第3話 氷の姫は、初めてのお茶会で空回りする
王立学園の時計塔が放課後を告げるまで、あと何時間あるのだろう。
窓際の席で、ルナティア・フォン・エーデルシュタインは、今日だけで何度目になるか分からない視線を黒板の上の時計へと向けた。
(……おかしいわ。さっきから、ちっとも針が進んでいない気がするのだけれど)
もちろん、時計が壊れているわけではない。秒針は規則正しく時を刻み、窓から差し込む陽光も、少しずつ角度を変えている。
ただ、ルナティアにとっては、いつもの何倍も時間が遅く感じられるのだ。
普段の彼女であれば、どれほど退屈な講義でも背筋を伸ばし、教師の言葉を一つも聞き漏らすまいと耳を傾けている。ところが今日に限っては、初老の教師が熱心に語る古代魔法の術式理論さえ、ほとんど頭に入ってこなかった。
原因は、はっきりしている。
放課後、ノエル・フォン・アレクランドライトと二人でお茶を飲む約束をしているのだ。
もちろん、名目は先日の襲撃事件に対するお礼である。命の危険から救ってくれた恩人に感謝を伝えるのは、伯爵令嬢として当然の務めだ。
そう、当然の務め。
決して、ずっと会いたかった人と二人きりになれるから浮かれているわけでは……。
(……無理ね。浮かれているわ)
ルナティアは机の下で、そっと指先を握り合わせた。
数日前まで、彼がこの世界のどこにいるのかさえ分からなかった。それが今では同じ教室にいて、放課後には向かい合ってお茶を飲むという。
しかも、彼の方から今日がよいと言ってくれたのだ。
この幸福を、いったいどう受け止めればよいのだろう。
(お茶は何を頼もうかしら。ノエル様は甘いものがお好き? それとも、あまり召し上がらない方なのかしら)
学園の茶房には季節の果実茶があり、焼き菓子の評判もよいと聞いている。
できれば、彼の好きなものを用意してあげたい。
しかし、好みを知らない。
(……そうよね。まだ、何も知らないのだもの)
その事実が、少しだけ寂しかった。
前世から続く七人分の愛情を受け継いでいながら、今のノエルがどんなお茶を好むのかさえ知らないのだ。
けれど、それは当たり前のことでもある。
彼は前世の記憶を持たず、この世界で新しい人生を歩んできた。自分の知らない家族に囲まれ、自分の知らない友人と笑い、自分の知らない夢を育んできたのだから。
(……だったら、今日から知っていけばいいのよね)
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
もっとも、安心している暇はない。
何を話すかも考えなければならないのだ。
故郷のこと。学園のこと。好きな食べ物。休日の過ごし方。
それから、もし会話が弾んだら、次のお休みに一緒に街へ出かける約束を……。
(い、いえ! まだ早いわ!)
思わず頬に手を当てると、隣の席の生徒がびくりと肩を揺らした。
「エ、エーデルシュタイン様……何か?」
「……いいえ。何でもありませんわ」
「そ、そうですか」
生徒は慌てて黒板へ向き直った。
ルナティアも何事もなかったように羽根ペンを持ち直す。
周囲の生徒たちからすれば、いつも冷静な氷の姫が眉を寄せ、難しい顔で考え込んでいるようにしか見えなかっただろう。
まさか彼女が、茶房でノエルの隣に座るべきか、向かいに座るべきかという問題に、真剣に頭を悩ませているとは誰も想像するまい。
(向かい合わせなら、お顔がよく見えるわね。でも、隣ならもっと近くに……)
例えば、彼がカップを取ろうとして、袖がほんの少し触れたり。
偶然、手と手が重なったり。
そのまま、彼が優しく微笑んで……。
「では、この術式を安定させるうえで、最も注意すべき点は何でしょうか。エーデルシュタイン嬢」
「……距離ですわ」
教室が静まり返った。
「距離、ですか?」
「ええ。近すぎると、その……心臓に負担が……」
そこまで口にして、ルナティアは我に返った。
教師が黒板に描いているのは、魔力循環を安定させるための術式である。
心臓の話など、一度もしていない。
(……何を言っているの、私は!?)
