氷の姫は、「様」が邪魔で仕方ない
昨夜、ルナティアがようやく寝台に入ったのは、日付が変わってから随分と経った頃だった。
原因は、机の上に積み上がった何枚もの便箋である。
『ノエル様に名前で呼んでいただくための方法』
そんな題目を掲げて始まった彼女の研究は、夜が更けるにつれて、いよいよ深刻な様相を呈していた。
第一案から第五案までは、まだよかった。
素直にお願いする。自然な会話の流れで切り出す。ノエルだけに特別な許可を与える。
どれも実行できるかどうかは別として、少なくとも常識の範囲に収まっている。
問題は、その次だった。
『第六案。ノエル様に私の名前を呼んでいただくまで、二人きりの部屋から出られない状況を作る』
そこまで書いたところで、ルナティアは羽ペンを止めた。
そして、しばらく自分の書いた文章を見つめた。
(……あら?)
一見すると、悪くないようにも思える。
二人きりなら、ほかの生徒の目を気にする必要もない。名前を呼んでいただくまでは扉を開けず、呼んでいただいたらすぐに退出できる。
ほんの少しの我慢で済むのだから、ノエルもきっと――。
(……って、何を考えておりますの、私は!)
ルナティアは、思わず椅子から立ち上がった。
駄目だ。
どう考えても駄目だった。
それはお願いではない。名前を呼ぶことを強要しているだけではないか。
しかも、相手が自分の望むことをするまで帰さないなど、前世で彼を追い詰めた頃と、何も変わっていない。
(……違うのよ。そうではなくて)
ただ、名前で呼んでいただきたいだけなのだ。
優しい声で、ルナティア、と。
できれば何度でも。
朝も昼も夜も。
できることなら、毎日。
一生。
(……ああ、もう!)
考えれば考えるほど、欲しいものが増えていく。
ルナティアは便箋を丸め、暖炉の火へ放り込んだ。
紙の端が赤く染まり、文字が黒く縮れていく。
この案は却下だ。
そもそも、神の枷がある以上、相手の自由を奪うような行動など許されないだろう。
……もっとも、許されたからといって実行してよいわけではないのだが。
そんな当たり前のことを何度も自分に言い聞かせ、ようやく寝台へ入った頃には、窓の外がわずかに白み始めていた。
そして翌朝。
エーデルシュタイン伯爵家の令嬢は、当然のように寝不足だった。
「お嬢様、少々お顔の色が……」
「……問題ないわ」
朝の身支度を手伝う侍女へ、ルナティアは涼やかに答えた。
「昨夜、少し難しいことを考えていただけよ」
「まあ。魔法のご研究ですか?」
「……それに近いものね」
厳密には、まったく違う。
けれど、これほど頭を悩ませたのだから、研究と呼んでも差し支えない気がした。
侍女は鏡越しに主人を見つめ、少しだけ首を傾げた。
「ですが、どうぞご無理はなさいませんよう。お嬢様ほど聡明な方でも、休息は必要でございますから」
「……ええ。ありがとう」
ルナティアは静かに微笑んだ。
まさかその聡明な頭脳が、好きな人に名前で呼んでもらう方法を一晩かけても見つけられなかったとは、口が裂けても言えない。
(……今日こそ)
鏡の中の自分を、じっと見つめる。
銀色の髪は綺麗に整えられ、蒼い瞳にも、普段と変わらない落ち着きが戻っていた。
大丈夫。
今日こそは、きちんと伝える。
本当は名前で呼んでほしかったのだと。
ただ、それだけのことだ。
(……たった、それだけ)
そう。
たった、それだけのことなのだから。
……どうして昨夜は、そのために結婚式の日取りまで考えてしまったのだろう。
ルナティアは、そっと目を伏せた。
その疑問にだけは、答えを出さないことにした。
*
王立学園の教室は、今日も朝から賑やかだった。
窓からは柔らかな日差しが入り、開け放たれた扉の向こうでは、廊下を行き交う生徒たちの声が聞こえている。
ルナティアが教室へ足を踏み入れると、いつものように数人の生徒が会釈をしてきた。
「おはようございます、エーデルシュタイン様」
「……おはようございます」
彼女は穏やかに応じながら、視線を窓際へ向けた。
今日も、ノエルはそこにいた。
栗色の髪に、琥珀色の瞳。
昨日も、一昨日も、そうだったように。
机に教本を広げ、誰かと楽しそうに話している。
(……今日も、いらっしゃる)
その姿を見つけただけで、胸の奥に残っていた不安が少し和らいだ。
けれど、次の瞬間。
(…………あら?)
