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七人のヤンデレが融合して転生した結果、氷の姫になりましたが、愛する彼の前では恋愛ポンコツです  作者: 虹の箸


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氷の姫はたった一冊が選べない

エーデルシュタイン伯爵邸の書庫に朝日が差し込む頃、ルナティアは早くも途方に暮れていた。

高い天井まで届く書棚には、歴代の当主たちが集めた書物が隙間なく並んでいる。古い革表紙の匂いが漂う室内には、ところどころに閲覧用の机が置かれ、その一つを十数冊もの本が占領していた。

もちろん、誰かが片づけを怠ったわけではない。

すべて、ルナティアが自分で運んできたものだった。

「……こちらでは、少し物足りないかしら」

分厚い本を開き、目次を確かめる。魔力結晶の基本的な性質から始まり、術式への応用方法まで丁寧に解説された、なかなか優れた入門書だった。

けれど、彼女は首を傾げた。

ノエルは鉱山を所有する男爵家の三男で、幼い頃から魔力結晶の加工工房に出入りしていたという。この程度の知識なら、すでに身につけているかもしれない。

かといって、隣に積んだ古代術式の研究書は、少々難解すぎる。

難しい本を読めることと、その本を楽しめることは別だ。

せっかく貸すのだから、夢中になって読んでほしい。できれば、夜更かししてしまうほど面白がってほしい。

……もっとも、夜更かしで体調を崩されては困るので、そこは適度にしていただきたいところだった。

「……ううん」

ルナティアは本を閉じ、ほかの書棚へ視線を向けた。

昨日、初めてのお茶会でノエルからおすすめの本を教えてほしいと頼まれた。

ただ、それだけのことである。

ただ、それだけのことなのに、昨夜はなかなか寝つけなかった。

目を閉じれば、茶房で向かい合って座るノエルの姿が浮かんでくる。果実茶を飲んだときの楽しそうな表情も、林檎の焼き菓子を勧めてくれたときの笑顔も、驚くほど鮮やかに思い出せた。

そのくせ、彼が帰っていく後ろ姿を思い出すと、急に胸が落ち着かなくなる。

昨夜など、明日になれば同じ教室で会えると何度も自分に言い聞かせ、ようやく眠れたくらいだ。

そして今朝。

目が覚めるなり、今日も本当に会えるのだろうかと心配になった。

そこへ昨日の約束を思い出し、今度は嬉しくなった。

そんな調子だったから、気づけば普段より早く書庫へ来ていたのである。

(……本をお貸しするのよね)

ルナティアは机に積まれた書物を眺め、そっと頬を緩めた。

ノエルが、自分の選んだ本を読む。

同じ文章を目で追い、ときには考え込み、ときには面白そうに笑うのだろう。

そして読み終えたら、感想を聞かせてくれるかもしれない。

そのときには、また二人でお話ができる。

(……素敵)

しかも、本を読んでいる間は、その本を貸した自分のことを少しくらい思い出してくれるのではないだろうか。

それなら、離れていても彼の心の片隅にいられることになる。

(……あら、何て素晴らしいのかしら)