一瞬、血の気が引いた。
しかし、そこは王都に名を馳せる氷の姫。ルナティアは何事もなかったように姿勢を正し、落ち着いた声で答え直した。
「……失礼いたしました。魔力の供給量と術式の安定性、その均衡を保つことですわ。循環経路に過剰な負荷をかけないことが重要かと存じます」
教師は少し不思議そうに首を傾げたものの、正しい答えを聞いて満足したらしい。
「そのとおりです。さすがですね」
教室に小さな感嘆が広がった。
ルナティアは優雅に一礼し、静かに腰を下ろす。
表情は、いつもどおり完璧だった。
(……危なかったわ)
危うく、好きな男性との距離について講義中に語り始めるところだった。
古代魔法の研究において、これほど恥ずかしい失態を演じたことはない。
(お願いだから、少しは落ち着いてちょうだい、私……)
そんなルナティアの心中など知らず、少し離れた席でノエルは教師の説明をノートに書き留めていた。
彼も放課後の約束を楽しみにしていたが、ルナティアほど切羽詰まってはいない。
今朝、教室で再会した銀髪の少女。
王都では近寄りがたい氷の姫と噂されているらしいが、実際に話してみると、どうも噂どおりの人ではなさそうだった。
魔法の腕は確かで、礼儀正しく、負傷した自分のことをひどく心配してくれていた。
それに、お茶に誘うときの彼女は、どこか不器用で、意外に親しみやすく感じられた。
(……もう少し話してみたいな)
あの路地で見せた氷の魔法についても聞きたいし、普段どんな本を読んでいるのかも興味がある。
そんなことを考えながら、ノエルは再び黒板へ視線を戻した。
二人の間にある温度差は、今のところ、かなり大きかった。
*
放課後。
王立学園の敷地内にある茶房は、大きなガラス窓から午後の陽光が差し込む、明るく落ち着いた場所だった。
窓辺には季節の花が飾られ、磨き上げられた木製のテーブルには白いクロスが掛けられている。貴族の子弟だけでなく、学園に通うさまざまな生徒が利用するためか、上品でありながら堅苦しさのない雰囲気が漂っていた。
ルナティアは入口でノエルと落ち合い、給仕に案内されて窓際の二人掛けの席へ向かった。
丸いテーブルを挟んで、椅子が二脚。
当然ながら、向かい合わせだ。
(……そうよね。二人なのだから、これが普通ですわ)
少しだけ安心し、同じくらい残念に思う。
隣に座る勇気など最初からなかったが、それでも淡い期待はあったのだ。
そんな彼女の葛藤など知るはずもなく、ノエルはごく自然に片方の椅子を引いた。
「どうぞ」
「……え?」
「こちらでよかったですか?」
「あ……はい。ありがとうございます」
ルナティアは優雅に腰を下ろした。
外見だけは。
(……椅子を! 私のために、椅子を引いてくださいましたわ!)
もちろん、貴族の男性が女性の椅子を引くことなど珍しくもない。ルナティア自身、社交の場では何度も経験している。
それでも、相手がノエルとなれば話は別だった。
たったそれだけの仕草で、胸の奥が甘く痺れてしまう。
(落ち着くのよ、ルナティア。これは普通の礼儀。深い意味はないわ)
言い聞かせながら、向かい側に座ったノエルをそっと見つめる。
彼は給仕から渡された品書きを、興味深そうに眺めていた。
「へえ、果実茶なんてあるんですね」
「ええ。こちらの茶房では、季節ごとに異なる果物を使うそうですわ」
「それは面白いな。じゃあ、僕はこれにしてみようかな」
「私も……」
同じものを、と言いかけて、ルナティアは思いとどまった。
彼と同じものを飲めば、何となく距離が縮まる気がする。
けれど、自分はいつものハーブティーが好きなのだ。
わざわざ好みを隠してまで合わせる必要はないだろう。
「私は、こちらのハーブティーをお願いいたします」
「香りがよさそうですね」
「ええ。気持ちが落ち着きますの」
「それなら、僕もそっちにすればよかったかな」
ノエルが冗談めかして笑った。
「今日は少し緊張しているので」
「……緊張、ですか?」
ルナティアは思わず顔を上げた。
「はい。伯爵令嬢と二人でお茶を飲むなんて、僕にはあまり経験がありませんから」
(……ノエル様も、緊張していらっしゃる?)