ルナティアの目が、わずかに細くなった。
ノエルの机の横には、一人の女子生徒が立っていた。
昨日、昼休みに彼へ術式の課題を尋ねていた少女だ。
「ああ、ここは魔力結晶の純度を計算に入れないと駄目なんだ」
「なるほど。だから昨日の式だと数値が合わなかったのね」
「うん。こっちの項を先に整理すると、分かりやすいと思うよ」
「ありがとう、ノエル君!」
女子生徒が、明るく笑った。
ノエルも笑い返す。
ルナティアは、ゆっくりと自分の席に着いた。
鞄を置き、教本を取り出す。
そして、静かに最初のページを開いた。
どこから見ても、普段どおりの氷の姫である。
(……ノエル君)
昨日に続いて、今日も。
実に親しげな呼び方だった。
ノエルも、まったく嫌がっていない。
むしろ、楽しそうに話している。
(……そう)
ルナティアは、教本の端をそっと押さえた。
別に、構わない。
ノエルが誰と親しくするかは、彼自身が決めることだ。
友人が増えるのは、よいことだろう。
彼は優しく、誰にでも分け隔てなく接する青年なのだから、自然と人が集まるのも当然だ。
分かっている。
十分、理解している。
(……ですが)
どうして、あの少女なのだろう。
昨日も話していたのに、今日も。
しかも、何という近さか。
課題を見るためだろうけれど、二人の肩はほとんど触れ合いそうではないか。
あの距離なら、きっとノエルの声もよく聞こえる。
少し顔を上げれば、あの琥珀色の瞳がすぐ近くにある。
(……羨ましい)
胸の奥から、じわじわと熱いものが湧き上がってきた。
いや、羨ましいなどという、生易しいものではない。
あの場所に立っているのが自分だったら。
あの少女が見ている笑顔を、自分だけが見られたら。
もっと言えば、ノエルの隣に座る権利が、最初から自分に与えられていたら。
(……ああ、そうだわ)
ふと、思いついた。
あの女子生徒は、どこの家の出身なのだろう。
貴族の令嬢だろうか。それとも裕福な商家の娘だろうか。
どちらでも構わない。
エーデルシュタイン伯爵家の伝手を使えば、きっと素晴らしい縁談を探せるはずだ。
例えば、北方の豊かな領地を継ぐ若い騎士。
容姿端麗、誠実で、領民からの信頼も厚い。
あるいは、南方の港町で交易を営む大商人の跡取りでもよい。
資産が豊かで、妻を大切にする男性なら申し分ない。
相手の家にも利益があり、本人も幸せになれる。
必要なら、伯爵家から婚礼の祝いを贈ってもよいだろう。
もちろん、嫁ぎ先は王都から遠いほど望ましい。
馬車で数日……いや、一週間はかかる場所がよい。
そうすれば、簡単には学園へ顔を出せない。
ノエルの隣にいる機会もなくなる。
(……あら)
素晴らしいではないか。
あの少女は幸せな結婚生活を送り、相手の家も喜び、ノエルの周囲から親しげな女子生徒が一人いなくなる。
誰も損をしない。
実に合理的で、平和的な解決策だった。
(……ふふ)
思わず、口元が緩みかけた。
しかし、そこでルナティアは、ふと疑問を覚えた。
そもそも、あの少女に結婚する意思はあるのだろうか。
(…………)
知らない。
名前さえ知らないのだから、当然だ。
では、もし本人が嫌だと言ったら?