思わず頬が緩む。

本を貸すだけで、これほど嬉しいことがいくつも起こるとは。

世の中には、まだまだ自分の知らない幸福があるらしい。

「……お嬢様?」

背後から声をかけられ、ルナティアは振り返った。

入り口には、朝食の用意が整ったことを知らせに来た侍女が立っていた。

その視線が、机の上に積まれた本へ向かう。

「まあ……随分とたくさん、お出しになりましたね」

「ええ。少し調べたいことがあって」

「本日の授業で、何か課題でも?」

「いいえ」

「では、こちらはすべて学園へお持ちになるのでしょうか」

「……一冊だけよ」

侍女は瞬きをした。

もう一度、机の上を見る。

「……十二冊ございますが」

「だから、選んでいるのではありませんか」

ルナティアは至って真面目に答えた。

侍女はしばらく主人を見つめていたが、やがて何かを察したように微笑んだ。

「それほど大切な方にお貸しになるのですね」

「…………」

ルナティアは、開きかけていた本の上で手を止めた。

「……どうして、そう思うのかしら」

「普段のお嬢様でしたら、参考書を一冊選ぶために、朝から十二冊も広げたりなさいませんもの」

「……そう」

確かに、そのとおりだった。

しかし、そんなことを正面から指摘されると、少々困る。

侍女は楽しそうに続けた。

「どのような方なのですか?」

「……とても、優しい方よ」

考えるより先に、言葉が出ていた。

自分でも驚いて顔を上げると、侍女はますます嬉しそうな顔をしている。

ルナティアは慌てて本へ視線を戻した。

「それから……魔道具がお好きなの」

「まあ。それでは、きっと本もお喜びになりますね」

「……そうだと、よいのだけれど」

ルナティアは、そっと指先で表紙を撫でた。

喜んでくれるだろうか。

昨日、故郷の工房について話していたときのノエルは、本当に楽しそうだった。

身振りを交え、子供の頃に魔道具を分解して叱られた話まで聞かせてくれた。

あのときの、少し照れくさそうな笑顔。

また、あんな顔を見てみたい。

(……そうね)

難しすぎる本を渡して困らせたいわけではない。

簡単すぎる本を渡して、退屈させたいわけでもない。

彼が好きなものについて、もっと深く知ることのできる一冊。

そんな本が、どこかにあるはずだった。

ルナティアは再び書棚を見上げた。

そして、ふと一冊の本に目を留める。

下の方の棚に、少し古びた青い革表紙が見えた。

「あら……」

手に取ると、懐かしい感触が指先へ戻ってきた。

『魔力結晶と術式の相互作用に関する考察』

幼い頃、何度も読んだ本だった。

初めて読んだときは難しい言葉が多く、辞書を片手に一ページ進むだけでも随分と時間がかかった。

それでも、面白くて仕方がなかったのだ。

魔力結晶は、ただ魔力を蓄える石ではない。結晶の構造や加工方法によって、術式の働きそのものが変わることがある。

それを知ったとき、自分の中で何かがぱっと開けたような気がした。

あの日は夕食の時間になっても本を手放さず、侍女に何度も呼ばれたものだった。

(……懐かしいわ)

ルナティアはページをめくった。

紙は少し黄ばんでいるが、文字は十分に読める。図解も豊富で、専門的な内容を扱いながら、著者の好奇心が伝わってくるような本だった。

何より、昨日のノエルなら、この内容を面白がってくれる気がした。

「……これにするわ」

ルナティアが本を胸に抱えると、侍女も安心したように頷いた。

「では、学園へお持ちになるよう、お包みいたしますね」

「ええ。お願い……」

そこまで言いかけて、ルナティアの手が止まった。

(……あら?)

何か、大切なことを忘れている気がする。

恐る恐る本を開き、最初の数ページを確認する。

そして、固まった。

(……ああっ!)

余白に、書き込みが残っていた。

まだ字が少し丸かった頃の自分が、分からない単語に注釈をつけ、間違えた計算式を消し、思いついたことを所狭しと書き込んでいる。

あるページには、大きな感嘆符まで描かれていた。

(……私ったら!)

しかも、書き込みは一か所ではない。

ページをめくればめくるほど、幼い頃の自分が顔を出してくる。

中には、今なら考えつかないような大胆な仮説まであった。

(……こんなものを、ノエル様にお見せするの?)

ルナティアは本を閉じた。

そして、また開いた。

消去魔法で書き込みだけ消してしまおうか。

いや、古い紙を傷めたら困る。

それなら、同じ本の新しいものを取り寄せて……。

(……でも、今日お渡ししたいのよね)

今から取り寄せても、間に合わない。

それに、これは自分が何度も読み返してきた本なのだ。

書き込みも含めて、少しだけ愛着がある。

ルナティアはしばらく迷った末、そっと表紙を閉じた。

「……このままでいいわ」

「よろしいのですか?」

「ええ」

返事をしながら、胸が少しだけ落ち着かなくなる。

昔の自分が書いた、幼い文字。

あの頃の考え方。

そんなものまで見られてしまうなんて。

(……少し、恥ずかしいけれど)

それでも、この本を読んでほしかった。

自分が面白いと思ったことを、ノエルも面白いと思ってくれたら。

きっと、とても嬉しい。

ルナティアは本を侍女へ手渡した。

「大切に包んでちょうだい」

「かしこまりました」

侍女が本を受け取り、丁寧に一礼する。

そして書庫を出ようとしたところで、ルナティアは思わず声をかけた。

「……あの」

「はい?」

「やっぱり、もう一冊くらい……」

侍女は黙って机の上を見た。

まだ十一冊残っている。

「…………」

「…………」

しばらくの沈黙のあと、ルナティアは小さく咳払いした。

「……何でもないわ」

どうやら、たった一冊を選ぶというのは、彼女が思っていた以上に難しいことらしかった。

     *

王立学園の教室には、朝から明るい話し声が満ちていた。

窓際では数人の生徒が昨日の授業について話し合い、後ろの方では男子生徒たちが剣術の実習について賑やかに議論している。

入学してまだ二日目だというのに、あちこちに小さな輪ができ始めていた。

ルナティアは教室の入り口で足を止め、いつものように一礼してから中へ入った。

そして、ほとんど無意識に、ある席へ視線を向ける。

(……あ)

