氷の姫は、名前で呼んでほしい
朝のエーデルシュタイン伯爵邸には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
庭園では朝露をまとった薔薇が陽光に輝き、窓の向こうからは小鳥のさえずりが聞こえてくる。厨房で焼かれているパンの香りが廊下を伝い、使用人たちは今日も主人たちが心地よく一日を始められるよう、静かに仕事を進めていた。
そんな平和な朝だというのに、伯爵令嬢ルナティア・フォン・エーデルシュタインの頭の中は、昨夜から一向に平和を取り戻していなかった。
原因は、昨日の放課後にある。
ノエルと二人で訪れた、王立学園の魔道具実習工房。
故障した魔道灯を修理するため、同じ作業台を覗き込み、あれこれ意見を交わした。彼が金具を調整し、自分が術式を確認する。うまくいかないときは二人で首を傾げ、原因が分かれば顔を見合わせて笑った。
本当に、楽しい時間だった。
そして、その途中で。
彼の肩が、自分の肩に触れたのである。
(……近かったわ)
鏡台の前で髪を梳かれながら、ルナティアは昨日の光景を思い返していた。
ノエルが工具を動かすたび、栗色の髪がわずかに揺れていた。袖が擦れ、肩が触れ、その拍子に彼がこちらを向いて「すみません」と笑った。
ほんの一瞬の出来事だった。
けれど、その一瞬が、どうにも頭から離れない。
昨夜は何度も思い出してしまい、危うく眠る時間がなくなるところだった。
(……もし、あのとき)
少しだけ、顔を上げていたら。
もっと近くで、あの琥珀色の瞳を見られただろうか。
手元を確かめようとして、彼の指先が自分の手に重なることもあっただろうか。
そして、もし彼がそのまま手を握ってくれたら。
(……ああ)
それはもう、どんなに幸せだったことだろう。
できれば、握った手を離さないでほしい。
作業が終わっても、工房を出ても、帰り道でも。
いっそ、そのまま伯爵邸まで一緒に来てくれたらよいのに。
夕食を共にして、夜は書庫で本を読み、疲れたら温かいお茶を飲む。客室ならいくらでもあるし、研究用の部屋だって用意できる。翌朝には庭園を散歩して、朝食の席で今日の予定を相談するのだ。
ノエルが微笑んで、おはよう、と言ってくれる。
自分も微笑み返し、おはようございます、と答える。
そのうち、朝の挨拶の前に頬へ口づけなどしてくれるようになって――。
(……口づけ)
ルナティアの指先が止まった。
そこから先は、もういけなかった。
結婚式は春がいいだろうか。それとも、彼と初めて出会った季節に合わせるべきか。大聖堂も素敵だけれど、領地の古い礼拝堂も捨てがたい。夫婦になれば家名はどうするのだろう。男爵家の三男であるノエルなら、伯爵家へ婿入りしてくれる可能性もある。
いや、そこは彼自身に決めていただかなければ。
そうだ、研究を続けたいなら伯爵領に新しい研究所を建てればよい。土地ならある。資金もある。優秀な職人も招ける。
そして、いつか子供が生まれたら。
きっと、栗色の髪が似合う。
瞳は琥珀色だろうか、それとも自分と同じ蒼色だろうか。
(……どちらでも、可愛いでしょうね)
ルナティアは鏡の中で、うっとりと目を細めた。
一昨日まで、ノエルという名前さえ知らなかった。
それが今では、彼との子供にどんな絵本を読んであげるかまで考えている。
我ながら、少々気が早い。
……少々、という言葉で済ませてよいかどうかは、考えないことにした。
けれど、そんな幸福な想像の途中で、ふと別の光景がよぎった。
雨に濡れた道路。
遠ざかっていく背中。
何度呼びかけても振り向いてくれなかった、あの日の彼。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
(……嫌)
もし、ノエルも同じように逃げ出したら。
自分の愛情を知って、怖いと思ったら。
もう会いたくない、と言われたら。
そのとき、自分はどうするだろう。
(……追いかけるわ)
考えるまでもなかった。
たとえ王都の外へ逃げたとしても、必ず見つけ出す。馬車でも船でも、何でも使う。世界の果てへ行ったとしても、そこまで追いかける。
彼が嫌がっても?