(……それは)
伯爵家が後押しすれば、話をまとめることくらいはできるかもしれない。
しかし、それでは。
(……あ)
ルナティアは、そっと息を呑んだ。
何を考えているのだろう。
相手の希望も聞かず、勝手に結婚相手を選び、遠方へ送り出そうとしていた。
しかも理由は、ノエルと親しく話しているから。
(……私ったら)
常識的に考えれば、どうかしている。
いや、どうかしているどころの話ではない。
それでは前世と何も変わらないではないか。
相手の意思よりも、自分の望みを優先してしまう。
それが、どれほど人を苦しめるのか。
七人分の記憶が、その結末を嫌というほど覚えている。
(……駄目よ)
ここで、また同じことをしてはならない。
ノエルに知られたら、どう思われるだろう。
きっと、軽蔑される。
優しい彼のことだから、最初は何とか理解しようとしてくれるかもしれない。
けれど、いつかは。
あの雨の日のように。
(……嫌)
ルナティアは、教本を押さえる指に力を込めた。
絶対に嫌だ。
もう二度と、あんな顔を見たくない。
けれど。
それでも。
(……あの場所に、私がいたかった)
その気持ちだけは、どうしても消えてくれなかった。
自分でも呆れるほど、欲張りな恋心だった。
そして、その恋心が七人の過去を一つに抱えていることを、ルナティアは誰よりもよく知っていた。
(……でも、今は)
とにかく、目の前の問題をどうにかしなければ。
あの女子生徒を遠ざけることではない。
自分がノエルと、もう少し親しくなること。
名前で呼んでほしいと、きちんとお願いすること。
(……そうよ)
他人を遠ざけるより、自分から近づけばよい。
そんな単純なことに気づくまで、随分と遠回りしてしまった。
ルナティアは、そっと顔を上げた。
ちょうど女子生徒が課題を抱えて礼を言い、自分の席へ戻っていくところだった。
ノエルが一人になる。
(……今だわ)
ルナティアは、静かに立ち上がった。
一歩。
また一歩。
彼の席へ向かう。
周囲の生徒たちが、氷の姫の姿に気づいてそっと道を空ける。
普段どおりの、優雅で落ち着いた足取りだった。
ただし、彼女の胸の中では。
(……どうしましょう。近づいておりますわ)
当たり前である。
自分で歩いているのだから。
(……ああ、でも)
もう少し。
あと三歩。
二歩。
(……近い!)
とうとう、彼の席の前まで来てしまった。
ルナティアは、そっと息を整えた。
そして、涼やかに微笑んだ。
「……おはようございます、ノエル様」
「あ、おはようございます。エーデルシュタイン様」
(…………っ)
家名。
やはり、家名だった。
昨日の自分が、そう呼んでほしいと伝えたからだ。
彼は何も悪くない。
むしろ、こちらの意思を尊重してくれている。
それなのに、たったそれだけで胸が痛くなる。
(……今日こそ)
訂正するのだ。
昨日の言葉を。
今度こそ。
「……あの、ノエル様」
「はい?」
ノエルが、不思議そうに首を傾げた。
「あ、昨日の資料の件ですか?」
「……いいえ」
「そうですか。すみません、まだ友人たちと集まる時間が取れていなくて」
「いえ、そちらは急ぎませんから」
ルナティアは、そっと両手を重ねた。
指先が冷たくなっている。
いつもなら、どれほど大勢の貴族を前にしても動揺しない。
難解な魔法理論について意見を求められても、落ち着いて答えられる。
それなのに。
目の前の青年へ、たった一つお願いをすることが、どうしてこんなにも難しいのだろう。
(……言わなければ)
今。
ここで。
もう、言い訳を考えている場合ではない。
「……昨日の、お名前の件ですけれど」
ルナティアは、ようやく口を開いた。
「名前?」
「……ええ」
ノエルは少し考え、思い当たったように頷いた。
「ああ、僕がルナティア様って呼んでもいいかって聞いたことですね」
(…………っ!)