いた。

栗色の髪に、琥珀色の瞳。

ノエルは窓際の席で、昨日知り合ったらしい男子生徒と教本を覗き込んでいた。

何やら難しい顔で話し合っていたかと思うと、片方が冗談を言ったらしく、二人そろって笑い出す。

ルナティアは、その姿をしばらく眺めていた。

(……今日も、いらっしゃる)

昨日、また明日と言ってくれた。

その言葉どおり、今日も同じ教室にいる。

ただそれだけのことなのに、胸の奥で固く結ばれていた何かが、少しだけほどけていくようだった。

あの雨の日から、ずっと。

自分の知らない場所へ行ってしまった人は、二度と帰ってこないのだと思っていた。

けれど、今は違う。

昨日別れた人が、今日また同じ場所にいる。

当たり前のことなのかもしれない。

けれど、ルナティアには、まだ当たり前だとは思えなかった。

(……本当に、よかった)

そっと微笑みかけた、そのとき。

ノエルが友人に何かを言われ、声を立てて笑った。

ルナティアの眉が、ほんの少しだけ動く。

(……楽しそうですわね)

昨日の茶房で、自分に向けてくれた笑顔だった。

それを今は、別の人に向けている。

しかも、二人は随分と親しそうだ。

(……男の方ですから、まだよろしいですけれど)

いや。

男の友人だからといって、安心してよいのだろうか。

ノエルが休日にその友人と遊びに行くようになったら、どうする。

一緒に勉強するようになったら。

もし、毎日の放課後をその友人と過ごすようになってしまったら。

(……それは、それで困りますわね)

結局、男であろうと女であろうと、ノエルの時間を自分以外の誰かが使うのは惜しいらしい。

我ながら、なかなか欲張りな話である。

けれど、そんなことを考えている間に、ノエルがこちらへ顔を向けた。

「あ、おはようございます、エーデルシュタイン様」

ルナティアの胸が跳ねた。

「……おはようございます、ノエル様」

どうにか普段どおりの声で答える。

ノエルは楽しそうに笑った。

「昨日はありがとうございました。あの焼き菓子、おいしかったですね」

「ええ。お気に召していただけたなら、何よりですわ」

「また行ってみたいです」

(……また!)

何とも素晴らしい言葉だろう。

昨日も言ってくれた。

今日も言ってくれた。

この調子なら、明日も言ってくれるかもしれない。

(……ふふ)

ルナティアは、胸の中でそっと喜びを噛みしめた。

そのとき、隣にいた男子生徒が会話に加わってきた。

「茶房ですか? 俺も昨日行こうと思ったんですけど、混んでて入れなかったんですよね」

「そうでしたの。昼休みは特に混み合うそうですから、少し時間をずらすとよろしいかもしれませんわ」

「なるほど。ありがとうございます」

男子生徒は気さくに笑った。

ルナティアも礼儀正しく頷く。

もちろん、相手に悪い感情があるわけではない。

ノエルの友人なのだから、仲良くしておいた方がよいだろう。

……少なくとも、ノエルの前では。

(……でも、できれば)

そろそろ本を渡したい。

朝からあれほど悩んで選んだ一冊なのだ。

早くノエルの手に渡し、どんな顔をしてくれるのか確かめたい。

ルナティアは、そっと鞄へ手を伸ばした。

ところが、その瞬間。

カラン、カラン、と授業開始の鐘が鳴り響いた。

「おっと、もうこんな時間か」

「戻ろうぜ、ノエル」

友人たちは慌てて席へ戻り、ノエルも教本を閉じ始めた。

「それじゃあ、また後で」

「……ええ」

ルナティアは笑顔で頷いた。

そして、背を向けた瞬間。

(……もう!)