(…………)
ルナティアは唇を噛んだ。
嫌がっても。
本当は、離したくない。
彼の行く先をすべて知っていたい。誰と話し、何を食べ、どこで眠るのか、できることなら一つ残らず把握しておきたい。
知らないところで危険な目に遭うくらいなら、ずっと自分の目の届く場所にいてほしい。
そこまで考えて、胸が苦しくなった。
前世でも、似たようなことを考えていた。
彼のためだから。
心配だから。
愛しているから。
そうやって自分たちの願いばかりを押しつけた結果、彼は逃げるしかなくなったのだ。
(……駄目よ)
今度こそ、同じことをしてはいけない。
それは分かっている。
分かっているのに、もし再び彼を失うことになったら、自分がどうなるのか想像もつかなかった。
「……お嬢様?」
柔らかな声に、ルナティアは顔を上げた。
鏡越しに、髪を整えていた侍女が心配そうにこちらを見ている。
「お顔の色が、少し優れないようですが」
「……そう?」
「ええ。昨夜は、あまりお休みになれませんでしたか?」
ルナティアはゆっくりと息を整えた。
大丈夫。
ここにはノエルはいない。
今のところ、何も失ってはいない。
彼は昨日、また一緒に工房へ行こうと言ってくれたではないか。
その言葉を思い出すと、胸の冷たさがほんの少し和らいだ。
「……いいえ。何でもないわ」
鏡に映る少女は、いつもどおり落ち着いた表情をしていた。
銀色の髪は丁寧に梳かれ、蒼い瞳には静かな光が宿っている。
誰が見ても、非の打ちどころのない伯爵令嬢だろう。
ただし、その右手が制服の袖口を強く握りしめていなければ、の話だが。
「あの……お嬢様」
「何かしら」
「そのお袖、何か気になるところでも?」
ルナティアは視線を落とした。
昨日、ノエルの肩が触れた側の袖だった。
いつの間にか、そこを握りしめていたらしい。
しかも、少し皺になっている。
「…………」
「ほつれなどございましたら、すぐに直しますが」
「……いいえ」
ルナティアは、そっと手を離した。
「何も問題ないわ」
「左様でございますか」
侍女は不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は尋ねなかった。
ルナティアは鏡の中の自分を見つめ、何事もなかったように微笑んだ。
ただ、心の中では一つ、切実な願いが生まれていた。
(……今日も、触れてくださらないかしら)
できれば、肩だけと言わず。
……いや、そこはまず肩からでよい。
今度こそ、変な反応をしないようにしなければ。
そう決意したところで、ふと気づく。
そもそも、どうすれば自然に肩が触れ合う機会など訪れるのだろう。
(……もう一度、魔道灯を修理すれば)
昨日直したものは、もう壊れていない。
(……では、別のものを)
壊れた魔道具を探してくればよいのではないか。
いや、いっそ――。
そこまで考えたところで、ルナティアは慌てて首を振った。
自分で魔道具を壊してまで、ノエルと肩を並べようとするのは、さすがにどうかしている。
(……落ち着きなさい、私)
どうやら今日も、平穏な一日にはなりそうになかった。
*
王立学園の教室に入ると、ルナティアはほとんど無意識に窓際の席へ目を向けた。
いた。
ノエルはすでに登校しており、数人の男子生徒と机を囲んで何やら話している。
その姿を見つけた途端、胸の奥に残っていた不安がすっと軽くなった。
(……今日も、いらっしゃる)
昨日別れた人が、今日もここにいる。
何でもないことのように笑い、友人たちと話し、新しい一日を過ごそうとしている。
それが嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
ルナティアが教室へ入ってきたことに気づき、ノエルが顔を上げた。
「あ、おはようございます。エーデルシュタイン様」
「……おはようございます、ノエル様」
いつもどおりの挨拶。
けれど彼は、こちらを見て嬉しそうに笑ってくれた。
(……ああ)
朝から、何という贅沢だろう。
できれば今の笑顔を額縁に入れて、寝室の壁に飾っておきたい。
いや、絵姿では駄目だ。
瞬きするところも、頬が緩むところも、話しかけたときにこちらを向いてくれるところも、すべてが好きなのだから。
(……やはり、毎朝ご一緒に朝食を取るのが一番では?)