呼ばれた。
今、呼ばれた。
ルナティア様。
何と甘美な響きだろう。
(……もう一度)
いけない。
今は続きを話さなければ。
(……でも、もう一度だけ)
駄目だ。
ここで黙っていたら、また失敗する。
ルナティアは、指先をぎゅっと握り合わせた。
「……昨日は、少し驚いてしまいまして」
「……はい」
「その……あまり、よいお返事ができませんでした」
自分の声が、思っていた以上に頼りなかった。
ノエルが、少し驚いたように目を瞬かせる。
「……いえ、そんな。気にしないでください」
優しい返事だった。
その優しさに、また胸が締めつけられる。
このまま笑って終わりにしてしまえば、きっと彼はそれ以上何も尋ねないだろう。
こちらが望んでいると思った距離を、いつまでも守ってくれるはずだ。
(……それは、嫌)
そんなのは、嫌だった。
彼に怖がられたくない。
けれど、離れてほしくもない。
自分の気持ちを知られるのは怖い。
でも、ずっと知られないままなのは、もっと寂しい。
(……ああ、もう)
本当に、どうして。
こんなにも面倒な女なのだろう。
ルナティアは、そっと息を吸った。
そして。
「……もし、まだよろしければ」
消え入りそうな声で、続けた。
「……私のことを、ルナティアとお呼びになってくださいませ」
言えた。
とうとう、言えた。
ただ、それだけのことなのに。
ルナティアは、胸の奥で何かが大きく弾けたような気がした。
もっとも、喜んでいる場合ではない。
まだ返事を聞いていないのだから。
(……もし、お断りされたら)
急に怖くなった。
昨日、自分が断ったのだ。
今さら気が変わったと言われても、困るかもしれない。
気まぐれな伯爵令嬢だと思われたら。
面倒だと感じられたら。
(……ああ)
どうしよう。
今すぐ、言葉を取り消してしまおうか。
それとも、笑って冗談だったことに。
いや、そんなことをしたら、余計におかしい。
ルナティアは、何とか微笑みを保った。
外見だけは、いつもと変わらない氷の姫だった。
しかし、その耳の先が、ほんのりと赤くなっていることには気づいていなかった。
*
ノエルは、目の前の少女を見つめていた。
エーデルシュタイン伯爵家の令嬢。
入学してから、何度も耳にした評判がある。
氷の姫。
美しく、聡明で、魔法の才能にも恵まれている。
けれど、どこか近寄りがたい。
誰に対しても礼儀正しく、落ち着いていて、感情を大きく表に出すことがない。
確かに、そういう人なのだろうと、ノエルも思っていた。
ただ、実際に話してみると、少し違うところもある。
魔法について話しているときには、思った以上に楽しそうだ。
自分が興味を持った本を、わざわざ選んで持ってきてくれたこともあった。
工房では、故障した魔道灯を一緒に直して、嬉しそうに笑っていた。
それなのに、ときどき急に口数が少なくなる。
少し近づくと、表情を硬くすることもある。
だから昨日、名前で呼びたいと言ったときに断られて、なるほどと思ったのだ。
親切ではあるけれど、親しくなるには時間が必要な人なのだろう、と。
けれど今、その彼女が。
自分から、昨日の返事を訂正しようとしている。
「……あの」
ルナティアが、小さく声を漏らした。
背筋は相変わらずまっすぐで、姿勢も美しい。
けれど、重ねた両手の指先は、少しだけ震えている。
それに、よく見ると耳まで赤い。
(……ああ)
ノエルは、ようやく気づいた。
もしかすると、この人は。
自分が思っていたほど、冷たい人ではないのかもしれない。
むしろ、こういうことが少し苦手なのだろうか。
昨日も、驚いてどう答えればよいか分からなかっただけなのかもしれない。
そう考えると、何だか少し可笑しくなった。
もちろん、馬鹿にしているわけではない。
完璧に見える彼女にも、こんな一面があるのだと思うと、不思議と親しみが湧いてきたのである。
「……ふっ」
思わず、小さく笑ってしまった。
「……ノエル様?」
ルナティアが、不安そうにこちらを見上げる。
しまった。
今のは、誤解させてしまったかもしれない。
ノエルは慌てて首を振った。
「あ、すみません。笑ったのは、そういう意味じゃなくて」