どうして、こういうときに限って鐘が鳴るのだろう。

普段は一度も気にしたことがなかったのに、今日は時計塔の鐘の音がやけに恨めしい。

(……少しくらい、遅れてくださってもよろしいでしょうに)

もっとも、授業開始を告げる鐘にまで融通を求め始めたら、少々問題がある。

ルナティアは小さくため息をつき、自分の席へ向かった。

鞄の中の本が、妙に重く感じられた。

     *

ようやく本を渡せたのは、昼休みになってからだった。

教室から続く回廊には明るい日差しが差し込み、石柱の影が床に長く伸びている。中庭の木々を渡ってきた風が、開け放たれた窓から時折吹き込んできた。

遠くでは生徒たちの笑い声が聞こえ、食堂へ向かう者たちの足音が行き交っている。

ルナティアは、そんな回廊の一角でノエルと向かい合っていた。

鞄から取り出した本を、両手でそっと差し出す。

「昨日、お話ししていた本です。ノエル様のお好みに合うか分かりませんけれど……」

「ありがとうございます」

ノエルは受け取ると、表紙の題名を読んだ。

そして、驚いたように目を丸くした。

「あっ、これ!」

「……ご存じでしたの?」

「はい! 実家の工房で、親方が話していたんです」

彼は嬉しそうに表紙を撫でた。

「魔力結晶の特性について、ほかの研究者とは少し違う考え方をしている本だって。一度読んでみたかったんですけど、工房には置いていなくて」

「……そうでしたの」

「まさか、ここで読めるなんて。ありがとうございます!」

ノエルは、まるで欲しかった玩具を手に入れた子供のように笑った。

その顔を見た途端、ルナティアの頬も自然と緩みそうになった。

(……よかった)

十二冊の中から、あれほど悩んで選んだ一冊。

それが、彼の読みたかった本だった。

嬉しくて仕方がない。

(……ああ、こんなことなら)

もっと早くお渡しすればよかった。

いや、朝の鐘さえ邪魔をしなければ、すでに渡せていたはずだ。

そんなことを考えていたときだった。

ノエルが本を開いた。

「あ、ここに書き込みがある」

(…………っ!)

ルナティアの背筋が伸びた。

来た。

とうとう、来てしまった。

彼の視線が落ちているのは、幼い頃の自分が大きな感嘆符を書き込んだページだった。

しかも、そこには魔力計算を間違えて訂正した跡まで残っている。

(……よりによって、そこですの!?)

ほかにも書き込みはいくらでもある。

なぜ、最初に見つけたのがそのページなのだろう。

「これ、エーデルシュタイン様が書いたんですか?」

「……ええ。その、幼い頃に勉強していたときのもので……」

ルナティアは思わず視線を逸らした。

「少々、お見苦しいかもしれませんけれど」

「え? どうしてですか?」

「……計算を間違えておりますし」

「ああ、ここですね。でも、ちゃんと自分で気づいて直してるじゃないですか」

ノエルは面白そうにページを眺めている。

「それに、こっちの書き込みは興味深いですね」

「……こちら?」

「はい。結晶の負荷を減らすために、術式の経路を変えるっていう考え方です」

彼が指さしたのは、当時のルナティアが思いつきで書き加えた仮説だった。

今となっては、それほど珍しい考え方ではない。

しかし、当時の彼女にとっては大発見だったのだ。

「……あれは、ただの思いつきですわ」

「でも、理屈は通っていますよね?」

ノエルは真剣な顔で本を覗き込んだ。

「これ、実際に試してみたんですか?」

「ええ。簡単な術式で試したことがあります。ただ、結晶の加工精度によって結果が変わってしまって……」

「なるほど。じゃあ、結晶の内部構造をもう少し均一にできれば……」

「そうですわね。加工時の魔力の通し方によっても、変化するかもしれません」

「それ、面白いですね!」

ノエルが顔を上げた。

その瞳が、きらきらと輝いている。

(…………)

ルナティアは、思わず言葉を忘れた。

あの本を読んでいた頃、自分はまだ幼かった。

難しい言葉を覚え、式を何度も書き直し、少しでも理解できると嬉しくて、次のページをめくった。

誰かに褒められたいと思っていたわけではない。

ただ、魔法が面白かった。

そんな自分の書き込みを、今、ノエルが夢中になって読んでいる。

(……あら)

何だろう。

少し、くすぐったい。

伯爵令嬢として丁寧に挨拶されたときとも、氷魔法の才能を称賛されたときとも違う。

ずっとしまっておいた宝箱を、誰かにそっと開けられたような気分だった。

しかも、その中身を見て、相手は嬉しそうに笑っている。

(……そんなに、面白いかしら)

もちろん、自分が面白いと思った本なのだから、面白いに決まっている。

けれど、ノエルまで同じところを面白がってくれるとは思わなかった。

「エーデルシュタイン様って、本当に魔法が好きなんですね」

ノエルが笑った。

「……ええ」

ルナティアは、小さく頷いた。

「……好きですわ」

返事をしてから、妙に胸が落ち着かなくなった。

好き。

たったそれだけの言葉なのに。

目の前には、ノエルがいる。

(……い、いえ!)