結論が、またしても結婚後の生活へ向かいかけたところで、ノエルが一冊の教本を差し出した。
「昨日の魔道灯のことなんですけど、ちょっと考えてみたんです」
「……まあ」
ルナティアは、すぐに教本へ視線を向けた。
昨日修理した魔道灯には、魔石を固定する金具の緩みと、接続部分の歪みという二つの不具合があった。
ノエルはその構造を思い出しながら、接点を安定させる方法を考えてきたらしい。
「金具を締め直すだけだと、振動でまた緩むかもしれませんよね。だから、最初から少し弾力のある固定具を使えばいいんじゃないかと思ったんです」
「……なるほど」
ルナティアは、彼が描いた簡単な図を覗き込んだ。
「確かに、それなら接触が安定しそうですわね。ただ、金属の種類によっては、魔力の流れに影響が出るかもしれません」
「ああ、そっか。固定するだけじゃ駄目なんですね」
「ええ。でも、こちらの部分に絶縁用の術式を加えれば……」
彼女は余白に小さな図を描いた。
ノエルが興味深そうに身を乗り出す。
「なるほど! そういう方法もあるんですね」
「……ふふ」
つい、笑みがこぼれた。
昨日と同じだ。
自分が考えたことを彼が面白がり、彼の発想から自分も新しいことを思いつく。
こんな時間なら、いくらあっても足りない。
そう思ったときだった。
「そういえば、エーデルシュタイン様」
ノエルが、ふと顔を上げた。
「……はい?」
「僕のこと、いつもノエルって呼んでくれていますよね」
「……ええ」
「それなら、僕もルナティア様って呼んでもいいですか?」
その瞬間。
ルナティアの頭の中で、何かが派手に弾けた。
(…………)
今。
何と。
おっしゃったのかしら。
ルナティア。
自分の名前。
今世で父と母から与えられ、十五年間呼ばれ続けてきた名前だ。
それを、ノエルが。
彼の方から。
(……呼んで、くださるの?)
胸が大きく跳ねた。
前世の記憶の中には、彼に呼ばれた七人それぞれの名前がある。
嬉しかった日も、照れくさかった日も、怒らせてしまった日も。
けれど、ルナティアという名前を、彼はまだ一度も呼んでいない。
当たり前だ。
今の自分を、彼は今世で初めて知ったのだから。
それなのに。
その彼が、自分から名前を呼びたいと言ってくれている。
(……ああ)
何ということだろう。
今すぐ呼んでほしい。
できれば、もう一度。
一度と言わず、何度でも。
朝、教室で顔を合わせたときに。
昼休み、お茶へ誘うときに。
放課後、一緒に帰るときに。
そして、いつか二人きりになれたなら。
ほかの誰にも聞かせない、優しい声で。
ルナティア。
そう呼んでほしい。
いや、様付けなどなくてもよい。むしろ、ない方が親しいのではないだろうか。もっと親しくなれば、愛称で呼んでくださることもあるかもしれない。
そうなったら自分は何と答えるべきだろう。ノエル様では少し堅いだろうか。けれど、呼び捨てにするなんて、まだ恐れ多い。結婚したら、さすがに呼び方を変えた方が――。
(……結婚!)
そうだ。
夫婦になれば、毎日名前を呼んでもらえる。
朝も夜も。
一緒に暮らせば、わざわざ約束を取りつける必要さえない。
今日の予定も、明日の予定も、眠る前の挨拶も、全部自分に向けてくれる。
(……何て素晴らしいのかしら)
もう、今すぐ婚姻届に相当する書類を用意してもよいのではないだろうか。
いや、駄目だ。
本人の承諾が必要だ。
当たり前である。
しかし、もし承諾してくれたら。
もし。
もし、ノエルが自分のことを好きになってくれたら。
(…………)
そこで、ルナティアの胸を冷たいものが掴んだ。
好きになってくれなかったら?
もし、自分の本心を知ってしまったら。
名前を呼ばれただけで結婚式まで考え始めるような女だと知られたら。
彼は、どう思うだろう。
(……怖がられる)
きっと、そうだ。
昨日まで普通に話していた伯爵令嬢が、たった一言で人生を丸ごと差し出そうとしている。
そんなことを知られたら。
あの雨の日のように、また怯えた顔をされるかもしれない。
(……駄目)
落ち着かなければ。
嬉しいからといって、顔に出してはいけない。
名前で呼ばれた瞬間、彼に抱きついてしまうかもしれない。それだけは避けなければならない。
ここは、伯爵令嬢らしく。
礼儀正しく。
適切な距離を保つ、親しい同級生として。
ルナティアは、ゆっくりと息を整えた。
そして、いつもの澄ました微笑みを浮かべる。
「……これまでどおり、エーデルシュタイン様とお呼びいただければ結構ですわ」
言えた。
何とも落ち着いた、完璧な返事だった。
さすがは氷の姫。
どれほど動揺していても、表情ひとつ乱さない。
……ただし、それが何を意味するのかに気づいたのは、次の瞬間だった。
「あ……そうですか」
ノエルが、少しだけ目を伏せた。
「すみません。馴れ馴れしかったですね」
(…………え?)