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
自分だけではなかったのだ。
もちろん、彼が緊張している理由は自分とは違うのだろう。けれど、同じように落ち着かない気持ちを抱えていると知っただけで、不思議と嬉しくなった。
「私も……少し、緊張しております」
「そうなんですか?」
「ええ」
少しどころではない。
先ほどから、心臓が休むことを忘れている。
しかし、ノエルはそれを知らないまま、安心したように笑った。
「よかった。僕だけじゃなかったんですね」
その笑顔を見た瞬間、ルナティアは思った。
(……ああ、もう)
どうしてこの人は、こんなにも簡単に自分を幸せにしてしまうのだろう。
注文したお茶が運ばれてくると、二人はまず、先日の襲撃事件について話した。
「改めまして、先日は本当にありがとうございました。アレクランドライト様が来てくださらなければ、どうなっていたか分かりません」
ルナティアが頭を下げると、ノエルは慌てて手を振った。
「そんな、頭を上げてください。僕だって、できることをしただけですから」
「ですが、お怪我まで……」
「もう大丈夫ですよ。治療所で診てもらいましたし、傷もだいぶ塞がっています」
そう言って、ノエルは肩を軽く動かしてみせた。
「ほら、このとおり」
「……無理はなさらないでくださいね」
「はい。あのときは腕を上げただけで痛かったですけど、今は平気です」
ルナティアは、ようやく少し安心した。
教室でも傷が治っていると聞いたが、こうして落ち着いた場所で改めて確かめられたことが嬉しかった。
「それに、最後に賊を足止めしたのはエーデルシュタイン様でしょう? あの氷の魔法、すごかったです」
「アレクランドライト様が隙を作ってくださったからですわ」
「いやあ、僕は木箱をひっくり返しただけですから」
「それが、どれほど勇気のいることだったか……」
「実を言うと、ものすごく怖かったんですよ。あとで思い返したら、よくあんなことができたなって」
ノエルは照れくさそうに頬をかいた。
その率直な言葉に、ルナティアは少し驚いた。
勇敢な人だと思っていた。
けれど、怖くなかったわけではないのだ。
怖くても、助けようとしてくれた。
それが分かると、胸の奥に生まれた温かさは、いっそう深いものになった。
「……それでも、来てくださったのですね」
「放っておけませんでしたから」
ノエルは何でもないことのように答え、果実茶を一口飲んだ。
「……あ、これ、おいしいですね。思っていたより酸味があって」
話題があまりにも自然に変わったので、ルナティアは一瞬、返事を忘れてしまった。
(……ずるいわ)
命の危険を冒してまで助けてくれた理由を、そんなふうにあっさり口にして。
そのうえ、今度は楽しそうにお茶を飲んでいる。
自分がどれほど胸を高鳴らせているか、きっと少しも分かっていないのだろう。
ルナティアはハーブティーを口に含み、どうにか表情を整えた。
「ところで、エーデルシュタイン様」
「はい」
「その……同級生ですし、僕のことはノエルで構いませんよ。家名だと少し長いですから」
「……ノエル」
思わず、名前だけを口にしてしまった。
ノエルが目を瞬かせる。
ルナティアは慌てて姿勢を正した。
「し、失礼いたしました。では、ノエル様とお呼びしても?」
「もちろんです」
(……ノエル様)
心の中で、もう一度呼んでみる。
何と素敵な響きだろう。
彼の今世の名前。
これから何度でも呼べるかもしれない名前。
しかも、本人がそう呼んでよいと言ってくれたのだ。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
「それで、ノエル様。ご実家は、どのようなところなのですか?」
勇気を出して尋ねると、ノエルの琥珀色の瞳が明るくなった。
「山の多い領地です。王都みたいに賑やかじゃありませんけど、景色はきれいですよ。うちは宝石と魔力結晶の鉱山があるので、職人や商人がよく出入りするんです」
「魔力結晶……魔道具の核となる鉱石ですね」
「はい。子供の頃から加工工房に入り浸っていて、職人さんたちにはよく邪魔者扱いされました」
「まあ」
「一度、壊れた魔道具を勝手に分解して、元に戻せなくなったこともあります」
「……それは、大変でしたわね」
「大変でした。父に叱られて、工房の親方にも叱られて、最後には母にも叱られましたから」