もちろん、今のは魔法の話だ。

魔法が好きだと言ったのであって、決してノエル様のことが好きだと告白したわけではない。

……もっとも、後者も事実ではあるのだけれど。

(……ああ、もう)

ルナティアは慌てて頬を押さえた。

そんな彼女の様子に気づいたのか、ノエルが不思議そうに首を傾げる。

「どうしました?」

「……い、いいえ。何でもありませんわ」

「そうですか?」

「ええ。それより……その本、お気に召したのでしたら、どうぞゆっくりお読みになってくださいませ」

「ありがとうございます。大切にしますね」

ノエルは本を閉じると、傷んだ表紙をいたわるように鞄へしまった。

その仕草を見たルナティアは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

自分が大切にしてきたものを、彼も大切に扱ってくれている。

(……ふふ)

何だか、それだけで十分な気がした。

……もちろん、感想はぜひ聞かせていただきたいけれど。

できれば、二人きりで。

お茶など飲みながら。

(……そうだわ。次のお茶会は、本の感想を伺うという名目で……)

結局、恋する伯爵令嬢の頭の中では、早くも次の計画が始まっているのだった。

     *

午後の休憩時間。

教室の窓際では、ノエルとルナティアが再び魔道具の話に花を咲かせていた。

ノエルは、昼休みに貸してもらった本がよほど気に入ったらしい。すでに何か所か読み進めたようで、気になる部分を指さしてはルナティアへ質問している。

彼があまりにも楽しそうなので、ルナティアもつい話し込んでしまった。

窓からは秋の初めを思わせる穏やかな風が入り、机の上に広げられた本のページを、ぱらぱらとめくっていく。

「学園の実習設備もすごいですよね。見学できる施設の一覧を見たんですけど、魔力結晶の加工装置まであるらしいんですよ」

「ええ。王立学園ですもの。研究設備にも力を入れていると聞いておりますわ」

「実家にも工房はありますけど、あそこまで大きな設備はありませんから。早く使ってみたいな」

ノエルは嬉しそうに笑った。

その顔を見て、ルナティアはふと思いついた。

(……あら)

研究設備。

それなら、伯爵家にも用意できる。

今ある施設を改修してもよいし、必要なら新しく建てても構わない。

エーデルシュタイン家の財力があれば、それほど難しいことではないだろう。

(……そうよ!)

もし伯爵邸にノエル専用の研究室があれば、彼はきっと喜んでくれる。

好きな魔道具を研究できて、自分もその様子を見に行ける。

お茶を差し入れたり、難しい術式について相談されたり。

そして、研究に夢中になって帰りが遅くなったら……。

(……お泊まりになっていただけばよいのでは?)

素晴らしい。

何とも素晴らしい考えだった。

ただ、問題が一つある。

その研究室を使いたいと思ってもらえなければ、意味がない。

ルナティアは、できるだけ自然な声で尋ねた。

「ノエル様。もし、学園より充実した設備を自由に使えるとしたら、ご興味はおありですか?」

「もちろんありますよ」

(……!)

ルナティアの胸が跳ねた。

やはり。

魔道具の研究が好きな人なのだから、優れた設備には興味があるはずだ。

これなら、伯爵邸へお招きする話も――。

「でも、まずは学園の設備を使いこなせるようになりたいですね」

「……え?」

「せっかく入学したんですし。実家にも工房はありますから、必要になったら相談できますしね」

ノエルは少し照れくさそうに笑った。

「それに、何でも用意してもらうばかりじゃなくて、自分でできることを増やしたいんです」

「……そう、ですわね」

ルナティアは、静かに頷いた。

どうやら、伯爵邸に研究室を用意するという計画は、すぐには実現しそうにない。

そもそも、ノエルの実家も裕福なのだ。

研究設備が必要なら、家族へ相談することもできるだろう。

それに、彼自身が学園で学びたいと思っている。

(……少し、残念ですわ)