ルナティアの笑顔が、そのまま固まった。
違う。
違いますわ。
馴れ馴れしいなんて。
そんなこと、少しも。
「……お気になさらず」
口が勝手に動いた。
完璧な礼儀作法だった。
完璧すぎた。
「分かりました。じゃあ、これからもエーデルシュタイン様とお呼びしますね」
ノエルは穏やかに笑った。
そして、教本を閉じる。
「変なことを聞いてしまって、すみませんでした」
(……待って)
違うの。
そうではなくて。
本当は、ルナティアと呼んでほしいの。
今すぐ。
何度でも。
できれば一生。
もし許されるなら、寝ても覚めても呼び続けてほしいくらいなのに。
(……どうして!?)
どうして自分は、あんな返事をしてしまったのだろう。
ノエルはもう、何事もなかったかのように友人の方へ向き直っている。
ルナティアは、教本を抱えたまま立ち尽くした。
(……ああ)
せっかく。
せっかく、彼の方から。
名前で呼んでもいいかと、尋ねてくれたのに。
それを。
(……私の、馬鹿!)
今世の彼は、前世の自分たちを知らない。
それなのに、たった一度の申し出を、前世の恐怖に怯えた自分が台無しにしてしまった。
ルナティアは、あくまで優雅に自分の席へ戻った。
背筋はまっすぐ。
歩幅も乱れない。
銀色の髪が、朝の日差しを受けてさらりと揺れる。
周囲の生徒たちからすれば、いつもどおりの氷の姫だった。
ただ、その胸中では。
(……誰か、私を叱ってくださいませ!)
七人分の恋心が、そろって行き場を失っていた。
*
昼休みになる頃には、ルナティアは自分がどれほど大きな失敗をしたのか、嫌というほど思い知らされていた。
ノエルの態度が、少し変わったのである。
冷たくなったわけではない。
朝と同じように挨拶をしてくれるし、授業で目が合えば微笑んでくれる。
けれど、以前のように気軽に話しかけてくることが少なくなった。
昼休みも、彼は友人たちと机を囲み、楽しそうに教本を広げている。
ルナティアの方を見たときには、礼儀正しく会釈してくれた。
ただ、それだけだった。
(……どうして、来てくださらないの?)
ルナティアは、開いた教本の向こうから、そっと彼の様子を窺った。
昨日までは、自分の方へ来てくれたのに。
魔法の話をして、一緒に笑ってくれたのに。
(……もしかして)
嫌われた?
あの一言で?
たった一度、名前で呼ばれるのを断っただけで?
いや、断ったのは自分だ。
だからノエルは、こちらの気持ちを尊重してくれているのだろう。
それは分かる。
分かるのだが。
(……そこまで尊重しなくてもよろしいのに!)
少しくらい、強引に呼んでくれても。
いや、それは違う。
嫌だと言われたらやめるのは、当然のことだ。
むしろ、そんなふうに相手の意思を大切にできるところが、彼の素晴らしいところではないか。
(……でも!)
今のは本心ではなかった。
お願いだから、そこだけは察してほしかった。
……などという身勝手な願いが通るはずもない。
ルナティアは、そっと教本へ視線を戻した。
そこには魔法理論の基本的な術式が並んでいたが、いつもなら簡単に理解できるはずの数式が、今日はまるで頭に入ってこない。
ノエル。
ルナティア。
ノエル。
ルナティア。
気がつけば、二つの名前ばかりが頭の中で並んでいた。
(……ああ、もう)
こんなことなら、最初から素直に頷けばよかった。
けれど、今さらどう訂正すればよいのだろう。
「先ほどは失礼いたしました。やはり名前で呼んでくださいませ」
それだけでよい。
言葉にすれば、何ということもない。
しかし。
(……そんなことを言ったら)
自分が彼に名前で呼んでほしくて仕方がないと、気づかれてしまうではないか。
……いや、実際そのとおりなのだが。
どれほど必死なのか、知られるのは恥ずかしい。
どれほど執着しているのか、知られるのは怖い。
(……でも、呼んでほしいの!)
自分でも、どうしてよいのか分からなくなってきた。
そんなときだった。
「ねえ、ノエル君」
教室の反対側から、明るい声が聞こえてきた。
ルナティアの指が、ぴたりと止まる。
(……ノエル君?)