「……はい」
「なんだか、嬉しかったんです」
「……嬉しい?」
「はい。昨日、少し馴れ馴れしかったかなって思っていたので」
ノエルは、少し照れくさそうに笑った。
「僕も、もう少し気軽に話せたらいいなと思っていたんですよ」
ルナティアが、目を見開いた。
それから、何か言いかけて口を閉じる。
どうやら、返事に困っているらしい。
ノエルは、そんな彼女へ穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、これからはそう呼ばせてもらいますね」
そして。
「……ルナティア様」
その名を、口にした。
*
世界が、止まった。
少なくとも、ルナティアにはそう感じられた。
(…………)
今。
呼んだ。
ノエルが。
自分の名前を。
(……ルナティア)
あの声で。
優しく。
当たり前のことのように。
(……ああ)
どうしよう。
本当に、どうしよう。
嬉しい。
嬉しすぎる。
胸が熱い。
指先が震える。
今すぐ笑いたい。叫びたい。抱きつきたい。彼の手を取って、もう一度呼んでくださいとお願いしたい。
いや、一度などと言わず。
何度でも。
今日も明日も、その次の日も。
これから先、どれほど年月が過ぎても。
(……ああ、ノエル様!)
好き。
好き。
どうしようもなく、好き。
七人分の記憶の中には、数え切れないほどの恋心が残っている。
嬉しかった日も、泣いた日も、嫉妬に胸を焦がした日も。
けれど今、この瞬間の幸福は、そのどれとも少し違っていた。
彼が呼んだのは、前世の誰かの名前ではない。
ルナティア。
今ここにいる、自分の名前だ。
(……私を)
呼んでくださった。
七人の誰かではなく。
ルナティアという、一人の少女を。
その事実が、胸の奥へ染み込んでくる。
嬉しくて、幸せで、たまらなかった。
(……抱きしめたい)
できれば、今すぐ。
彼の胸に飛び込み、そのまま離れたくない。
この温かい声を、もう二度と失いたくない。
いっそ、毎朝名前を呼んでもらう約束を。
いや、毎朝では足りない。
一日に何度でも。
朝食の前に一度。
昼食の前に一度。
夕食のあとに一度。
眠る前には、できれば耳元で。
(……ああ、もう!)
駄目。
駄目だわ。
今、そんなことをお願いしたら、確実に驚かれてしまう。
ようやく一歩近づけたのだ。
ここで台無しにしてはならない。
ルナティアは、必死に呼吸を整えた。
そして、心の中で暴れ回る恋心を、ありったけの理性で押さえ込む。
私は伯爵令嬢。
氷の姫。
冷静で、優雅で、礼節をわきまえた淑女。
名前で呼ばれたくらいで、取り乱すはずがない。
そう。
決して。
「……ええ」
ルナティアは、そっと微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」
完璧だった。
声は、わずかに震えたかもしれない。
けれど、姿勢も、表情も、何もかも、いつもどおりだった。
ノエルは嬉しそうに頷いた。
「はい。よろしくお願いします、ルナティア様」
(…………っ!)
二度目。
二度目が来た。
(……神様!)
ありがとうございます。
いえ、何もかも許したわけではありませんけれど。
それでも、今だけは心から感謝いたします。
ルナティアは、何とか平静を装いながら一礼した。
そして、ゆっくりと自分の席へ戻り始める。
足取りは優雅。
背筋もまっすぐ。
銀色の髪が、歩くたびにさらりと揺れた。
周囲の生徒たちが見ても、何の不審も抱かないだろう。
ただ、彼女の内心では。
(……呼ばれた)
(……二回も)
(……ああ、何という幸せ)
今すぐ伯爵邸へ帰り、日記に書き記したかった。
いや、日記では足りない。
記念日として毎年祝うべきではないだろうか。
何月何日。
ノエル様が初めて、私をルナティアと呼んでくださった日。
何という素晴らしい日だろう。
(……ふふ)
毎年、二人でお祝いできたら素敵だ。
そうだ。記念の菓子を作ってもらおう。
白い砂糖菓子の上に、二人の名前を並べて。
……いや、そこまでしたら、さすがに重いだろうか。
(……少しだけ?)