せっかく素敵な案だったのに。

もちろん、ノエルの考えを否定するつもりはない。

ただ、伯爵邸へお招きする理由が一つ減ってしまったことが、非常に惜しかった。

「それに、設備だけあっても、分からないことはありますから」

ノエルが続けた。

「今日みたいに、エーデルシュタイン様からお話を聞ける方が、今の僕にはずっとありがたいかもしれません」

「…………」

ルナティアは、思わず顔を上げた。

「……私、ですか?」

「はい。魔法理論のこと、すごく詳しいじゃないですか」

ノエルは机の上の本を指さした。

「この書き込みだって面白いですし。僕一人で読んでいたら、気づかなかったことも多いと思います」

ルナティアは、しばらく返事ができなかった。

伯爵家の研究設備ではなく。

伯爵家の財力でもなく。

自分と話すことを、彼は楽しんでくれているらしい。

(……あら)

それは、思いがけないことだった。

自分には、お金も、家柄も、魔法の才能もある。

ノエルが望むものなら、できる限り用意して差し上げたいと思っていた。

けれど、彼が今欲しがっているものは、そんな立派なものではないらしい。

ただ、一緒に本を読み、魔法の話をする時間。

(……私と?)

ルナティアは、そっと手元の本へ視線を落とした。

頬が少し熱くなっている気がする。

それを隠すように、何気なく髪を耳へかけた。

「……私でお役に立てるのでしたら、いつでもお尋ねくださいませ」

「ありがとうございます!」

ノエルが嬉しそうに笑う。

その笑顔を見た途端、ルナティアの頭の中で、またしても新しい計画が動き始めた。

(……いつでも、ですって)

自分で言った言葉を、心の中で繰り返す。

いつでも。

つまり、明日でも、明後日でも。

放課後でも、休日でも。

(……それでしたら、毎日ご一緒できるのでは?)

図書室で勉強するのもよい。

空き教室を借りるのも素敵だろう。

もちろん、伯爵邸であれば静かな部屋をいくらでも用意できる。

(……やっぱり、お部屋は準備しておくべきかしら)

どうやら、研究室の計画を諦めるには、まだ少々早いらしい。

ルナティアは、ノエルの話へ丁寧に相槌を打ちながら、頭の片隅で伯爵邸の部屋割りを考え始めていた。

もっとも、彼が来てくれるかどうかは、まだ一度も尋ねていない。

そこが一番の問題なのだが、今の彼女にとっては、まず理想の研究室を思い描くことが大切だった。

     *

放課後の教室には、帰り支度をする生徒たちの声が響いていた。

机の引き出しを閉める音や、鞄の留め具が触れ合う音。廊下からは、これから剣術の自主練習へ向かうらしい男子生徒たちの足音が聞こえてくる。

ルナティアは教本をしまい終えたあとも、すぐには立ち上がらなかった。

窓の向こうでは、午後の日差しが校舎の壁を淡い金色に染めている。

昨日の今頃は、初めてのお茶会を前に、どうすればよいのか分からなくなっていた。

それが今日は、ノエルへ本を渡し、魔法の話をたくさんすることができた。

彼は何度も笑ってくれた。

自分が選んだ本も、気に入ってくれた。

(……楽しかったわ)

ルナティアは、そっと頬を緩めた。

けれど、すぐに窓際の席へ視線を向ける。

ノエルは友人たちと話しながら、教本を鞄へしまっていた。

もうすぐ帰ってしまうのだろう。

(……今日も、終わってしまうのね)

昨日ほど胸が苦しくなるわけではない。

それでも、彼が帰っていくことを考えると、少しだけ落ち着かなくなる。

明日も会える。

きっと会える。

そう言い聞かせながらも、どこかでまだ不安が残っていた。

(……せめて、帰る前にもう少しだけ)

本の感想を聞いてもよいだろうか。

いや、まだ借りたばかりなのだから、読んでいるはずがない。

それなら、明日の授業についてでも。

そう考えていたとき、ノエルが友人たちと別れ、こちらへ歩いてきた。

(……え?)

まっすぐ。

迷うことなく。

自分の席へ。

「エーデルシュタイン様、ちょっといいですか?」

「……はい。何でしょう?」

ルナティアは、どうにか普段どおりの声で答えた。

ノエルは鞄から先ほどの本を少し覗かせながら、楽しそうに言った。

「学園の裏手に、魔道具の実習工房があるらしいんです」

「……実習工房、ですか?」

「はい。明日の放課後、見学できるそうで」

ノエルは少しだけ照れくさそうに笑った。

「僕、一度見てみたいと思っていたんですけど……よかったら、一緒に行きませんか?」

ルナティアは瞬きをした。

一度。

二度。

目の前の青年は、変わらず穏やかに笑っている。

(……今)

何と、おっしゃったのだろう。

一緒に。

行きませんか。

(……私と?)