ノエルが苦笑する。
その様子が何だか可笑しくて、ルナティアも思わず口元を緩めた。
「でも、どうして動くのか気になって仕方なかったんです。魔力結晶を入れ替えるだけで光の色が変わったり、術式を少し調整するだけで性能が変わったり。ああいうのを見ていると、時間を忘れてしまって」
彼は身振りを交えながら、故郷の鉱山や魔道具の話を続けた。
どんな種類の結晶が採れるのか。職人たちがどんな工夫をしているのか。王都へ来る前、最後に見せてもらった試作品がどれほど面白かったか。
ルナティアは相槌を打ちながら、その表情に見入っていた。
(……こんなお顔をなさるのね)
魔道具の話になると、彼は本当に楽しそうだった。
難しい術式の説明をするときには真剣な顔になり、幼い頃の失敗談を語るときには、少し照れくさそうに笑う。
前世の記憶にある彼とは違う。
姿が違うのはもちろん、育った環境も、好きなものも、これまで歩んできた人生も違う。
そして何より、目の前のノエルは、自分の知らない未来を楽しみにしている。
それが、どうしようもなく眩しかった。
「だから、将来のことで迷っているんです」
「将来、ですか?」
「はい。騎士を目指すか、それとも魔法研究院に進むか。剣を振るうのも好きですし、魔道具の研究も面白そうで」
ノエルはカップを置き、少し困ったように笑った。
「家は兄たちが継ぎますし、僕は自分の道を選べるんです。でも、選べるとなると、今度はなかなか決められなくて」
「……そうなのですね」
ルナティアは静かに頷いた。
その一方で、胸の奥には別の考えが浮かんでいた。
(……でしたら、エーデルシュタイン家でお迎えするという方法も)
伯爵家には、優秀な魔法使いを必要とする仕事がいくらでもある。
研究設備を整えることも、魔力結晶を調達することも、彼の望む環境を用意することもできるだろう。
ノエルが騎士を目指すというのなら、伯爵家に仕える騎士たちのもとで腕を磨いてもらうことだってできる。
何より、伯爵家で働いてくれるのなら。
(……毎日、お会いできるわね)
朝は一緒に食事をして、昼には彼の研究室へ顔を出して、夕方には庭園を散歩する。
研究に没頭している彼のために、お茶と焼き菓子を用意するのもいいかもしれない。
もちろん、彼専用の部屋も必要だ。
研究室の隣に寝室を設けて、いつでも休めるようにして……。
(……あら?)
ルナティアは膝の上で重ねていた指先に、そっと力を込めた。
いつの間にか、伯爵家の一室どころか、彼の生活そのものを自分の都合で組み立て始めている。
(……違うわ)
彼のため。
そう言いながら、結局は自分のそばに置く方法ばかり考えていた。
もちろん、伯爵家で働くことが彼の希望に合う可能性はある。
もし彼自身が望むのなら、喜んで力になりたい。
けれど、まだ本人が望んでもいない未来を、勝手に整えようとしてどうするのだろう。
彼には、彼の人生がある。
進む道を決めるのは、彼自身でなければならない。
(……私が決めてはいけないのよ)
胸の奥には、まだ甘い未練が残っている。
できればそばにいてほしい。
できれば、いつも自分を見ていてほしい。
そんな願いが簡単に消えてくれるはずもなかった。
けれど、前世の彼は、その願いを押しつけられることに疲れ果てたのだ。
七人の少女たちは、彼を幸せにしているつもりで、その自由を少しずつ奪っていった。
そして最後には、彼を死に追いやってしまった。
その記憶は、今もルナティアの胸に深く刻まれている。
(……同じことを繰り返しては、いけないわ)
神の枷は、他人の自由や尊厳を侵害する行為を封じる。
けれど、今はまだ何も禁じられていない。
ノエルに伯爵家で働くことを提案するだけなら、罪にはならないだろう。
それでも、ルナティアはその言葉を飲み込んだ。
今の自分が提案すれば、彼の希望を聞くよりも先に、何とかして伯爵家へ迎え入れようとしてしまうかもしれない。
そんな自分の弱さを、まだ十分に理解していたからだ。
それに、今は彼の未来を決めるための時間ではない。
彼が自分の夢を語ってくれている、そのこと自体が嬉しかった。
「……どちらの道も、素敵だと思いますわ」
「そうですか?」
「ええ。剣を学ぶことも、魔道具を研究することも、ノエル様がご自身で興味を持たれたのでしょう? でしたら、今すぐ一つに決める必要はないのではありませんか」