少しどころではない気もする。
けれど、嬉しいのだから仕方がない。
そんなことを考えながら席に戻りかけた、そのときだった。
(……あら?)
ルナティアの足が、わずかに緩んだ。
何か。
何か、大切なことが引っかかる。
今の彼の言葉。
もう一度、思い返してみる。
『よろしくお願いします、ルナティア様』
(…………)
ルナティア。
様。
(……様?)
あら。
どうして。
(……どうして、様がついているのかしら?)
もちろん、理由は分かっている。
自分は伯爵令嬢。
ノエルは男爵家の三男。
貴族社会において、家格が上の相手を敬称なしで呼ぶことは、親しい関係でなければ失礼に当たる。
彼が「様」をつけるのは、至極当然のことだ。
それは理解している。
(……でも)
名前で呼んでほしかった。
確かに、呼んでくれた。
そのことは嬉しい。
嬉しいのだが。
(……ルナティア、だけでは駄目なのかしら)
様がない方が、ずっと親しい気がする。
それに、恋人同士なら名前だけで呼び合うことも珍しくない。
夫婦なら、なおさらだ。
(……夫婦)
またしても、その単語に思考が飛びついた。
そうだ。
結婚すればよいのではないか。
結婚してしまえば、名前で呼び捨てにしても何も不自然ではない。
(……素晴らしい!)
……いや、待って。
そもそも、まだ恋人ですらない。
順番がおかしい。
(……では、どうすれば)
婚約を先に?
それなら、少しは自然になるかもしれない。
いや、その前に交際の申し込みが必要だろう。
けれど、今それを言ったら、さすがに驚かれてしまう。
(……ああ、もう!)
どうして、恋愛とはこうも面倒なのだろう。
伯爵令嬢と男爵家の三男という家格の差も、何とも厄介だ。
いっそ、エーデルシュタイン伯爵家の爵位を下げてしまえば。
(……いいえ、それはお父様に申し訳ないわ)
ならば、ノエルを伯爵家へ迎え入れる?
しかし、それでは婚約の話へ戻ってしまう。
(……ううん)
何か。
もっと自然で、合理的で、彼に負担をかけない方法はないものだろうか。
例えば、敬称を使わない国の言葉で会話をする。
そうすれば、様付けなど気にしなくて済む。
(……あら)
それは、なかなかよい考えでは?
ノエルは新しい知識を学ぶのが好きだ。
異国の言語に興味を持っても不思議ではない。
二人で語学の勉強を始めれば、放課後に一緒に過ごす時間も増える。
そして、いつの間にか自然と敬称なしで呼び合えるようになっている。
(……何て素晴らしいのかしら!)
ただし、そのためには、まずノエルが語学に興味を持ってくれなければならない。
興味がなかったら?