思わず自分の胸元を見下ろしかけた。

もちろん、ほかに誰かいるわけではない。

彼は、間違いなく自分へ話しかけている。

(……ノエル様が)

昨日は、自分からお茶に誘った。

今日は朝から本を選び、渡す機会を探し、何とか少しでも長く話せないかと考えていた。

それなのに。

彼の方から、会いに来てくれた。

それも、彼自身が楽しみにしている場所へ、一緒に行こうと誘ってくれたのだ。

(…………っ)

胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。

嬉しい。

嬉しくて、困ってしまう。

ここで飛び上がって喜んだら、きっと驚かれるだろう。

それに、ノエルはあくまで魔道具の見学に誘ってくれているのだ。恋人同士の逢瀬とは、少々事情が違う。

そんなことは分かっている。

分かっているのに。

(……ああ、もう!)

どうして、こんなにも嬉しいのだろう。

ノエルは、返事を待つように首を傾げた。

「……どうでしょう?」

「……ええ」

ルナティアは、そっと息を整えた。

「喜んで、ご一緒させていただきますわ」

それだけを言うのに、随分と苦労した。

ノエルは安心したように笑った。

「よかった。僕一人だと、つい魔道具の構造ばかり見てしまいそうなので」

「……それはいけませんの?」

「いや、悪いことじゃないんですけどね。せっかくなら、魔法理論の方からもいろいろ見てみたいなと思って」

ノエルは、少し楽しそうに続けた。

「それに、エーデルシュタイン様と一緒なら、面白い発見がありそうですから」

(…………)

ルナティアは、危うく椅子から立ち上がりそうになった。

面白い発見。

自分と一緒なら。

(……ああ、もう)

本当に、何という人なのだろう。

何気ない言葉で、こんなにも自分を喜ばせてしまう。

「……私も、楽しみにしております」

どうにかそれだけを返すと、ノエルは嬉しそうに頷いた。

「じゃあ、明日の放課後に。また教室で声をかけますね」

「……はい」

「それじゃあ、また明日」

ノエルは手を振り、教室を出ていった。

ルナティアは、その背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。

窓から吹き込んだ風が、机の上に置かれた紙の端をひらひらと揺らしている。

廊下では、生徒たちが楽しそうに笑い合っていた。

いつもと変わらない、学園の放課後だった。

けれど、ルナティアには、何もかもが少し違って見えた。

(……誘って、くださった)

自分から追いかけたのではない。

誰かに頼んで会わせてもらったのでもない。

ノエルが、自分からやってきてくれた。

(……本当に?)

あまりにも嬉しくて、もう一度確かめたくなる。

けれど、教室にはすでに彼の姿はない。

明日の放課後。

一緒に、工房へ。

(……ふふ)

ルナティアは、そっと頬を緩めた。

また明日。

昨日も聞いた言葉だった。

今日も、彼はそう言ってくれた。

そして今度は、明日の約束までしてくれたのだ。

(……ああ)

胸の奥で、何かが静かにほどけていく。

彼が自分から戻ってきてくれる。

自分から、また会おうと言ってくれる。

そんなことが、本当にあるのだ。

(……嬉しい)

ルナティアは両手を膝の上に重ね、しばらく俯いていた。

笑ってしまいそうだった。

同時に、少しだけ泣きそうでもあった。

けれど、今ここで泣くのは、さすがにおかしい。

明日の工房見学を思い浮かべる。

彼はきっと、また目を輝かせて魔道具の話をするのだろう。

それを隣で聞くことができる。

(……素敵)

そして、もし工房の見学が終わったあとも時間があれば。

もう少しだけ、お話ができるかもしれない。

もしかすると、帰り道もご一緒できるのでは。

(……そうだわ)

明日は少し早めに準備を済ませておこう。

服装も考えなければならない。

工房なのだから動きやすいものがよいだろうけれど、せっかく二人で出かけるのだから、少しくらいおしゃれもしたい。

(……あら、大変)

考え始めると、やらなければならないことが次々に浮かんでくる。

ルナティアはようやく立ち上がった。

その足取りは、いつもと変わらず優雅だった。

ただ、口元に浮かぶ小さな笑みだけは、どうしても消せなかった。

     *

その日の夕方。

伯爵邸の自室では、何とも珍しい光景が繰り広げられていた。

ルナティアは制服から着替えるのも忘れ、机の上に魔法理論の本を広げていた。

その隣には魔道具の研究書が二冊。

さらに、工房の設備について調べるための資料まで用意してある。

(……明日は、実習工房の見学)