視線を上げると、女子生徒が一人、ノエルの席へ近づいていた。
栗色の髪を後ろで結んだ、快活そうな少女だった。
手には午後の授業で使うらしい課題の紙を持っている。
「ここの術式、どうしても分からなくて。ちょっと教えてもらっていい?」
「うん、いいよ。どこ?」
ノエルは自然に微笑んだ。
女子生徒が隣の椅子を引き寄せ、二人で課題を覗き込む。
ルナティアは、その様子を黙って見つめていた。
(……近い)
随分と、近い。
それに、あの呼び方。
ノエル君。
何という親しげな響きだろう。
自分など、ルナティア様と呼んでいただく機会を、つい先ほど自ら手放してしまったというのに。
あの女子生徒は、何のためらいもなくノエルの名前を呼んでいる。
(……ずるい)
胸の底から、黒い感情がふつふつと湧き上がってきた。
あの少女は、何者なのだろう。
どこの家の娘で、どのような家族がいるのだろう。
婚約者は?
いないなら、誰かよい相手はいないだろうか。
できれば王都から少し離れた場所に領地を持つ、誠実で裕福な青年がよい。
年齢も近く、人柄もよく、将来性があって。
そうだ。伯爵家の伝手を使えば、相応しい縁談をいくつも探せるのではないか。
本人も幸せになれて、ノエルのそばから離れてくれる。
(……あら)
それは、なかなかよい考えでは?
……いや。
そもそも、あの少女に婚約者が必要なのかどうかさえ知らない。
普通に授業の課題を尋ねているだけの相手へ、勝手に縁談を用意しようとするのは、いくら何でもおかしい。
それに、仮にそんなことをすれば、ノエルはどう思うだろう。
(……嫌われる)
それだけは駄目だ。
しかし、何もしなければ、あの少女は今後もノエルに近づくかもしれない。
今日だけではない。
明日も、明後日も。
やがて一緒に勉強するようになり、昼食を共にするようになり、休日には二人で出かけることになって。
そのうち、彼女の方から告白して。
ノエルが頷いて。
(……嫌)
胸が締めつけられた。
そんな未来は、見たくない。
絶対に。
(……あの方を遠ざけてしまえたら)
一瞬、そんな考えが浮かぶ。
しかし、すぐに雨の記憶が胸をかすめた。
違う。
それでは、前と同じだ。
彼が誰と話すかは、彼自身が決めること。
分かっている。
分かっているのに、どうしてこんなにも腹立たしいのだろう。
しかも、ノエルは楽しそうだ。
あの女子生徒が何かを言うたびに頷き、ときには笑っている。
(……私にも、そのように笑ってくださったではありませんか)
昨日までは。
いや、今日だって笑ってくれた。
けれど、あの少女には、そんなことを知らずに笑いかけることができるのだ。
一方、自分はというと。
名前を呼んでほしい。
ただそれだけのお願いすら、満足にできない。
(……何て、情けないのかしら)
ルナティアは、そっと唇を引き結んだ。
そして、教本のページをめくる。
背筋を伸ばし、静かに文字へ目を落とす姿は、まさに氷の姫だった。
周囲の生徒たちが見れば、昼休みまで勉学に励む優秀な伯爵令嬢にしか見えないだろう。
ただし、その教本が、すでに五分ほど上下逆さまになっていることに気づかなければ、だが。
ルナティアがその事実に気づいたのは、さらにしばらく経ってからだった。
(…………)
彼女は何事もなかったように本を持ち直した。
そして、涼しい顔で最初のページから読み始めた。
氷の姫にも、たまにはこういう日がある。
*
放課後。
一日中、自分で作り出したすれ違いに苦しめられていたルナティアは、ついに決意した。
このままではいけない。
ノエルとの距離を、何とかして元に戻さなければならない。
幸い、話題ならある。
昨日修理した魔道灯について、伯爵邸の書庫で役立ちそうな資料を見つけたのだ。
もちろん、それは本当のことだった。
ただし、昨夜のうちにわざわざ書庫へ足を運び、関連する本を何冊も調べたのは、純粋な学問的好奇心だけが理由ではなかったが。
(……これなら、自然ですわね)
魔法について教え合うことは、これまでも何度かあった。
一緒に本を読むくらい、何もおかしくない。
それに、昨日ノエルはまた工房へ行こうと言ってくれたのだ。
ならば、きっと嫌がられないはず。
ルナティアは何度も心の中で言葉を練習し、ようやく席を立った。
「……ノエル様」
声をかけると、帰り支度をしていたノエルが振り返った。
「はい、エーデルシュタイン様」
(…………っ)
家名。
また、家名だった。
当然だ。
自分でそうお願いしたのだから。