ノエルは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……なるほど」
「学園では、まだ多くのことを学べますもの。いろいろ経験なさってから、お決めになっても遅くはないと思います」
「確かに、そうですね」
ノエルは肩の力を抜き、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。なんだか、少し気が楽になりました」
「私など、大したことは……」
「そんなことないですよ。僕、どちらかに決めなきゃいけないと思い込んでいたみたいです」
その言葉に、ルナティアの胸が温かくなる。
彼の未来を自分の都合で決めるのではなく、彼自身が選ぶための手助けができた。
ほんの小さなことだけれど、それが嬉しかった。
「それにしても、エーデルシュタイン様は魔法に詳しいんですね」
「多少は学んでおりますけれど……」
「多少、ですか。あの路地で見た氷の魔法、僕にはとても『多少』とは思えませんでしたよ」
「……あれは、必要に迫られただけですわ」
「それなら、必要に迫られた僕は木箱を倒すのが精いっぱいだったので、ずいぶん差がありますね」
ノエルが大真面目な顔で言うものだから、ルナティアは思わず笑ってしまった。
「ふふ……木箱も、十分に役立っておりましたわ」
「そう言ってもらえると助かります。あれ以来、木箱を見るたびに少し複雑な気分になるので」
「まあ、どうしてですの?」
「次に困ったことがあったら、また木箱に頼ることになるかもしれませんから」
今度こそ、ルナティアは声を立てて笑った。
「ふふっ……それでは、木箱を見つけるのがお上手になってしまいますわね」
「そうですね。でも、できれば次は普通に剣で何とかしたいところです」
「それでしたら、剣術の授業も頑張らなくてはいけませんわね」
「はい。木箱に頼らなくて済むように」
二人は顔を見合わせ、もう一度笑った。
それは、ごくありふれた同級生同士の会話だった。
けれど、ルナティアにとっては、何よりも新鮮な時間だった。
好きな人と、同じことで笑う。
どちらかが無理に話題を合わせるわけでもなく、ただ会話が楽しくて、自然に笑みがこぼれる。
そんな当たり前のことが、今までの彼女には遠いものだった。
一方、ノエルもまた、目の前の少女を少し驚いたように見つめていた。
噂に聞いていた氷の姫。
教室ではいつも背筋を伸ばし、誰に対しても丁寧で、滅多に表情を変えない少女。
その彼女が、今は目の前で楽しそうに笑っている。
(……なんだ)
ノエルは、何となく嬉しくなった。
(普通に笑う人なんだな)
考えてみれば、当たり前のことだ。
それでも、噂だけでは分からない一面を知れたことが、妙に嬉しかった。
「……あの、何か?」
視線に気づいたルナティアが、不思議そうに尋ねる。
「いえ。エーデルシュタイン様も、そんなふうに笑うんだなと思って」
「……え?」
ルナティアの動きが止まった。
「すみません。変なことを言いましたね」
「い、いえ……」
(……見られた)
笑ったところを。
しかも、そんなふうに言われてしまった。
(……どうしましょう)
恥ずかしい。
けれど、嬉しい。
嬉しくて、また笑ってしまいそうだ。
ルナティアは慌ててカップを持ち上げた。
しかし、中身はすでにほとんど残っていなかった。
(……落ち着いて、私)
そんな彼女の様子を、ノエルは少し不思議そうに眺めていた。
そのとき、給仕が小さな皿を運んできた。
「お待たせいたしました。季節の焼き菓子でございます」
皿には、黄金色に焼き上げられた小さな菓子が三つ並んでいた。
一つは木の実を練り込んだもの。
一つは香草を使ったもの。
そして、もう一つは、薄く切った林檎を花びらのように重ねた焼き菓子だった。
ふわりと漂う甘い香りに、ルナティアの視線が自然と林檎の菓子へ向かった。
幼い頃から好きな菓子だった。
伯爵邸の料理人が作るものとは少し形が違うが、焼けた林檎の甘い香りは懐かしい。
けれど、三つしかない菓子を自分の好みだけで選ぶのは、少し気が引けた。
「どうぞ、ノエル様。お好きなものを」
「ありがとうございます。じゃあ……」
ノエルは皿を眺め、それからルナティアへ視線を戻した。
「エーデルシュタイン様は、林檎がお好きなんですか?」
「……え?」
「さっきから、そちらを気にしているようだったので」
ルナティアは思わず息を止めた。
(……見て、いらしたの?)