ルナティアは、そっと指先でページをめくった。

ノエルは魔道具が好きだ。

それなら、明日もきっと楽しそうに話してくれるだろう。

自分も、できる限り彼の話についていきたい。

分からないことがあれば教えてもらえばよいし、逆に彼が知らないことがあれば、自分が教えて差し上げたい。

(……二人で、いろいろなことを調べられたら)

そんな想像をしていると、自然と頬が緩んだ。

もちろん、それだけではない。

工房の見学が終わったら、二人で帰れるかもしれない。

帰り道に茶房へ寄るのもよいだろう。

もし夕食の時間まで一緒にいられたら。

そして、もしノエルの方から、もう少し一緒にいたいと言ってくれたら。

(……ああ、素敵)

ルナティアは本の上に肘をつき、しばらく幸せな想像に浸った。

そこへ、侍女が着替えを用意して入ってきた。

「お嬢様……?」

机の上を見た侍女は、目を丸くした。

「まあ。明日は何か大切な試験でもございましたか?」

「……いいえ」

「では、課題がたくさん?」

「……そういうわけでもないわ」

侍女は不思議そうに首を傾げた。

「それでは、どうしてこんなにたくさんの本を?」

ルナティアは、そっとページを閉じた。

少し考えてから、静かに答える。

「……明日、とても大切な約束があるの」

「まあ」

侍女の顔が、ぱっと明るくなった。

「もしかして、今朝お話しなさっていた方と?」

「…………」

ルナティアは答えなかった。

ただ、頬が少しだけ熱くなった。

侍女は、それ以上何も聞かなかった。

代わりに、机の上に積まれた本を見て、楽しそうに微笑んだ。

「きっと、その方も楽しみにしていらっしゃいますよ」

「……そうかしら」

「ええ。お嬢様がこれほど熱心に準備なさっているのですもの」

ルナティアは、しばらく黙っていた。

それから、小さく頷いた。

「……そうだと、嬉しいわ」

窓の外では、夕日が庭園の木々を赤く染めていた。

遠くで使用人たちが夕食の支度を始める音が聞こえてくる。

いつもと変わらない、伯爵邸の夕暮れだった。

けれど、ルナティアには、明日が待ち遠しくて仕方がなかった。

ノエルが自分から誘ってくれた。

そのことを思い出すたび、胸がくすぐったくなる。

そして同時に、もう一つ、どうしても考えてしまうことがあった。

(……明日の見学が終わったら)

次は、どこへお誘いしよう。

茶房もよい。

庭園も素敵だ。

図書室で二人きりになるのも、悪くない。

……もちろん、伯爵邸へお招きするという案も、まだ諦めてはいない。

(……ふふ)

ルナティアは、机の上に広げた本を眺めた。

ノエルの好きなものを知れば知るほど、彼と一緒にしたいことが増えていく。

それは嬉しいことだった。

ただ、一つ問題がある。

(……これでは、時間がいくらあっても足りませんわね)

できれば、毎日。

朝から晩まで。

ずっと一緒に過ごせたら。

(……あら)

ルナティアは、ふと思いついた。

それなら、いっそ同じ屋敷で暮らせばよいのではないだろうか。

朝食も一緒。

研究も一緒。

夕食も、そのあとの時間も。

(……やはり、研究室は建てておくべきかしら)

昼間、ノエルが自分の力で学びたいと言っていたことなど、すっかり忘れたわけではない。

ただ、いつか気が変わるかもしれないではないか。

そのときのために準備をしておくことくらい、悪いことではないはずだ。

ルナティアは、至って真面目にそんなことを考えていた。

七人分の恋心は、今日も少しも大人しくなっていない。

けれど、今夜の彼女には、それ以上に楽しみなことがあった。

明日になれば、またノエルに会える。

そして今度は、彼の方から約束してくれた時間を、一緒に過ごせるのだ。

(……楽しみですわ、ノエル様)

ルナティアは、そっと微笑んだ。

その笑顔を見た侍女は、何も言わず、静かに着替えを整え始めた。

氷の姫と呼ばれる主人が、最近どういうわけか、よく笑うようになった。

その理由を、侍女はまだ知らない。

けれど、今の主人が以前よりずっと楽しそうであることだけは、確かだった。

そして、今夜のエーデルシュタイン伯爵邸では、いつもより少しだけ遅い時間まで、書庫の灯りが消えることはなかった。

お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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