しかし、分かっていても胸が痛い。
(……ルナティアと、呼んでほしいのに)
どうして、あの一言が言えないのだろう。
ルナティアは気を取り直し、何でもないことのように話し始めた。
「昨日の魔道灯について、少し興味深い資料がございましたの」
「そうなんですか?」
ノエルの顔が、ぱっと明るくなった。
(……ああ)
やっぱり好きだ。
そんな顔をされると、こちらまで嬉しくなってしまう。
できれば、ずっと眺めていたい。
「ええ。魔力の伝達を安定させる術式について、詳しく書かれているものですわ」
「それは読んでみたいですね!」
「……でしたら、明日にでも」
一緒に読みませんか。
そう言えばいい。
たった、それだけだ。
ところが、いざ口にしようとすると、朝の失敗が頭をよぎった。
名前で呼ばれるのを断ったばかりなのに、今度は二人きりで勉強しようなどと言えば、どう思われるだろう。
気まぐれな女だと思われるかもしれない。
面倒な相手だと感じられるかもしれない。
何より、自分がノエルと二人きりになりたくて仕方がないと、知られてしまう。
(……それは)
恥ずかしい。
とても。
どうしようもなく。
ルナティアは、精いっぱい自然な微笑みを作った。
「……ご興味がおありでしたら、明日、資料をお貸しいたしますわ」
言ってしまった。
またしても、最も無難な言葉を選んでしまった。
しかし、ノエルは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます! 助かります」
(……よかった)
ひとまず、喜んでくれた。
それだけでも嬉しい。
もしかすると、このまま「一緒に読みませんか」と誘ってくれるかもしれない。
そんな期待が胸に膨らんだ、次の瞬間。
「じゃあ、明日お借りして、友人たちと一緒に読んでみますね」
(…………)
ルナティアは微笑んだまま固まった。
友人たち。
一緒に。
(……友人たち?)
私と、ではなく?
どうして?
……いや。
理由は分かっている。
自分が本を貸すとしか言わなかったからだ。
当然である。
何もかも当然だった。
分かっている。
分かっているけれど。
(……どうして、こうなるの!?)
朝は名前で呼んでもらえる機会を失った。
昼には別の女子生徒が親しげに話しかけていた。
そして放課後には、自分が選んだ本を、ほかの友人たちと読むという。
(……私も、入れてくださいませ!)
そう言いたかった。
いや、できれば友人たちは遠慮してほしい。
二人がいい。
二人だけがいい。
一冊の本を間に置いて、肩を並べて、同じ文章を読んで。
分からないところがあれば、顔を寄せ合って相談する。
そうして昨日の工房のように、また肩が触れ合ったりしたら。
(……ああ、もう!)
どうして、たったそれだけのことが、こんなにも難しいのだろう。
「……エーデルシュタイン様?」
ノエルが、少し心配そうに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「……ええ」
ルナティアは微笑んだ。
完璧な微笑みだった。
「どうぞ、皆様でお役立てくださいませ」
「ありがとうございます。また感想を聞かせてください」
「……楽しみにしておりますわ」
ノエルは丁寧に礼を述べ、鞄を肩にかけた。
そして、また明日、と言って教室を出ていく。
ルナティアは、その背中が見えなくなるまで、静かに見送った。
その姿は、どこから見ても優雅な伯爵令嬢だった。
ただ、その心の中では。
(……私の、馬鹿!)
本日二度目の盛大な反省会が、すでに始まっていた。
*
夜のエーデルシュタイン伯爵邸。
窓の外では月が庭園を照らし、薔薇の茂みが青白い影を落としている。
静かな寝室には、壁際の魔道灯が柔らかな光を投げかけ、机の上には一枚の便箋が広げられていた。
ルナティアは、その便箋を前にして、羽ペンを握りしめていた。
表情は真剣そのもの。
まるで、王国の命運を左右する難題に挑んでいるかのようだった。
しかし、彼女が考えているのは、政治でも魔法理論でもない。
便箋の一番上には、整った文字でこう書かれていた。
『ノエル様に名前で呼んでいただくための方法』
そして、その下にはいくつもの案が並んでいる。
第一案。
明日、素直にお願いする。
(……無理ですわ)
早くも却下。
そんなことができるなら、今朝あんな失敗はしていない。
第二案。
魔法の勉強をしている最中に、さりげなく名前の話へ持っていく。
(……でも、どうやって?)