ほんの一瞬の視線だったはずだ。
自分でも意識していなかったような、小さな仕草。
それに、彼は気づいていた。
「……ええ。実は、林檎のお菓子が好きですの」
「それなら、どうぞ」
ノエルは皿を彼女の方へ寄せた。
「僕は木の実の方が気になっていたので、ちょうどよかったです」
「……ありがとうございます」
ルナティアは小さな焼き菓子を取り、そっと口に運んだ。
温かな林檎の甘みと、ほのかな酸味が舌の上に広がる。
おいしい。
けれど、それ以上に嬉しいことがあった。
彼が、自分の好みを一つ知ってくれた。
それも、自分から教えたのではなく、彼が気づいてくれたのだ。
(……こんなことまで、気づいてくださるなんて)
彼女は以前、愛する人のことを何もかも知りたいと願っていた。
その人が誰と話し、何を考え、どこへ向かうのか。
知らないことがあるのが怖くて、すべてを把握しようとした。
けれど、今こうして小さな焼き菓子を手にしていると、別の喜びが胸に広がっていく。
自分が彼のことを知るだけではない。
彼もまた、自分を知ろうとしてくれている。
そのことが、何より嬉しかった。
「おいしいですか?」
ノエルが尋ねる。
ルナティアは、思わず頷いた。
「……はい。とても」
「よかった。今度来たときも、あったら頼んでみましょうか」
(……今度)
また、その言葉だ。
ルナティアは胸の奥が熱くなるのを感じながら、そっと微笑んだ。
「……ええ。ぜひ」
今度。
その何気ない一言が、彼女には何よりの贈り物に思えた。
*
「そういえば、エーデルシュタイン様は、何をしているときが一番楽しいんですか?」
焼き菓子を食べ終えた頃、ノエルが何気なく尋ねた。
「……私、ですか?」
「はい。僕ばかり話してしまいましたから。よかったら、あなたのことも聞かせてください」
ルナティアは返事に詰まった。
何をしているときが、一番楽しいのか。
真っ先に浮かんだ答えは、あまりにも簡単だった。
(……あなたのことを考えているときです)
朝も、昼も、夜も。
彼のことを考えている時間は、何よりも幸せだった。
けれど、さすがにそんなことを初めてのお茶会で口にするわけにはいかない。
(……では、それ以外には?)
自分に問いかけてみる。
すると、不思議なことに、いくつもの光景が浮かんできた。
書庫の窓から差し込む午後の光。難しい術式を理解できたときの喜び。領地の視察で出会った人々の笑顔。
庭師が新しい花を咲かせたと、嬉しそうに報告してくれた日のこと。
どれも、今世の自分が過ごしてきた、大切な時間だった。
「私は……本を読むのが好きですわ」
ルナティアは、少しずつ言葉を選びながら話し始めた。
「特に、古い魔法の術式や歴史に関する書物を読むのが好きです。昔の人々がどのようなことを考え、何を残そうとしたのかを知るのは、とても興味深くて」
「へえ、面白そうですね」
「それから、領地を訪ねることも好きです。収穫の時期には果樹園が賑やかになりますし、職人たちが新しい品を作り出す様子を見るのも楽しいですわ」
「職人さんの仕事を見るのが好きなのは、僕と同じですね」
「……そう、ですわね」
共通点が一つ見つかった。
それだけで、ルナティアの心が弾む。
「屋敷の庭を歩くのも好きです。季節ごとに花が変わって、同じ場所でも少しずつ違う景色になるんですの」
「いいですね。僕の実家にも庭はありますけど、どちらかというと山の方が身近でした」
「山……」
「はい。春になると雪解け水が流れて、谷に小さな花が咲くんです。子供の頃はよく兄たちと歩きました」
ノエルの声は、故郷を思い出しているのか、少し柔らかくなった。
「山を歩いていると、たまに変わった石が落ちているんですよ。兄たちは見向きもしませんでしたけど、僕はつい拾ってしまって」
「……魔力結晶ですか?」
「残念ながら、ほとんどはただの石でした。家に持ち帰るたびに、母にはまた増やしたのかって呆れられましたけどね」
ルナティアは、思わず微笑んだ。
(……可愛らしい)
今のノエルは、幼い頃から魔道具や鉱石に興味を持ち、家族に愛されながら育ってきたのだ。
そんな話を聞いていると、胸が温かくなる。
彼には、彼の思い出がある。
自分の知らない家族がいて、幼い頃に遊んだ場所があり、大切にしている風景がある。
前世の記憶の中には存在しない、今世の彼だけの人生。
(……もっと知りたいわ)
その思いが、自然に胸の奥へ広がった。
かつての自分なら、彼のすべてを知りたいと願うあまり、本人の意思など考えずに調べ上げようとしたかもしれない。
けれど、今は違う。
こうして向かい合い、彼自身の口から聞くことが、こんなにも嬉しい。
知らなかったことを一つ知るたびに、彼との間に小さな橋が架かっていくようだった。
「……エーデルシュタイン様?」
「はい?」
「もしよかったら、今度おすすめの本を教えてもらえませんか?」
ルナティアは目を見開いた。
「……本、ですか?」
「はい。魔法理論の本でも、歴史の本でも。僕もいろいろ読んでみたいので」
「……私の、おすすめでよろしいのですか?」
「もちろんです。エーデルシュタイン様は詳しそうですし、それに、好きなものの話をしているときは楽しそうでしたから」
(…………っ!)
