しかし、いつかは。
(……ふふ)
ルナティアは、そっと笑みを深めた。
「……では、お互い頑張りましょうね、ノエル様」
「はい!」
彼が嬉しそうに頷く。
その笑顔を見た瞬間、ルナティアの胸の奥で、またしても祝砲が打ち上がった。
(……好きィィィ!!)
どうしようもなく、好き。
ああ、もう。
明日が待ち遠しい。
ルナティアは、優雅な足取りで回廊を歩き続けた。
背筋はまっすぐ。
表情は涼やか。
どこから見ても、気品あふれる氷の姫そのものだった。
ただし、その頭の中では、すでに伯爵邸の庭園を利用した大規模な訓練計画が進行している。
しかも、ノエルと背中合わせになるための練習だけが、ほかの項目の三倍の時間を割り当てられていた。
……もっとも。
そんな無茶な計画を侍女や庭師へ告げたとき、どのような顔をされるかまでは、まだ考えていなかったのだけれど。
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