魔力結晶の構造について話している途中で、突然「ところで私のことはルナティアとお呼びくださいませ」と言い出すのか。
不自然すぎる。
第三案。
学級全体で名前を呼び合う習慣を作る。
(……あら)
悪くない。
学級委員か教師に提案すれば、実現する可能性もある。
しかし、その場合、ノエル以外の男子生徒まで自分を名前で呼ぶことになる。
(……それは駄目!)
自分の名前は、できればノエルだけに特別に呼んでほしい。
いや、家族や侍女たちは別として。
とにかく、学園の男子生徒たちに気安く呼ばれるのは、どうにも気に入らない。
第四案。
ノエルにだけ、特別に許可する。
(……これですわ!)
ルナティアの顔が、ぱっと明るくなった。
そうだ。
ほかの誰にも許していないことを、彼にだけ許す。
何という素晴らしい考えだろう。
これなら、彼もきっと喜んで――。
(……あ)
そこで気づく。
特別に許可するということは、彼が特別だと伝えるのと同じではないか。
(…………)
いや、特別なのは事実だ。
世界中の誰よりも特別。
命よりも大切。
できれば、彼の名前を自分の家名と並べて書きたいくらいには。
……いや、それではもう婚姻の話になってしまう。
(……駄目。早すぎるわ)
ルナティアは額を押さえた。
一体、どうすればいいのだろう。
好きだと知られたくない。
けれど、親しくしてほしい。
自分だけを見てほしい。
でも、そんなことを願っていると知られたら、嫌われるかもしれない。
(……ああ)
本当に、困った。
七人分の記憶がある。
七人分の恋心がある。
嬉しかった思い出も、苦しかった思い出も、数え切れないほど残っている。
それなのに。
今の自分は、たった一人の青年に名前を呼んでほしいと伝えることさえできない。
(……何て、役に立たないのかしら)
ルナティアは、深々とため息をついた。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「お嬢様。失礼いたします」
侍女が、就寝前のハーブティーを持って入ってきた。
「まだお休みにならないのですか?」
「……少し、考え事をしているの」
「お勉強でしょうか」
「……ええ」
ルナティアは、至って真面目に頷いた。
「とても難しい問題なの」
侍女は机の上に視線を落とした。
便箋には、複雑な矢印と打ち消し線が何本も引かれ、余白には細かな文字がびっしり書き込まれている。
一見すると、高等魔法の術式を研究しているようにも見える。
「まあ……お嬢様でも、これほどお悩みになることがあるのですね」
「……あるわ」
ルナティアは小さく頷いた。
「……とても、難しいのよ」
侍女は感心したように微笑み、ハーブティーを机に置いた。
「ですが、あまりご無理をなさらないでくださいませ。少しお休みになれば、よい考えも浮かぶかもしれません」
「……そうね」
「それでは、おやすみなさいませ」
侍女が部屋を出ていく。
扉が閉まると、室内は再び静けさに包まれた。
ルナティアは、温かなハーブティーを一口飲んだ。
甘い香りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
机の上には、どうにも解決できそうにない難題が残っていた。
彼女は便箋を引き寄せ、余白へ小さく文字を書いた。
ルナティア。
その下に、もう一度。
ルナティア。
さらに、もう一度。
気づけば、紙の端にまで同じ名前が並んでいた。
どれも、自分の名前だ。
十五年間、何度も呼ばれてきた名前。
父にも、母にも、侍女にも、教師にも。
それなのに。
ノエルに呼んでもらえるかもしれないと思っただけで、どうしてこんなにも胸がいっぱいになるのだろう。
ルナティアは、そっとペンを置いた。
昼間のことを思い出す。
彼は、怒らなかった。
自分の返事を聞いて、少し残念そうな顔をしただけだった。
それからは、こちらが望んだとおりに、礼儀正しい距離を保ってくれた。
優しい人だ。
本当に、優しい人だ。
前世の記憶の中でも、彼はいつもそうだった。
七人の少女たちは、その優しさに甘え続けてしまった。
嫌だと言われても、寂しいからと追いかけた。
放っておいてほしいと言われても、心配だからと会いに行った。
彼の望みよりも、自分たちの不安を優先してしまった。
そして最後には、取り返しのつかないことになった。
ルナティアは、窓の外へ視線を向けた。
夜風が庭園の木々を揺らしている。
(……今度こそ)
彼を怖がらせたくない。
嫌われたくない。
もう二度と、逃げ出したいなどと思わせたくない。
だから、何もかも我慢すればいい。
彼が望む距離を保ち、親切な同級生として接していればいい。
そう考えた途端、胸の奥から強い拒絶が湧き上がった。
(……嫌)
それでは、足りない。