ルナティアの胸が、大きく高鳴った。
今、彼は何と言ったのだろう。
自分が楽しそうにしていたと。
つまり、彼は自分の話を聞いてくれていたのだ。
ただ相槌を打つだけではなく、どんな表情で話していたのかまで見てくれていた。
しかも、彼の方から次の会話を望んでくれている。
「……もちろんですわ」
ルナティアは、できるだけ落ち着いた声で答えた。
「ノエル様がお望みでしたら、ぜひ」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
彼が笑う。
ルナティアも、つられるように微笑んだ。
その瞬間、彼女はふと気づいた。
今日の自分は、彼のことばかり考えていた。
何を話せば好かれるだろう。
どうすれば、もっと一緒にいられるだろう。
そんなことばかり。
けれど、今は違う。
自分の好きなものを話し、彼の好きなものを聞いている。
無理に取り繕わなくても、会話が続いている。
それが、思っていた以上に心地よかった。
(……私、こんな時間が欲しかったのね)
ただ、彼と向かい合って。
同じ時間を過ごして。
知らなかったことを、一つずつ知っていく。
そんな、ごく当たり前の時間が。
*
茶房を出る頃には、空は茜色に染まり始めていた。
校舎の窓には夕日が映り、庭園を渡る風が、昼間よりも少し涼しくなっている。
「今日はありがとうございました。お茶、ごちそうさまでした」
ノエルが笑顔で頭を下げる。
「こちらこそ。ノエル様のお話を伺えて、とても楽しかったですわ」
ルナティアも丁寧に礼を返した。
外見は、いつもどおり落ち着いている。
けれど、胸の内は名残惜しさでいっぱいだった。
(……終わってしまったわ)
あれほど待ち遠しかった放課後が、もう終わろうとしている。
楽しい時間は、どうしてこんなにも早く過ぎてしまうのだろう。
できることなら、もう少しだけ一緒にいたい。
もう一杯お茶を飲んでもよかった。
本の話だって、まだまだできたはずだ。
(……いえ。今日はこれで十分よ)
そう自分に言い聞かせる。
初めてのお茶会なのだ。
それに、彼にも帰る場所がある。
明日の授業の準備もあるだろうし、今日知り合った友人たちとの約束だって、これから増えていくはずだ。
そんな彼の日常を、自分の都合で奪いたくはなかった。
「それでは、そろそろ……」
ルナティアが名残惜しさを隠しながら口を開くと、ノエルがふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ」
「……はい?」
「さっきの本の話ですけど、また教えてくださいね。魔法のことも、もっと聞いてみたいです」
「……ええ。もちろんですわ」
「じゃあ、また明日。教室で」
ノエルは軽く手を振り、校門へ向かって歩き出した。
ルナティアは、その背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。
――また明日。
たった四文字の、何でもない挨拶。
けれど、その言葉は、ルナティアの胸の奥へゆっくりと染み込んでいった。
前世の七人は、彼が離れていくことを恐れていた。
明日も会える保証が欲しくて、彼の気持ちを確かめるよりも先に、居場所を知り、予定を把握し、行動を追いかけ続けた。
そして、彼から安らげる時間を奪ってしまった。
けれど、今は違う。
ノエルは、自分の足で帰っていく。
そして、自分の意思で「また明日」と言ってくれた。
(……ああ)
ルナティアは胸にそっと手を当てた。
嬉しい。
ただ、それだけだった。
彼がどこへ帰ろうと、誰と話そうと、明日また会えるかもしれない。
そんな当たり前のことが、こんなにも幸せだなんて。
(……私、あなたのことを、もっと知りたい)
前世の彼を愛していた。
それは、今も変わらない。
けれど今日、ルナティアは初めて、今世のノエル自身を少しだけ知ることができた。
魔道具の話になると目を輝かせること。
故郷の山を大切に思っていること。
将来の夢を一つに決められず、少し迷っていること。
そして、木箱をひっくり返した話を、あんなにも楽しそうにすること。
どれも、知らなかった。
もっと知りたい。
彼の好きなものも、苦手なものも、夢も、悩みも。