(……それなら)
王立学園の選択科目に、新しい外国語を加えてもらうという手もある。
伯爵家の伝手なら、学園側へ提案することくらいは可能だろう。
いや、それでもノエルが選択してくれるとは限らない。
(……では、いっそ必修に)
そこまで考えて、ルナティアは我に返った。
(…………)
待って。
自分は今、何をしようとしていたのだろう。
たった一つの敬称を外してもらうために、王立学園の教育課程を変更しようとしていなかっただろうか。
(……私、本当にどうかしているわ)
少しだけ、恥ずかしくなった。
けれど。
(……でも、ルナティアって)
敬称なしで呼んでくださったら。
どんなに嬉しいだろう。
その想像だけは、なかなか頭から離れてくれなかった。
*
ノエルは、教本を閉じながら、ふと顔を上げた。
ルナティアはすでに自分の席へ戻っている。
相変わらず背筋を伸ばし、静かな表情で教本を開いていた。
何を考えているのかは、やはりよく分からない。
ただ、先ほどから少しだけ様子がおかしかった。
ときどき眉を寄せたかと思うと、すぐに何かを思いついたように目を輝かせる。
けれど次の瞬間には、また難しい顔へ戻ってしまう。
(……何か、悩んでいるのかな)
ノエルは、少し首を傾げた。
初めて会ったときは、もっと近寄りがたい人だと思っていた。
あの路地裏でも、助けた直後にはほとんど言葉を交わせなかったし、学園で再会してからも、どこか緊張しているように見えることがあった。
けれど、魔法について話しているときは楽しそうだ。
本を貸してくれたときも、工房で魔道灯を直したときも、何度も笑っていた。
今日だって、名前で呼んでほしいと伝えるために、わざわざ自分の席まで来てくれた。
あんなに緊張していたのだから、きっと勇気が必要だったのだろう。
(……なんだか)
少し、嬉しかった。
あの氷の姫にも、こんなふうに言葉に迷うことがあるのだ。
それに、彼女が自分と親しく話したいと思ってくれているなら、こちらも気を遣いすぎる必要はないのかもしれない。
ノエルは、窓際の席へ視線を戻した。
ルナティアは、今度は何やら余白に細かな文字を書き込んでいる。
魔法の新しい術式でも思いついたのだろうか。
彼女は、そういうことを考えているとき、とても真剣な顔になる。
(……もっと、話してみたいな)
魔法のことだけではなく。
好きな本のことや、故郷のこと。
何を面白いと思い、何を嬉しいと感じるのか。
もっと知れば、今まで見たことのない表情も見られるかもしれない。
ノエルは、小さく微笑んだ。
そして、次の授業が始まる前に、もう一度声をかけてみようかと考えた。
一方、その頃。
ルナティアの教本の余白には、すでに新たな計画が書き込まれていた。
『第七案。敬称を使わない外国語を、ノエル様と一緒に勉強する』
その下には、小さな文字でこう付け加えられている。
『最終目標――ノエル様に、ルナティアと呼び捨てにしていただくこと』
ルナティアは、その一文を見つめて満足そうに頷いた。
(……ふふ)
やはり、目標は明確な方がよい。
今日は名前で呼んでもらえた。
それだけでも、昨日よりずっと幸せだ。
けれど、せっかくここまで来たのだから。
もう一歩。
あと、ほんの一歩だけ。
(……いつか、きっと)
彼の声で、敬称のない自分の名前を聞いてみたい。
ルナティアは、そっと顔を上げた。
すると、ちょうどノエルがこちらを見ていた。
目が合う。
彼が、にこりと笑った。
「ルナティア様」
(…………っ!)
三度目。
三度目である。
(……ああ、もう!)
やっぱり、好き。
どうしようもなく、好き。
今すぐ抱きつきたい。
できれば、離れたくない。
いっそ、このまま――。
「次の授業の資料、もう見ましたか?」
「……ええ。確認しておりますわ」
ルナティアは、いつもどおり涼やかに答えた。
その声は落ち着き、表情にも乱れはない。
完璧な伯爵令嬢だった。
ただし、机の下で握りしめられた両手と、ほんのり赤く染まった耳の先だけは、どうにも言うことを聞いてくれなかった。
(……ノエル様)
彼に呼んでもらえた名前が、まだ胸の奥で響いている。
ルナティア。
ルナティア様。
今は、それでもよい。
……よいことにしておこう。
けれど、いつか必ず。
(……様を、取っていただきますわ)
氷の姫の新たな決意は、誰にも知られることなく、ひっそりと胸の内に刻まれた。
もっとも、その決意を実現するための方法が、異国語の習得という、いささか回りくどいものになっていることについては。
本人だけが、まだ何の疑問も抱いていなかった。
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