ただの同級生なんて、嫌だ。
彼の隣にいたい。
笑いかけてほしい。
名前を呼んでほしい。
いつかは自分だけを好きになってほしい。
誰よりも大切にしてほしい。
できれば、彼の人生の最後まで。
(……ああ)
何て欲張りなのだろう。
神様が七人分の魂を一つにまとめたのだから、せめて恋心も少しは扱いやすくしてくださればよかったのに。
これでは、好きな人の前で普通に笑うことさえ難しいではないか。
(……本当に、意地悪ですわ)
ルナティアは、心の中で神へ小さな文句を言った。
もちろん、返事などない。
けれど、少しだけ気が楽になった。
そして、ふと気づく。
今日、自分が名前を呼んでほしいとお願いできなかったのは、神の枷に止められたからではない。
怖かったからだ。
自分の本心を知られることが。
拒絶されることが。
彼に嫌われてしまうことが。
(……私が)
言えなかったのだ。
たった一言を。
ルナティアは、便箋を見つめた。
そこには、いくつもの策が書かれている。
けれど、どれだけ考えても、ノエルの返事を確実に手に入れる方法などない。
彼がどう答えるかは、彼自身が決めることだから。
それが分かっているからこそ、怖い。
(……でも)
もし、もう一度だけ尋ねてみたら。
彼は、何と答えてくれるだろう。
ルナティアは、そっと目を閉じた。
朝の教室。
栗色の髪。
琥珀色の瞳。
少し照れくさそうに笑いながら、自分の名前を呼んでくれるノエル。
その姿を思い浮かべる。
そして、誰もいない部屋で、小さく口を開いた。
「……ルナティアと、呼んでくださいませ」
声は、思っていたよりも頼りなかった。
魔法の詠唱なら、どれほど難解なものでも淀みなく口にできるというのに。
たったこれだけの言葉が、どうしてこんなにも難しいのだろう。
ルナティアは、もう一度息を整えた。
「……私のことを、ルナティアと」
そこまで言って、頬が熱くなる。
いけない。
これでは、あまりにも露骨だ。
自分から名前で呼んでほしいとお願いするなんて、好きだと言っているようなものではないか。
(……好きですけれど!)
それはもう、どうしようもないほどに。
けれど、だからといって、今すぐ知られてしまうのは怖い。
ルナティアは両手で顔を覆った。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて、指の隙間から小さなため息が漏れる。
「……もう一度だけ、練習しましょう」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
鏡の中には、いつもの氷の姫がいた。
銀色の髪。
蒼い瞳。
凛とした、落ち着いた表情。
どこから見ても、堂々とした伯爵令嬢だ。
ルナティアは、その鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
「……ノエル様」
一度、息を吸う。
「……もし、よろしければ」
そこで、また胸が高鳴った。
頭の中では、すでにノエルが優しく名前を呼んでくれている。
その声を聞いた自分が嬉しさのあまり彼に抱きつき、彼は少し驚きながらも抱き返してくれて、そのまま二人は――。
(……っ!)
ルナティアは、慌てて目を閉じた。
「……駄目。集中しなければ」
もう一度。
今度こそ。
「……ルナティアと、お呼びくださいませ」
言えた。
誰もいない部屋でなら、言えた。
ルナティアは、ほっと胸を撫で下ろした。
これなら、明日はきっと大丈夫。
そう思いかけて、すぐに気づく。
明日は、目の前にノエルがいるのだ。
あの優しい瞳で見つめられながら、同じことを言えるだろうか。
(…………)
ルナティアは、しばらく考えた。
そして、そっと便箋を引き寄せる。
第五案。
『まずは、ノエル様のお顔を見ても動揺しない練習をする』
そこまで書いたところで、羽ペンが止まった。
(……それができたら、苦労しませんわ!)
氷の姫と呼ばれる伯爵令嬢は、その夜、とうとう自分の恋心に降参した。
もっとも、諦めたわけではない。
明日こそは。
明日こそ、必ず。
大好きな彼に、自分の名前を呼んでもらうのだ。
ルナティアは、決意を込めて便箋を見つめた。
そこには、何度も書き直された自分の名前が、紙いっぱいに並んでいる。
その光景が他人には少々恐ろしいものに見えるかもしれないなどと、今の彼女は少しも考えていなかった。
ただ、ひとつだけ。
(……ノエル様)
どうか明日も、私に笑いかけてくださいませ。
そう願いながら、ルナティアはようやく羽ペンを置いた。
そして、すぐにもう一度手に取った。
第六案を、思いついてしまったのである。
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