いつか、彼の方から話してくれるようになれたら。
(……そのときは、どんなに嬉しいでしょう)
ルナティアは、遠ざかっていく背中へ小さく手を振った。
「……また明日、ノエル様」
誰にも聞こえないほどの声で呟くと、自然に笑みがこぼれた。
それは、王都で氷の姫と呼ばれる少女には似つかわしくない、年相応の柔らかな笑顔だった。
一方、校門へ向かっていたノエルも、ふと足を緩めていた。
(……不思議な人だったな)
最初は、もっと近寄りがたい人だと思っていた。
けれど、話してみれば、魔法や本が好きで、故郷の話に楽しそうに耳を傾けてくれる。
自分が将来のことで迷っていると話したときも、彼女は一つの道を勧めるのではなく、ゆっくり考えればよいと言ってくれた。
その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
それに、木箱の話をしたときの、あの笑顔。
(……あんなふうに笑うんだ)
ノエルは小さく笑った。
教室では少し近寄りがたく見えるのに、二人で話していると、年相応の少女らしい一面が見えてくる。
林檎の焼き菓子を譲ったときも、あんなに嬉しそうな顔をしていた。
考えてみれば、今日は自分の話ばかりしてしまった気もする。
それでも彼女は、楽しそうに聞いてくれた。
(……次は、もう少しエーデルシュタイン様のことも聞いてみよう)
明日、教室で会ったら、どんな話をしよう。
おすすめの本を聞くのもいい。
それとも、今日話しきれなかった魔道具の話をしてみようか。
そんなことを考えている自分に気づき、少しだけ可笑しくなった。
どうやら、彼女とのお茶会は、思っていた以上に楽しかったらしい。
「……また明日、か」
ノエルは夕暮れの空を見上げ、軽い足取りで歩き出した。
*
その頃、ルナティアは帰りの馬車の中で、早くも明日のことを考えていた。
(……本をお貸しするなら、まずは彼のお好みに合いそうなものを選ばなくては)
魔法理論の入門書。
古代術式の解説書。
魔力結晶の研究資料。
彼が興味を持ちそうなものを、いくつか選んでみよう。
もちろん、押しつけるつもりはない。
あくまで、彼に気に入ってもらえるものを選ぶのだ。
(……三冊くらいがよいかしら)
少し考える。
(五冊……いえ、十冊あれば、きっとお気に召すものが……)
そこで、ルナティアはぴたりと思考を止めた。
(……十冊?)
初めて本を借りる相手に、十冊。
しかも、すべて自分が選んだもの。
それでは、いくら何でも重すぎる。
(……いけないわ。また張り切りすぎている)
ルナティアは頬を押さえ、小さく息を吐いた。
けれど、どうしても口元が緩んでしまう。
明日、彼に会える。
それだけで、明日という日が待ち遠しい。
(……まずは一冊ね)
彼が興味を持ちそうなものを、丁寧に選ぼう。
今日、ノエルは魔道具の仕組みに興味があると話していた。
それなら、魔力結晶の性質や加工方法について書かれた本がよいだろうか。
あまり難解すぎず、それでいて彼の知的好奇心を刺激するもの。
できれば、読んだあとに二人で感想を話し合えるような本がいい。
(……そうだわ。あの書棚に、ちょうどよい本があったはず)
思い当たる一冊が浮かんだ途端、ルナティアの胸が弾んだ。
早く屋敷へ帰って確かめたい。
もし彼が気に入ってくれたら、次の一冊を。
その次も。
いつか、お互いに好きな本を貸し合えるようになれたら。
(……ふふ)
馬車の窓に映る自分の顔が、少しだけ笑っていた。
王都で氷の姫と呼ばれる伯爵令嬢は、そんな自分の表情を、しばらく不思議そうに眺めていた。
今日、ノエルは自分の好きなものを話してくれた。
自分の好きなものも、聞いてくれた。
何より、彼は笑っていた。
自分の意思で、自由に。
(……今度こそ)
ルナティアは静かに目を閉じた。
(あなたが笑っていられる未来を、私も一緒に歩めたら)
その願いが叶うかどうかは、まだ分からない。
けれど、今はそれでよかった。
明日、また会える。
その約束があるだけで、十分だった。
――少なくとも、今夜の彼女にとっては。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




